「自由の樹は時に愛国者と暴君の血によって養われねばならない。それが自然の肥料である」──トーマス・ジェファーソンがスミス宛に書いた手紙(1787年)
自由とは、安定した遺産ではなく、警戒と対抗によって獲得されるものである。それは生きており、渇きを覚える存在だ。制度によって継承されるのではなく、民衆の信念と問い、抵抗、そして時には血と痛みによって潤されるものだ。専制政治は自壊しない。それが必要とするのは、人々が反抗の言葉を忘れ、権力者が監視されることを拒む力を維持することだけだ。軍靴や鉄条網など不要で、人々の疲弊、沈黙、そして服従があれば十分である。
そして、いつの日か記憶が蘇り、沈黙が破られ、人々が顔を上げてその代償を問う時が来る。頼総統よ、忘れないでほしい。あなたが得たのは四割の民意であって、真理ではない。四割の得票はあなたに節制と謙虚さの責任を与えたのであり、抑制と制度的制衡を踏みにじる免罪符ではない。これは民主の寛容であり、歴史と民意に対する畏敬の念をもって応えるべきであって、「勝者総取り」の傲慢な態度を取るべきではない。
これは敵意による警告ではない。むしろ、自由と共に銃口で黙殺され、30年間封印された歴史の記憶そのものである。
2025年4月21日午前7時35分(バチカン時間)、教皇フランシスコが逝去した。世界中が追悼の静寂と祈りに包まれた。その約4時間後、台北時間午後5時43分、頼清徳総統はSNS「X」に追悼の投稿を行った。
「私は台湾国民を代表して、カトリック共同体および教皇フランシスコ陛下を悼むすべての方々に、心より哀悼の意を表します。我々は、彼が生涯をかけて取り組まれた平和、世界的な連帯、そして弱者への思いやりの精神から引き続き啓発を受け続けます」
頼総統が引用したのは、教皇が一貫して提唱してきた平和・団結・慈悲の言葉である。それらの言葉は神聖で重く、普遍的でありながらも具体的な意味を持つ。しかしながら、彼は国家元首としての本来の責任──剣を置き、復讐を止め、手を差し伸べ、平和の言葉を紙の上だけでなく、民衆の生活の場へと持ち込み、連帯の重責を自ら担うこと──からは目を背けていた。
翌朝6時30分、総統府での国旗掲揚式が終わった後、半旗が静かに降ろされた。この信仰に敬意を表す国家儀礼は、国民にとって、教皇庁との別れを意味するだけでなく、2か月以上前にバチカンに送られた一通の手紙を思い起こさせるものでもあった。
2025年1月末、頼清徳総統は「世界平和の信奉者」として装い、教皇フランシスコへの手紙を送った。第58回「2025年世界平和の日メッセージ」で教皇が呼びかけた「寛容、公正、そして平和」の理念に応えると述べていた。 (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
だが、書簡の送付前後での彼の行動は、その約束とは著しく矛盾していた。彼は「平和」を口にしながらも、対話の前に粛清を行い、「寛容」を語りながら赦しを見せず、まず訴追に踏み切った。「公正」を掲げながらも、正義は未だ到来せず、敵味方の線引きはすでに完了していた。「民主主義」の名を借りつつ、憲政の安定も見ぬうちに党の意向が優先され、「価値」を語るも、信念なきスローガンだけが先行した。この地にあるのは、もはや理想の政策論争ではなく、空虚な言葉と苛烈な現実との生死を賭けた対決である。
本日、筆者は頼清徳が教皇に宛てたその手紙を自ら開き、言葉の上に施された金箔をはがし、台湾国民にその偽善と混濁の正体を明らかにしたい。見せかけの装飾に包まれたその文面には、頼政権の「六重の統治上の虚偽」が隠されている。それぞれは信仰の羽毛を纏いながら、その内には鋭利な刃を秘めているのである。
一、頼清徳は「台湾は世界平和の舵取り」と称すが、国内では分裂を生み、民主を抑圧している
教皇フランシスコは『世界平和の日メッセージ』において、こう強調している──「平和の基盤とは社会の和解であり、社会を分断と憎悪に陥れることではない」。
しかし、頼清徳の施政はこの信念とは正反対の道を選んでいる。
彼は亀裂を癒すのではなく、分断の蔓延を放置し、憎悪を和らげるのではなく、それを政権運営の燃料として利用している。
彼は「自由を守る」と言いながら、2025年1月2日、柯文哲氏を金銭授受も対価も証拠もない状態で勾留させた。これは法治の貫徹ではなく、最も明白な「司法迫害」の事例である。司法はすでに、頼清徳が政敵を狩り、社会に憎しみを生むための道具と化している。彼が言う「自由」とは、もはや憲政によって保障された権利ではなく、異論を封じるための枷に変貌している。
彼は「民主主義の新たな台湾を築く」と語った。しかし2025年2月1日、民進党は国民党の立法委員に対して大規模なリコール運動を仕掛け、選挙結果を覆し、立法院の主導権を強引に奪おうとした。これは民主の深化ではなく、「政治的粛清」の教科書のような所業である。リコール制度は、頼清徳が異分子を排除し、台湾を分裂させるための鋭利な手段と化した。彼の「民主」は、もはや国民が未来を選択する権利ではなく、自身の都合で改変可能なツールとなっている。
