米国とイランは過去2日間にわたり、イラン南西部の山岳地帯で熾烈なパイロットの捜索・確保を巡る攻防を展開した。米空軍のF-15E戦闘機が先週金曜日(4月3日)、地形の険しいコフギールーイェ・ブーイェル=アフマド州で撃墜された。搭乗していた2名のうち、前席のパイロットが先に救助され、後席の兵器システム士官は山中に1日以上潜伏。イラン軍による大規模な捜索を逃れ、日曜日(4月5日)に無事救出された。
米CNNの報道によると 、墜落したF-15Eの兵器システム士官は、拳銃1丁、無線機1台、サバイバルビーコンのみを所持していた。イラン軍の捜索を逃れるため、絶えず移動と潜伏を繰り返し、標高7000フィート(約2100メートル)を超える高山にも登攀。最終的に米中央情報局(CIA)と100名以上の特殊部隊による支援を受け、無事脱出に成功した。
同パイロットの墜落地点は、イラン南西部のコフギールーイェ・ブーイェル=アフマド州周辺とみられる。同地域にはイランの二大山脈の一つであるザグロス山脈(Zagros Mountains)が横たわっており、現地の平均標高は約2000メートル、主要な山峰は4000メートルを超える過酷な環境である。
CNNは米政府高官の話として 、今回の救出作戦が困難を極めたと報じている。墜落地点が険しい高山地帯であったことに加え、敵対国の領土内での作戦であり、捜索救助部隊は常に敵の動向を警戒しながら潜入する必要があったためだ。
この事態は、1980年に同じくイランを舞台に展開された出来事を想起させる。米政府は当時、テヘランの米大使館で人質となった53名の米国人を救出するため、極秘裏に極めて大胆な軍事救出作戦「イーグルクロー作戦(Operation Eagle Claw)」を発動した。しかし、作戦は目的を達成する前に頓挫し、失敗に終わっただけでなく、参加した米軍将兵8名が死亡、4名が負傷。さらに7機の航空機およびヘリコプターが作戦中に喪失、あるいはイラン国内への遺棄を余儀なくされた。
この救出作戦の失敗は米国の威信を大きく傷つけ、結果として当時の米大統領、ジミー・カーター氏が1980年の大統領選挙で共和党のロナルド・レーガン氏に敗北する間接的な要因となった。
1980年4月、米軍「イーグルクロー作戦」の概要図。(ウィキペディア)
1979年11月のイラン米人質事件、米政府が軍事救出作戦を立案 1979年11月4日、数千規模の反米感情を抱くイラン人学生が米大使館に乱入し、66名の職員を人質として拘束する事件が発生。全米に衝撃を与えた。後に13名は解放されたものの、残る53名はイラン政権が米国と交渉するための政治的カードとなった。
カーター政権はイラン政権と交渉を進める一方で、米軍およびCIAを通じて軍事救出作戦の立案を急がせた。これが後の「イーグルクロー作戦」である。同作戦は米軍の4軍すべてが参加する極めて複雑なものであり、2日間の夜間のみを利用して全工程を完了させる計画であった。
1980年4月24日、「イーグルクロー作戦」が発動された。米軍は二手に分かれ、まず空軍のMC-130輸送機3機が、陸軍レンジャー部隊およびデルタフォース(Delta Force)の計132名を乗せ、オマーンの離島を出発。海を越え、イランの首都テヘランの南西約320キロに位置する砂漠地帯、米軍が「デザート・ワン(Desert One)」と名付けた前線基地へと飛行した。
オマーンの離島からは、同じく米空軍のEC-130輸送機3機も出撃した。同機には補給物資と燃料が搭載されており、「デザート・ワン」の前線基地で作戦に参加する海軍のヘリコプターへの空中給油を実施する任務を帯びていた。
一方、米海軍は航空母艦「ニミッツ」および「コーラル・シー」を出動させ、イラン南部沖合のオマーン湾に停泊させた。空母「ニミッツ」の艦上から8機のRH-53Dヘリコプターが発艦し、「デザート・ワン」へ向かう計画であった。同基地で空軍のEC-130輸送機から燃料補給を受けた後、陸軍レンジャー部隊およびデルタフォースを乗せ、テヘランから約105キロ離れた山中の秘密拠点「デザート・ツー(Desert Two)」へ向かう手はずとなっていた。
米軍の作戦計画に基づき、132名の陸軍レンジャー部隊およびデルタフォースも二手に分かれる予定であった。一方はイラン現地の情報提供者の案内でテヘランの米大使館に直行して人質を救出し、もう一方はテヘラン近郊の空港を制圧。救出された人質と救出部隊が合流した後、米空軍の輸送機に搭乗して一斉に撤退するというシナリオであった。
