蔡世杰の視点:一通の手紙から一枚の旗へ──教皇の逝去で覆い隠せない頼清徳総統をめぐる“六つの偽り”

賴清德大統領がカトリック台北総教区に設けられた教皇フランシスコの霊堂に追悼に訪れた。(大統領府公式サイト)
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「自由の樹は時に愛国者と暴君の血によって養われねばならない。それが自然の肥料である」──トーマス・ジェファーソンがスミス宛に書いた手紙(1787年)

自由とは、安定した遺産ではなく、警戒と対抗によって獲得されるものである。それは生きており、渇きを覚える存在だ。制度によって継承されるのではなく、民衆の信念と問い、抵抗、そして時には血と痛みによって潤されるものだ。専制政治は自壊しない。それが必要とするのは、人々が反抗の言葉を忘れ、権力者が監視されることを拒む力を維持することだけだ。軍靴や鉄条網など不要で、人々の疲弊、沈黙、そして服従があれば十分である。

そして、いつの日か記憶が蘇り、沈黙が破られ、人々が顔を上げてその代償を問う時が来る。頼総統よ、忘れないでほしい。あなたが得たのは四割の民意であって、真理ではない。四割の得票はあなたに節制と謙虚さの責任を与えたのであり、抑制と制度的制衡を踏みにじる免罪符ではない。これは民主の寛容であり、歴史と民意に対する畏敬の念をもって応えるべきであって、「勝者総取り」の傲慢な態度を取るべきではない。

これは敵意による警告ではない。むしろ、自由と共に銃口で黙殺され、30年間封印された歴史の記憶そのものである。

2025年4月21日午前7時35分(バチカン時間)、教皇フランシスコが逝去した。世界中が追悼の静寂と祈りに包まれた。その約4時間後、台北時間午後5時43分、頼清徳総統はSNS「X」に追悼の投稿を行った。

「私は台湾国民を代表して、カトリック共同体および教皇フランシスコ陛下を悼むすべての方々に、心より哀悼の意を表します。我々は、彼が生涯をかけて取り組まれた平和、世界的な連帯、そして弱者への思いやりの精神から引き続き啓発を受け続けます」

頼総統が引用したのは、教皇が一貫して提唱してきた平和・団結・慈悲の言葉である。それらの言葉は神聖で重く、普遍的でありながらも具体的な意味を持つ。しかしながら、彼は国家元首としての本来の責任──剣を置き、復讐を止め、手を差し伸べ、平和の言葉を紙の上だけでなく、民衆の生活の場へと持ち込み、連帯の重責を自ら担うこと──からは目を背けていた。

翌朝6時30分、総統府での国旗掲揚式が終わった後、半旗が静かに降ろされた。この信仰に敬意を表す国家儀礼は、国民にとって、教皇庁との別れを意味するだけでなく、2か月以上前にバチカンに送られた一通の手紙を思い起こさせるものでもあった。

だが、書簡の送付前後での彼の行動は、その約束とは著しく矛盾していた。彼は「平和」を口にしながらも、対話の前に粛清を行い、「寛容」を語りながら赦しを見せず、まず訴追に踏み切った。「公正」を掲げながらも、正義は未だ到来せず、敵味方の線引きはすでに完了していた。「民主主義」の名を借りつつ、憲政の安定も見ぬうちに党の意向が優先され、「価値」を語るも、信念なきスローガンだけが先行した。この地にあるのは、もはや理想の政策論争ではなく、空虚な言葉と苛烈な現実との生死を賭けた対決である。