彼は「台湾は世界平和の舵取り」と唱えるが、平和を叫ぶ一方で、対立を煽り、青(国民党)と緑(民進党)を敵対させ、民族間の対立まで煽動している。これは平和の実践ではなく、対立を演出する政治ショーに過ぎない。「平和」は抑圧を覆い隠し、清算を美化するための甘言に堕している。彼の語る「平和」とは、憎悪を乗り越えるための価値ではなく、分裂戦略を飾るための華やかな覆面である。
もし本当に平和を信じるなら、寛容と和解を推進すべきであって、政治的清算で権力を守るべきではない。頼清徳は「平和の舵取り」ではなく、むしろ分裂を生み出す独裁者そのものである。
二、頼清徳は「寛容と和解」を語るが、国家権力で異論を弾圧している
2025年の「世界平和の日メッセージ」で、教皇フランシスコはこう訴えている── (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
「アベルの血のように、我々は救いを求める切実な声を天に届けたい。この声は決して沈黙させられてはならない。土地を搾取し、隣人を抑圧する不正な行為は、聖ヨハネ・パウロ二世が述べた『悪の構造』に他ならず、それは少数の不正からではなく、複雑に絡み合った共謀関係から生まれるのである」。
だが、頼清德はまさにその「カインの道」を歩んでいる。
彼は対話を選ばず、粛清を選んだ。赦しではなく、魔女狩りを選び、民主ではなく、独裁を選んだ。彼の狙いは、柯文哲を「選挙で敗北させること」ではなく、「すべてを奪うこと」であった。
検察と調査機関が政治闘争の手先となったことで、柯文哲の政治生命は事実上「死刑判決」を受けたに等しい。メディアが彼の声を一斉に封殺し、本来の野党は発言の場を完全に奪われた。司法制度が網を張り巡らせる中で、柯文哲は抵抗の術を持たず、権力の祭壇に捧げられる犠牲となった。これは公正な競争などではなく、勝者が「絶対に揺るがぬ体制」を築き、敗者をその肥やしとする政治ゲームに他ならない。頼清徳は「カイン」としてその役を演じ、柯文哲は否応なく「アベル」となった。
アベルの血が大地に染み込んだ時、神はカインに尋ねた。「お前の弟はどこにいるのか?」カインは答える。「知らない。私は弟の番人なのか?」柯文哲やその他の異論者が司法に追われ、野党の声がかき消され、台湾の民主主義が一党独裁に近づいていく中で、再びこの問いが投げかけられる──「お前の民はどこにいるのか?」そして、頼清徳の答えもまた、カインと同じである。そこには悔いも、憐れみもなく、あるのは冷淡な否認だけである。彼の「寛容」は、派閥の長老たちにしか向けられない。だが、歴史はすべてを記録する。アベルの血は沈黙しない。正義の叫びは埋もれず、「悪の構造」はいずれ崩れ落ちる。頼清徳もまた、カインと同様に、歴史の法廷で裁かれることになるだろう。 (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
2024年12月26日──ちょうど柯文哲に対して懲役28年6か月という重刑が求刑されたその日、長年の債務を返済せず、数々のイメージスキャンダルを抱える「離党・離流(民進党新潮流派を離れた)政治の古参」が、世論も歴史も恐れず、台北市内の高級レストランに姿を現した。そこには、台北地検の検察官5名が彼と共に夕食を共にする姿があった。それは、長い時間をかけて周到に準備された晩餐会であり、誰もがその「大物」が席に着くのを待ち構えていた。彼が席に着いたとき、その動作には自然さと落ち着きが漂い、まさに「局の中の人間」のようであった。その夜、良心は薄切りにされ、フォークと共に口へと運ばれていった。咀嚼はなかった。ただ、無言の嚥下のみが続いた。テーブルはもはや「テーブル」ではなく、祖先の墓石のような重みを帯びていた。料理は料理ではなく、煮えたぎる人心そのものであった。その晩の酒は、酒ではなく、押し殺された罪の象徴だった。すべての料理が「合図」であり、すべての沈黙が「メッセージ」であった。この食事会は偶然などではなく、精緻に設計された「祝賀会」であった。出席すれば、それだけで「中の者」として扱われ、現場に居れば、その名は無言の名簿に記録される。それは墨もペンも、宣誓も不要の「血判状」であり、ただ乾杯と頷き、沈黙だけで成立する。かつて、これほど完璧に権力によって仕組まれた晩餐があっただろうか。そこは法律の場ではなかった。しかし、まさにその場で、法律の未来が決められていたのである。
仮にこの晩餐が本当に「私的な集まり」であったとしても、本来ならば問題とされないだろう。だが、この会合は、時も、文脈も、組み合わせもすべてが「誤っていた」。もし司法が食卓の会話や乾杯によって影響されるのであれば、そこにあるのは「倫理の過失」などではなく、「制度の崩壊」である。
だから、我々が問うべきなのは、もはや「この会合が適切だったか」ではなく──
それが「無言の政治的報酬」を象徴していないか?
それは、民衆党主席への起訴が、純粋な法律行為ではなく、政権による異端排除のための「新たな東廠(秘密警察)」となってはいないか?
その長年頼清徳に庇護されてきた「旧友」は、今や「報酬の伝達者」「忠誠の使者」として暗躍しているのではないか?