1980年4月、米海軍の空母ニミッツ艦上で待機するイーグルクロー作戦参加のRD-53Hヘリコプター。機体は砂漠迷彩に塗装されている。(米国防総省公式サイト)
作戦開始直後にトラブル続発、テヘラン突入前に「イーグルクロー作戦」中止 しかし、米国の4軍が結集した前代未聞の大規模救出作戦は、開始直後からつまずくこととなる。
オマーンの離島を出発した空軍の輸送機6機は、予定通り前線基地「デザート・ワン」に到着した。しかし、空母「ニミッツ」から発艦予定だった海軍のRH-53Dヘリコプター8機のうち、2機が機械的トラブルで直前に作戦から離脱。さらに1機が飛行中に油圧系統の異常に見舞われ、パイロットは辛うじて「デザート・ワン」に到着したものの、現地で修理できず、結果として「デザート・ツー」への飛行が不可能となった。
つまり、当初作戦に参加予定だった海軍のヘリコプター8機のうち、稼働可能な機体はわずか5機にまで減少していたのである。現場の指揮官は、5機のみでは任務成功の担保が取れないと判断し、「イーグルクロー作戦」の中止を決断した。
人質救出と空港制圧を担うはずだった132名の地上部隊は、海軍のヘリコプターから空軍の輸送機に乗り換え、帰還の途に就く準備を進めた。一方の海軍ヘリコプターは、空母への帰投に向けて空軍のEC-130輸送機から燃料補給を受けようとしていた。
まさにその時、悲劇が起きた。海軍ヘリコプターのローターが、燃料を満載したEC-130輸送機に接触したのである。両機は爆発・炎上し、輸送機に搭乗していた将兵5名が死亡。ヘリコプターに乗っていた海兵隊の搭乗員3名も命を落とした。
事態を受け、現場指揮官は海軍の全ヘリコプターの放棄を命令。生存者全員が空軍の輸送機に搭乗して撤退し、ここに「イーグルクロー作戦」は完全に幕を閉じた。
1980年4月、米軍のイーグルクロー作戦中、イランの砂漠で爆発炎上した空軍輸送機の残骸。(米国防総省公式サイト)
悪天候、機材トラブル、軍種間の連携不足が招いた「イーグルクロー作戦」の失敗 ここ数年の米国防総省 および米空軍歴史部門 の調査研究によると、「イーグルクロー作戦」が失敗に至った要因は主に以下の点に集約される。
第一に、悪天候である。激しい砂嵐がパイロットの視界を遮り、ヘリコプターの機体に損傷を与えただけでなく、搭乗員の体調不良も引き起こした。
第二に、装備の信頼性不足である。海軍のヘリコプター2機が機械的トラブルで出撃前に任務から離脱し、さらに1機が飛行中に油圧系統の異常を起こした。結果として、任務継続に必要な稼働機数を確保できなかった。
第三に、軍種間の連携不足である。「イーグルクロー作戦」には海軍、海兵隊、空軍の航空戦力が参加していたが、各軍が今回の任務に向けた合同訓練を事前に一切行っておらず、実戦における部隊間の意思疎通に重大な支障をきたした。
第四に、作戦計画の過度な複雑さである。任務の目標が野心的すぎた上に手順が煩雑であり、事前の演習や検証が著しく不足していた。
1980年4月の「イーグルクロー作戦」失敗後も、カーター政権は米国人人質の解放に向けてイランとの交渉を継続した。しかし、作戦失敗が同政権の権威を失墜させたのは火を見るより明らかであった。米メディアの多くは、これが1980年11月の大統領選挙でカーター氏がレーガン氏に敗れ、再選を逃す要因の一つになったと指摘している。
「イーグルクロー作戦」の失敗が米特殊作戦軍(SOCOM)を創設 米軍は「イーグルクロー作戦」の失敗を重く受け止め、その後多くの抜本的な改革を断行した。その中で最も重要な決断が、1987年の米国防総省(ペンタゴン)傘下における米特殊作戦軍(US Special Operations Command: USSOCOM)の創設である。これにより、米軍の各軍種に分散していた特殊作戦部隊が一元的に統合・管轄されることとなった。
米特殊作戦軍は、各軍種間における特殊作戦の連携強化と統合計画の策定を推進するだけでなく、イランでの手痛い失敗を教訓とし、特殊作戦に特化した陸海空の専用装備の調達も担うようになった。
「イーグルクロー作戦」に従軍した元米陸軍レンジャーのキース・モロー(Keith Morrow)氏は、2020年のメディア取材に対し次のように語っている。「あの作戦を大失敗だと捉える者もいるが、果たしてそうだろうか。当時我々が直面したのは、全軍の階層を問わず、全く未知で困難な挑戦であった。だが、イランでの失敗が米軍をより強靭な組織へと進化させたのは紛れもない事実だ。その後、我々は新たな司令部や部隊を創設し、新しい協力関係や任務指標、そして統合運用に基づく戦術と手順を構築した。これらは現在に至るまで、米軍の根幹として機能し続けているのだ」