頼清徳は表に出ていなくても、その影は、捜査方針や罪名の調整において、静かに、そして確かに動いている。
司法が会食によって報奨され、密会によって誘導され、そして選択的な起訴が政敵を排除するための道具へと変貌したとき──その瞬間、政治と法の境界線は完全に溶け合い、国家の根幹を揺るがす危機が始まる。もはやこれは一つの事件の問題ではなく、体制全体の崩壊にかかわる問題である。この日、私たちが目にしたのは単なる柯文哲の起訴状ではない。そこには、司法が政治の祭壇に供えられた全体像──国家の中枢神経が、静かに、しかし確実に引き裂かれていく光景が浮かび上がっていた。あの晩餐のテーブルは、食事の場などではない。それは「犠牲の祭壇」であった。司法が政敵を切り捨てる刃となり、権力の宴席に添える料理と化すとき、私たちはもはや沈黙を選ぶことはできない。
この瞬間、声を上げなければならない。特定の誰かのためではない──制度の潔白と尊厳のために。
この晩餐会が記録したのは、社交の出来事などではなく、一つの国家の神経系が音もなく切断されていく過程である。
私たちの民主主義は、今まさに、権力の祝宴によって食い尽くされようとしている。
三、頼清徳は「正義、憐れみ、謙虚さ」を掲げながら、国民党に対して大規模なリコールを仕掛けた
教皇フランシスコは『世界平和の日メッセージ』の中で、次のように述べた。「真の平和は、公正・憐れみ・謙虚さから生まれ、抑圧・報復・憎しみからは生まれない。対立には赦しと対話をもって応じ、社会が愛と正義の中で共存できるようにしなければならない」
しかし、頼清徳の実際の行動は、その精神とはまったく正反対である。 (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
口では「正義を行う」と言いながら、実際には「青い鳥(民進党支持者)と黒い熊(親政権系のネット勢力)」を使って国民党に対して大規模なリコール攻撃を仕掛けた。こうした「正義」は、正義の実現ではなく、異論を排除するための刃でしかない。民進党に従わぬ者は、たちまち「違法」「売国」「親中」「赤色浸透」「外国勢力」などという荒唐無稽なレッテルを貼られた。一方で、頼清徳の周囲ではスパイ疑惑が渦巻き、総統府の顧問でさえ、中国側に国家機密を漏洩した疑いが浮上している。これはまるで砕けた銅鏡が、権力がいかにして言葉の詐術で真実を歪めるかを赤裸々に映し出しているかのようである。根拠のない中傷と、自己矛盾に満ちた論理が交錯する中で、一つの現代的悲喜劇が形成されているのだ。
頼清徳は、嘘の中で「正義」を高らかに歌い上げ、鉄と血のリズムで異論を徹底的に潰していく。立法院で敗北したその腹いせに、彼は有権者の正当な権利を「粛清ショー」へと変えた。大規模リコールは、もはや民主主義の象徴ではなくなった。大統領が議会で多数を取れなかったからといって、リコール制度の欠陥を利用して、個々の立法委員の評価とは無関係にすべての異分子を排除しようとしているのである。
さらに滑稽なのは、彼が2024年の国慶節の演説で、「立場が違っても包容しなければならず、意見が異なっても共に歩むべきだ」と力強く語ったことだ。しかしその言葉は──野党指導者が抑圧され、国民党議員が全面的にリコールの標的となり、司法が政権の道具と化している現実の中では──民主主義への最大の皮肉となっている。それは「偽りの包容、真の弾圧」でしかなく、異論者を頼政権の「審判対象」へと仕立て上げる政治劇だ。その美辞麗句は、権力の冷酷な運用を覆い隠すための戦略に過ぎない。頼清徳が行っているのは、教皇が説いた「共に船を漕ぎ、真心で関わる」精神とは完全に相反している。彼が築こうとしているのは、「彼だけが勝者」であるゲームのルールである。しかし国民は、そのトリックを見抜いている。このゲームは、やがて誰かがテーブルをひっくり返す日を迎える。果たしてその時、彼は「青い鳥(民進党支持者)」と「黒い熊(親政権系のネット勢力)」で身を守ることができるのだろうか?
頼清徳は口を開けば「憐れみの心を持つべきだ」と語るが、現実には貧富の格差が広がるのを放置し、若い世代は高騰する住宅価格と停滞した賃金の間で苦しみ続けている。彼は住宅投機を取り締まると約束してきたが、2024年の国慶節演説からすでに半年以上が経過したにもかかわらず、市場では依然として実効性のある政策は見られない。住宅価格は依然として高騰を続け、生活コストも上昇の一途をたどり、庶民層の生活負担は日増しに重くなっている。結局、「憐れみ」は政治的なスローガンに堕し、選挙用の美辞麗句にはなっても、苦しむ人々の扉を開くことはない。
台湾の不動産市場の危機は、単なる需給の不均衡ではなく、長年にわたる投機的な取引、土地の囲い込み、不均衡な開発によって引き起こされた構造的なゆがみである。このゆがみによって、価格メカニズムはゆがめられ、若年層や中低所得層は「剥奪された世代」へと追いやられている。投資家が殺到すれば、需要曲線は人工的に右へと押し出され、住宅価格は際限なく上昇し、やがてバブルを形成する。この過程は市場の自然な調整ではなく、明らかに政策の失敗と監督不在の結果である。 (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
もし市場の自律にのみ依存すれば、建設業者や財閥が価格を操り、巨額の利益を得る構図は変わらない。現在政府が取っている対処療法──たとえば、中央銀行の預金準備率引き上げ、利上げサイクル、融資上限の引き下げ、財政部による累進的な不動産税や空き家税、土地・建物の合算課税制度、内政部による「実勢価格表示制度2.0」、行政院による賃貸補助の拡充など──では、この市場の構造的なゆがみを根本から解決することはできない。
このような深刻な市場のゆがみに対し、もはや市場の自己修正機能だけに頼って合理的な需給バランスを取り戻すのは困難である。本当の解決策は、制度を根本から再構築することであり、バブルの温床を断ち切る徹底的な改革が求められる。この改革の戦いにおいて、政府の介入は不可欠であり、「国家住宅発展部」のような専任機関の設置こそが、最も効果的な解決手段となる。
しかし、蔡英文政権の8年間の任期が終わったいま、残されたのは称賛されるような偉業ではなく、ますます重くのしかかる庶民の生活苦だけである。数字を見れば一目瞭然だ。2016年の全国不動産価格指数は73.74だったが、2024年5月19日時点で139.09まで上昇している。上昇率は(139.09 - 73.74)÷ 73.74 × 100 = 88.62%で、住宅の価格が88.62%も暴騰し、価格はほぼ倍増した。この結果、「手が届く住居」という基本的人権は、今や幻となってしまった。
同様の矛盾は、エネルギー転換の分野でも繰り返されている。
台湾電力(台電)は過去8年間で電気料金を4度引き上げ、累計で35%もの値上げとなった。これは馬英九政権時代の13.6%を大きく上回る。さらに悪いことに、この8年間で台湾では度重なる大規模停電が発生している──2017年8月15日(大潭発電所の全機停止)、2021年5月13日および17日(興達発電所の事故)、2022年3月3日(興達機組の離脱)などがその例である。
一方、日本、韓国、アメリカ、フランスなど各国は、安定供給と低炭素排出という二重の目標を達成するために、原子力発電の再稼働や拡張を進めている。だが、民進党は依然として「2025年脱原発」という政治的信念に固執し、台湾を世界の気候変動対策パフォーマンス指数(CCPI)において2024年時点でワースト8位にまで落ち込ませた。
電気料金の上昇は、生活のあらゆる面に波及する。たとえば、全国チェーンの「正中排骨飯(排骨弁当)」の価格は、2016年5月20日時点では70元だったが、2024年5月20日には100元まで上昇し、わずか8年で42%もの値上げとなっている。この数字は単なる冷たい統計にとどまらない。私たちが毎日食べる一食ごと、電気メーターを確認するたびに感じる鼓動であり、日々の暮らしに密着した「実感」である。最も恐ろしいのは、突然の大嵐ではなく、日々じわじわと続く値上げの波である。最も危険なのは、津波のような災害ではなく、未来への希望が静かに失われていくその過程なのである。
そして今、頼清徳はこの「熱したバトン」を手に取った。電気料金は再び引き上げ寸前まで迫り、「非核家園(脱原発)」というユートピア的理念は、ついに国民の税金によって、その破綻の穴を埋められようとしている。 (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
もし、頼清徳が本当に国民を思うなら、住宅投機を終わらせ、投機筋に市場を操らせることなく、電気料金を合理的に保ち、民進党の失敗したエネルギー政策のツケを国民に押し付けるべきではない。若者たちの未来を築くべきであって、高騰する住宅価格と物価のダブルパンチでその希望を打ち砕くようなことがあってはならない。
同胞たちよ、これは他人の物語ではなく、私たちの食卓、私たちの子供たち、私たちの明日に関わることである。歴史は沈黙する者を憐れまず、集団の怒りだけが高壁を揺り動かすことができる。
2012年2月29日、民進党新潮流派の重要人物が台湾糖業公司の土地を不正廉売し、国家に巨額の損害を与えたとして、台中地方法院の第一審で背任罪により懲役3年10か月の判決を受けた。上訴審である2013年3月13日、台湾高等法院台中分院はこの判決を支持し、刑が確定した。その後、被告側は2013年4月8日に「新たな証拠」を理由に再審を請求したが、2014年3月26日、台中高等法院の再審により刑期は9か月へと減刑され、判決は確定した。だが、これは終わりではなく、司法的請求の始まりであった。2018年、台中高等法院は被告と台湾糖業元資産部長に対し、1億1,796万元以上の損害賠償を命じた。これは、低賃金労働者にとって実に300年分に相当する金額である。
ところが、判決から6年以上が経過しても、この1億を超える民事賠償金は未だに回収されていない。さらに驚くべきことに、明確な裁判文書が存在し、民事上の債務が確認されているにもかかわらず、財産の差し押さえは一度も行われていない。これは技術的な困難や債務の消滅によるものではなく、行政院、経済部、そして裁判所の執行部がいずれも積極的に回収を行っていないからである。まるで「集団で眠ったふりをしている官僚迷宮」のような体制であり、責任はあるのに誰も責任を取ろうとしない。この1億を超える金額が取り戻せないという事実は、「政治力さえ強ければ、法律など小さくできる」と国民に告げているようなものである。一般市民が国に税金を滞納すれば、すぐに財産を差し押さえられるのが常である。しかし、権力の庇護を受ける者に対しては、司法の剣は鈍くなる。彼がその債務を「居直って返済せず」、しかも今なお政界で暗躍している現状は、司法の機能不全か、それとも政治的庇護の象徴であるか──。この未回収の巨額賠償金ひとつを見ても、制度がいかに権力の前で選択的に沈黙するかが明らかである。
しかし、これは単なる1億元を超える財政上の悬案ではない。それは、国家の法治と社会の良心の間に横たわる、熾烈な試練の炎である。燃やされているのは帳簿や数字だけではない。台湾がなお、公平と誠実の最低限の原則を守る勇気を持ち得るか──その意志が、試されているのだ。もし頼清徳がこの件について明確な立場を示すことなく、かつて自らと共に新潮流の時代を築いた「政界の同志」が公金を踏み倒し、国庫を私物化しても追及しないのであれば──彼の「清廉なイメージ」もまた、権力によって塗られた偽善の装いに過ぎないことになる。それは、すでに権勢や陣営によって司法の基準が選別されていることを隠すための、政治的な演出に過ぎない。 (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
頼清徳の語る「憐れみ」とは、人民に向けられた温情ではなく、特権階級への庇護である。彼の「憐れみ」は、公義に基づいたものではなく、派閥権力の護符である。かつて同じ派閥に属した大物たちに対しては、彼の「憐れみ」は極めて丁寧で徹底している。たとえ美女に囲まれ、高級車を乗り回し、夜ごと宴を楽しもうとも──たとえ国家に対して巨額の債務を負っていようとも、国庫に損害を与えていようとも──彼は沈黙を選び、庇護を選び、徹底的にかばい続ける。派閥を離れた「脱党の長老」にとって、憐れみとは「投資」であり「保険」である。かつて貢献した者には、「忠誠」さえ保てば富と栄光は揺るがない。「正しい陣営」に立ちさえすれば、どれだけ違法行為をしようが、どれだけ汚職を重ねようが、どれだけ国家に損失を与えようが──「身内」である限り、司法は「慎重に考慮」し、検察は「注意深く処理」し、民進党寄りのメディアは「意図的に無視」する。なぜなら、彼らの存在は政権の維持にとって欠かせないからだ。彼らの富は政権の保険であり、彼らの腐敗は「政権にとって無害である限り」咎められない。これは「憐れみ」ではない。それは「政治取引」である。たとえば、新潮流派の重鎮である鄭文燦の汚職事件は7年も引き延ばされ、世論の圧力にもかかわらず、検察は2度も不起訴として処理した。このような政治運用を行っておきながら、「藍白合作(国民党と民衆党の協力)」を「政治的な利益分配」と非難するなど、滑稽の極みである。
頼清徳は「謙虚な心を持つべきだ」と繰り返し語るが、台湾の8割以上の国民が「死刑廃止」に反対しているという明確な民意に対して、彼は耳を塞ぎ、目を閉ざした。被害者遺族の法廷外での慟哭がこだまする中、社会全体が不安の影に覆われているにもかかわらず、彼は自らが決めた道を一人黙々と歩んでいる。正義のためではなく、少数の特定勢力の意向に迎合するために──。かつて彼を信頼していた国民は「雑音」として無視され、正義を求める遺族は、彼の沈黙によって再び傷つけられている。
また、頼清徳は「民進党は謙虚にすべての国民の声に耳を傾けなければならない」とも語っていたが、2024年の総統選挙において得票率がわずか4割に留まり、立法院では少数与党に転落したにもかかわらず、彼は民意の選択を受け入れようとはしなかった。むしろ彼は、国民党と民衆党が共同推進する「国会改革法」「憲法訴訟法」「財政収支法」「選挙・罷免法」などの改正案に強硬に反対し、さらには行政機関を通じて憲法訴訟を提起し、立法院の監督機能を骨抜きにしようとした。
行政権を憲政の限界を越えるほどに膨張させようとするその姿勢に、どこに「謙虚な傾聴」があるというのか?それは明らかに、専制の予行演習であり、弾圧の序章である──。これが民進党の頼清徳である。表向きは最も感動的な言葉を語りながら、裏では最も冷酷な行為を実行する人物──。
四、頼清德は『価値外交』を唱えるが、台湾の国交国は減る一方である
ローマ教皇フランシスコは『世界平和の日メッセージ』において、「より裕福で繁栄している国々は、自らがエコロジー債務を負っていることを認識し、返済能力のない国々に対して可能な限り免除を行うべきである」と厳しく警鐘を鳴らした。
しかし、頼清徳氏はこれとは対照的に、「価値外交」や「栄邦計画」を声高に称賛し、「長年にわたって友好国の繁栄発展を支援し、独自の対外援助経験を積み重ねてきた」と主張した。
だが、現実はまったく異なる。蔡英文政権の8年間で、台湾の国交国は22か国から12か国へと激減した。サントメ・プリンシペ、パナマ、ドミニカ共和国、ブルキナファソ、エルサルバドル、ソロモン諸島、キリバス、ニカラグア、ホンジュラス、ナウルなどが次々と中華人民共和国と国交を樹立し、台湾の国際的な活動空間は急速に狭まっている。
もし本当に民進党の「価値外交」が成果を上げているのであれば、なぜ国交国の数が半減したのか?もし「友邦の繁栄を支援してきた」というのが事実であるならば、なぜこれらの国々は次々と北京の懐に飛び込んでいるのか?口を開けば「積極的な外交推進」と唱える一方で、現実には国際的な版図が縮小の一途をたどっている──これこそが強烈な皮肉である。 (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
頼清徳氏の「価値外交」とは、実のところ単なるスローガンに過ぎず、台湾がいま必要としているのは、有能とは言えない民進党の話術ではなく、現実的かつ具体的な国際戦略なのである。
五、頼清德は『地域の平和と安定を守る』と述べながら、中国の軍事的圧力に沈黙している
教皇フランシスコは『世界平和の日メッセージ』の中で明確に警告している──「文化的・構造的な変革が必要である。あらゆる対話の拒否、そして巨額の資源を軍備に投じることは、人類全体の生存に対する脅威である」と。
しかし、頼清徳はこれに背を向け、台湾を一歩ずつ対立と衝突の深淵へと追い込んでいる。
彼は「戦争に勝者はいない」と叫びながらも、北京との対話の扉を閉ざし続け、鋭く攻撃的な言葉で互いの信頼を徹底的に破壊し、中国軍機の台湾周辺飛行や艦隊の取り囲みを招く格好の口実を与えている。誤解と緊張の連鎖が加速し、台北はまさに嵐の中心となっているのに、彼はその拡大を放置し、オリーブの枝を差し出すことすらしない。
頼清徳は「平和は値段では計れない」と高らかに掲げるが、彼の言動は常に対立をあおり、ついには台湾海峡に架かっていた最後の信頼の橋までもを瓦礫に変えた。「平和」という言葉が、もはやその本来の意味を失い、実は真の意図を覆い隠すスローガンへと堕ちてしまった今、彼のあらゆる「分断行為」は、取り返しのつかない衝突に火をつける導火線となっている。
本当の平和とは、敵意を以て「強硬さ」を装うのではなく、粘り強い対話と意思疎通によって誤解を解き、信頼を築くことである。だが頼清徳はその対話の扉を閉ざし、軍拡競争という巨大なハンマーを振りかざしている。彼が口にする「平和」とは、実のところ「戦争の前奏曲」であり、「戦争を促進する道」である。教皇の訴える対話と信頼こそが、衝突を解決する唯一の処方であり、軍備の削減こそが人類の未来を守るための最善策である。頼清徳の偽善と失策は、台湾を華やかなスローガンと破滅の狭間でさまよわせ、国民に終わりなき不安だけを残している。
習近平にとって、「制度の違い」はあっても「両岸が同じ国家・民族に属する」という客観的事実は変わらない。したがって、彼は外部勢力の介入に断固として反対し、西側諸国による台湾問題への関与を制止しようとするだろう。
それにもかかわらず、頼清徳は「地域の安定を守る」と繰り返し主張しながらも、納税者の血と汗の結晶を、戦略的価値の乏しい二級兵器に投じ続けている。一方で、台湾の防空優勢を取り戻し、遼寧号・山東号・福建号という中国の3大空母戦闘群を台湾海峡の向こう側へと押しとどめる「護国の翼」──F-35ステルス戦闘機の導入については、いまだに前進の兆しが見えない。このような「量で勝負し、質を欠く」短絡的な防衛戦略は、防衛予算を無駄に消費するばかりか、台湾をより高コストかつ危険な軍拡スパイラルへと引きずり込んでいる。 (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
2025年4月9日、米国が32%の高関税を発動し、台湾の輸出が深刻な打撃を受けたその日にすら、頼清徳は「護国神山」とも称されるTSMC(台積電)をアメリカに差し出しながら、その重要な交渉カードを用いて、F-35A型20機とF-35B型10機の配備という決定的な空軍力を獲得しようとはしなかった。この計画さえ実現すれば、第一列島線における台湾の制空権は鉄壁となり、中国の空母戦闘群、075型強襲揚陸艦、072A型上陸艦隊は、もはや海峡中線を越えることなどできなくなる。戦略的均衡は一気に台湾側へと傾き、同時に台湾と米国の貿易赤字問題の緩和にも貢献できたはずである。
台湾海峡と太平洋をまたぐこの二重の地政学的な戦いの中で、頼清徳が見せるあまりにも稚拙な戦略判断──それは国家を統治する資格を自ら放棄するに等しい。このような人物を大統領に選んでしまったことは、言葉にはならぬ「静かな悲しみ」である。歴史は、このような致命的な誤算を決して許しはしない。私たち台湾人が取るべき道はただ一つ──知恵と勇気をもって、平和と安全を手に入れるための「切り札」を最大限に活用し、運命の盤面を自らの手でひっくり返し、未来の主導権を奪い返すことだ。
台湾の人々は、今こそ自らに問いかけるべきである。
2022年2月24日に始まったロシア・ウクライナ戦争──果たして引き金を引いたのはクレムリンだったのか、それともキエフが追い詰められた末の反撃だったのか?
ウクライナが「西側諸国への不信」という懐疑を捨て、完全にその安全保障に依存した瞬間から、戦火は避けがたい運命となった。一方の台湾も、もし「対米不信論」を完全に捨て去り、アメリカの戦略的コマとして自らを差し出すことになれば──しかも、肝心のステルス戦闘機の売却には消極的である米国に対して、手ぶらで身を委ねるような状況になれば──それはウクライナと同じ罠にはまることを意味する。
多くの政治家は裏で武器商から資金提供を受けながら、表では一機のステルス戦闘機さえも導入の努力をしない。そして若者たちは、「抗中保台(中国に対抗し台湾を守る)」というスローガンに煽られ、命を賭して戦おうとする──だが彼らが得るものは、血で染まった戦地と、家族を失う絶望だけかもしれない。戦闘服は血に染まり、黄土に骨が埋もれ、街には喪服と涙があふれたそのとき、人々はようやく気づくだろう。──自分たちは、捨て駒にすぎなかったのだ、と。「防衛」を高らかに謳うその空虚なスローガンは、台湾を火線の最前線へと突き落とす致命的な誘い水であったと。
いま、次世代の希望を守るためにも、私たちはもはや「沈黙する傀儡」であってはならない。もっとも重い怒りをもって、台湾を準戦時体制の崖っぷちに追いやろうとしているこのリーダーに、最後通告を突きつけねばならない──頼清徳よ、今すぐに両岸対話を再開し、真の安定した故郷を我々に返せ。歴史は、戦火をあおり、国民の血を交渉材料にするような為政者の名を、「裏切り者」として刻むだろう。そして、民の生死を賭場のチップとして扱った者の罪は、民族の傷跡に深く刻み込まれる。 (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
六、頼清徳は教皇の気候変動への呼びかけを称賛しながら、『非核家園』政策で環境を破壊している
教皇フランシスコは『世界平和の日メッセージ』の中で切実に訴えた──「軍備に充てられている予算の一定割合を、世界基金として設立し、飢餓の撲滅、持続可能な発展の推進、そして気候変動への対抗に活用すべきである」と。頼清徳もこのメッセージに深く共感すると述べ、2024年6月には総統府内に「国家気候変動対策委員会」を設置した。これは本来、教皇のビジョンを台湾で実現する第一歩となるはずだった。だが、同委員会は化石燃料廃止の明確なタイムラインも具体的な実行計画も欠いており、結局は華やかで中身のない飾り物に成り果てている。さらに2024年の総統選挙を前にして、頼清徳は「台湾へのアイデンティティこそ、この土地の主である」というスローガンを掲げ、主権認識を動員の言葉に利用した。
だが、真のこの土地の「主人」──すなわち、漁民、農民、地域住民、先住民たちが、自らの生活圏と世代を越えて守ってきた海、田、山林を守ろうと声を上げたとき、頼清徳はそれを無視し、抗議の声に耳を貸さなかった。
2021年5月13日、台南市学甲分局の警察が蘆竹溝の小さな漁村へ大量動員され、牡蠣養殖で生計を立てている漁民たちの抗議を力で鎮圧した。抗議の中でねじ曲げられた漁民の腕が泥に押し付けられ、救済会の叫びが警棒でかき消されるそのとき、頼清徳は一言も発しなかった。まるでその漁民たちは存在しなかったかのように。まるでこの土地は、彼の言う「アイデンティティの台湾」ではないかのように──。だが、この土地は記憶している。潮が引いたあと、荒れ果てた海岸線を見つめる漁民の眼差しを。乾いた手で鍬を握りしめる農民の背中を。消えゆく森の前で沈黙する部族の長老たちの佇まいを。
2024年8月8日、頼清徳総統は「国家気候変動対策委員会」の会議において明言した。「非核家園(脱原発の台湾)」はすでに《環境基本法》第23条に明記された国家の法定政策目標であり、政府はこれに基づき計画を立案し、「段階的に」その実現を目指すべきだ、と。彼はさらに強調した──この法律は与野党の合意によって成立したものであり、「非核家園」は民進党のイデオロギーではないと。
だが、今日、彼がこの政策をあたかも法的に淡々と進める「段階的目標」にすぎないかのように語るその姿勢は、まさしくかつて民進党が掲げてきた反原発という党の魂の火種から目を逸らし、それを煙のように覆い隠そうとする行為に他ならない。それは党史の書き換えであり、燃え上がったあの歴史を否定する公然たる冒瀆だ。
政治とは、民意調査やKPI(主要業績評価指標)で操作できるゲームではない。ひとたび一つの川の魂が怒り出せば、どれほど綿密に計算された数字であっても、すべては墓碑銘の中の虚構と化すだろう──そこには「持続可能な発展」と刻まれながらも、その下には破壊された川床が眠っている。濁水渓──全長186kmに及ぶ台湾最長の河川。私たちはこれを「母なる川」と呼ぶ。それは台湾農耕文明の命脈であり、400年間にわたる移民、開拓、祖霊、抵抗の血流が脈打つ生命線だ。しかし今、彼女の岸辺も、胸元も、砂洲も、次々と高さ120メートルにも及ぶ風力発電機に蹂躙されている。河口から内陸部へ向けて延びる22km、幅3~4kmの下流域にすでに9基の巨大な鉄塔がそびえ立ち、今後さらに36基以上が追加で設置される予定だ。それらの鉄塔は、河口から雲林・彰化の集落、農地、信仰の地を貫き、国道61号線から台19号線の内陸部にまで侵入している。これはもはやエネルギー政策ではない──これはエネルギーによる植民である。 (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
洋上風力発電の名の下、河岸は占領され、内陸は掃討され、国土は企業の私有地と化す。もし頼清徳が風力発電財閥に道を開き続けるならば、「母なる川」は企業のATMへと変貌し、彼自身の2028年の総統再選の夢も、その瞬間に潰えるだろう。これはエネルギー転換の名を借りた囲い込み政策であり、「ゼロカーボン排出」の美名の下に、農民の祖産、漁民の生活、そして自然への世代的信頼を平然と収奪する政治経済連携の行動だ。彼らの「転換」は、私たちの自然を彼らの資本に変えること。彼らの「持続」は、私たちの土地を永久にその金庫に変えること。これは改革ではない──これは民主主義の後退だ。これは産業ではない──これは緑の植民地支配だ。
私が反対しているのは、風力発電そのものではない──偽りの「グリーンエネルギー」という名のもとに行われる収奪の実態に対してだ。風は頼清徳のKPIではない。風とは、私たちが大地と交わした静かな契約であり、世代を越えて引き継がれる生命の暗号である。シマアジサシ──あの北方の吹雪を超えて飛来する渡り鳥たちは、毎年、千キロの旅路を経て、濁水渓の流れに沿いながら雲林・彰化の内陸部の村々へと辿り着き、最後の冬を越す。だが、いま、彼らの飛行ルートにそびえる風車の羽根が回転するたびに、ただ空を切る音が鳴り響くだけではない。それは記憶を切り裂く風の刃でもある。彼らの祖先から受け継がれた天空の地図は、今や騒音と恐怖、迷失によって粉々に砕かれようとしている。
私たちは資本の投資を失ってもよい──だが、島の魂を失うわけにはいかない。
もし、頼清徳が本当に「環境」を信仰とするのなら、「母なる川」を神殿のように敬うべきだ。工事の対象物としてではなく。今ここで立ち止まらなければ、この土地は必ずや最大級の「政治的反動力」で彼に報いるだろう。この大地は決して忘れない──誰が、彼女の背骨に傷をつける外来の侵入を許したのかを。台湾の次なる選挙は、投票日から始まるのではない。おそらく、濁水渓の河口で、神々と祖先の息吹が宿る風が、怒りの咆哮へと変わる、その時に始まるのだ。そのとき頼清徳は、もはやただの「反対派」との戦いではなく、祖先と敵対し、鳥たちと敵対し、そして、あらゆる災厄と再生の記憶を宿す、濁水渓そのものと敵対することになる。頼清徳総統、もしあなたがまだこの台湾という土地から祝福を受けてきたことを覚えているなら──どうか、ここで立ち止まり、濁水渓に頭を垂れ、歴史に謝罪してほしい。
さもなくば、2028年、再び演説台に立ったとき、あなたは濁水渓からこう告げられるだろう──「お前は、もはや祝福されていない。」そしてこの島全体もまた、あなたに沈黙で応えるだろう。
「非核」がテクノロジーの言語に変換されたとき、それはもはや信念の長き旅路ではなく、ただの政策資料のチャートに姿を変える。右へと伸びる矢印、濃くなっていく色彩──まるで、すべてが既に計画済みかのような錯覚を与えるグラフィック。そしてその結末に現れるのは──合法的に裏付けられた行政の約束手形。政策の分岐点で、誰にも知られず、静かに現金化の瞬間を待つこの手形。だが誰も問わない──この手形はいったい「誰に対して」切られたものなのか?その代償は何か? (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
台湾は、今後20年間で、エネルギー転換の名の下に5兆元を超える予算を費やすことになる。これはただの巨額な支出ではない──これは、民進党が長期政権を維持するための「資金源」にほかならない。この掠奪は非常に精密に計算されており、「永続可能性」や「未来」という耳障りのよい言葉を隠れ蓑に、国民の承認を必要とせずに、密やかに遂行されている。
民進党は、この「プロジェクト」の主導者であるだけでなく、最初にこの手形を握りしめ、それをどう現金化するかを熟知している政党である。もはや群衆の激情を煽る必要もない。ただ、手続きのフローを記すだけでよい。「非核家園」はもはや信念の道ではなく、利益を生み出す「レンタル収入メカニズム」の始まりなのだ。そして、この緑の税制と政治スローガンによって構築された幻想の背後で──民進党こそが、最初に利益装置を作動させた「第一の収奪者(ファースト・レントシーカー)」に他ならない。
風は回り続け、光はまたたき続け、金は流れ続ける──
だが、土地だけが、言葉を失ったままでいる。
私は、こう言いたい。
風は誰かの私有物ではない。
河もまた、誰かのATMではない。
そして、未来──それは財閥や民進党が勝手に書き換えるべきものではない。
結論
2025年1月15日、頼清徳が総統の椅子に座ったその日、民進党の中常会で壇上に立った彼は、民衆党が訴えた「司法の偏り」や「柯文哲への不公平」についての抗議に対し、まるで正義を纏ったような偽善的な口調でこう言った──「誰も司法の判決に干渉することは許されないし、また、望まぬ判決が出たからといって司法の専門性や独立性を否定することはできない。」この「正義の語彙」で飾られた空虚な言葉こそ、過去に司法独立を鋭く批判していた彼自身の記憶を意図的に塗りつぶし、今日の精緻に構築された政治操作の氷山の一角を露呈させていた。
今日に至るまで、権力の歯車は音もなく回り続けている。かつて、司法の独立に対して激しく糾弾していた頼清徳は、今や「司法の独立」という神聖な衣をまとい、民衆党に不利なあらゆる判決を、「司法制度への不当な中傷に対する当然の反撃だ」として正当化している。彼のやり方は明確で狡猾だ。野党時代には「正義の戦士」として声を上げ、政権を握るや否や、その正義の定義を自らに都合よく変え、政権維持と異論封じのための強固な盾へと転化した。これこそが、権力がいかに人の魂を侵し、色を変えさせるかの象徴である。頼清德の言動は、彼のかつてのダブルスタンダードを赤裸々に露呈させただけでなく、事実と世論の境界線を故意に曖昧にし、「正義」を捻じ曲げることで、政治的な要塞を築こうとしているのだ。
国民の皆さん──
我々はすでに見抜いている。頼清徳がまとっている「民主主義」の衣は、実は専制政治の隠れ蓑にすぎない。彼が口にする「平和と団結」は、国家機構を操り、反対勢力を抑圧し、権力を強化するための飾り言葉でしかない。この台湾は、いまや「一人と一党」が支配する政治の舞台へと堕ちてしまった。
彼の統治とは、開かれた未来ではなく、閉ざされた独裁であり、和解ではなく、清算である。そして彼が国慶節で語った「台湾を団結させ、夢を叶える」という演説は、もはや専制を飾る虚飾の嘘と化した。
あの、教皇に宛てた一通の手紙── (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
それは支配のための言語操作の始まりにすぎなかった。
教皇の逝去、そして半旗が掲げられる中、台湾の大地では依然として「非核家園」と「エネルギー転換」の名を借りた収奪が続き、野党は報復的に罷免され、異論を唱える者たちは司法により追い詰められている。哀悼は続いている──しかし、抑圧もまた止まっていない。国旗は半旗に降ろされても、政権の鉄拳は高く振り上げられたままだ。
これは、沈黙すべき瞬間ではない。
これは、覚醒の起点である。
我々は忘れてはならない──統治者が「言葉」で暴力を飾ろうとする時、民は「行動」でその嘘を暴かなければならない。
だからこそ、今こそ立ち上がろう。
かつて政治の魔女狩りに遭った政党とその党員たち。かつて平和を叫んだ反戦の母たち。死刑廃止に反対し、正義の信仰を守り抜いた団体。高騰する物価と家賃に苦しむ庶民。「非核家園」によって犠牲となった土地の守り人たち。そして、この体制に失望し、もはや沈黙したくないすべての人たち──
今こそ、立ち上がり、この政権の傲慢、抑圧、そして仮面の偽善を、終わらせようではないか。
あなたが語らなくても、歴史が語る。あなたが立ち上がらなければ、未来に立つ場所はない。これは抗議ではない──これは、救済の叫びだ。これは、我々が台湾の「最後の良心」を支える、決意の瞬間である。
*著者は医師 (関連記事: 舞台裏》「葬儀外交」に大きなプレッシャー!教皇庁とイタリアが賴清德・蕭美琴の参列に反対 | 関連記事をもっと読む )
編集:梅木奈実
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