『ちいかわ』の世界で恐ろしいものの一つは、人を襲う怪物ではなく、「永遠に死なないこと」なのかもしれない。
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』で描かれるヒトハとフタバの悲劇は、人類が何千年にもわたって夢見てきた願いから始まる。もし、謎めいた生き物の肉を食べることで死を免れ、永遠に生きられるとしたら――あなたはそれを望むだろうか。
物語では、事故で瀕死となったフタバを救うため、ヒトハが人魚を殺し、その肉をフタバに食べさせる。フタバは命を取り留めるが、その代わりに異常なほど長く、終わりが見えない命を得ることになる。いつか自分だけが取り残されることを恐れたフタバは、やがてヒトハにも人魚の肉を食べさせる。
荒唐無稽なファンタジーのようにも見える設定だが、日本では数百年前から、よく似た伝承が語り継がれてきた。人魚の肉を食べ、不老長寿の身となった少女の物語――「八百比丘尼(やおびくに)」である。伝説では、少女は誤って人魚の肉を口にしたことで老いることのない身体となり、周囲の人々が次々と先に世を去るなか、800歳まで生きたとされる。
『ちいかわ』の物語が八百比丘尼を直接題材にしたものだとは明らかにされていない。ただ、両者には日本で古くから語られてきた一つのモチーフが共通している。
人魚の肉がもたらすものは、永遠の命なのか。それとも、終わることのない呪いなのか。
※以下、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』の重要なネタバレを含みます。
日本の「人魚」は、ロマンチックな童話の存在ではなかった
人魚と聞けば、長い髪に美しい顔、魚の尾を持つ少女の姿を思い浮かべる人も多いだろう。
しかし、日本で古くから語られてきた人魚は、現代の童話に登場するロマンチックな存在とはかなり異なる。
日本で人魚のような生物が記録された例は、『日本書紀』にまでさかのぼる。推古天皇27年(619年)の記述には、人のような姿をしていながら、人でも普通の魚でもない水中の生き物が登場する。
平安時代の『和名類聚抄』では、「人魚」という言葉が明確に現れ、その姿は「魚の体に人の顔」を持つものに近いとされる。
鎌倉時代の『古今著聞集』には、漁師が人間のような姿をした巨大な魚を捕らえ、人々がそれを分けて食べたという話も記されている。
つまり、日本で古くから語られてきた人魚は、人間と恋に落ちるための美しい存在というより、人と魚、現世と異界の境界にいるような不可思議な存在だった。
異変の兆しとして語られることもあれば、そこから別の魅力的な伝承も生まれていった。
人魚の肉を食べれば、不思議なほど長く生きられる――。
人魚の肉を知らずに食べた少女 いつまでも老いない身体に
八百比丘尼をめぐっては、日本各地にさまざまな伝承が残されている。その中でも広く知られているのが、現在の福井県若狭・小浜周辺に伝わる物語だ。伝説では、ある男が宴席に招かれ、そこで人魚の肉を目にする。
正体を知った人々は口にしなかったが、男はその肉を家へ持ち帰った。そして娘が、それが何なのか知らないまま食べてしまったという。
異変が明らかになったのは、長い年月が過ぎてからだった。
やがて同じ年頃だった人々が白髪になり、一人、また一人と世を去っていくなか、彼女だけが変わらない姿で生き続けた。
多くの人が憧れる「若さ」を手に入れた一方で、彼女は普通の人間が生きる時間の流れから外れてしまった。
800年生きたとされる八百比丘尼 最後は一人で洞窟へ
伝説では、女性はその後出家して比丘尼となり、故郷を離れて日本各地を旅したとされる。
地域によって物語の内容は異なり、貧しい人を助けたという話や、橋や道を整えたという話、旅先で椿を植えたという伝承も残る。
「八百比丘尼」という名は、彼女が800歳まで生きたとされることに由来する。
しかし故郷に帰ったころには、かつて知っていた人々はすでにこの世を去り、自分が暮らしていた世界も大きく変わっていた。
小浜に伝わる話では、彼女は最後に空印寺周辺の洞窟へ向かった。洞窟のそばに白椿を残し、その椿が枯れた時を自らの死のしるしとするよう、人々に伝えたとされる。
その後、一人で洞窟へ入り、二度と姿を現さなかったという。
もちろん、八百比丘尼が歴史上実在し、本当に800年間生きたと証明されているわけではない。人魚の肉を食べれば不老長寿になるという話も、あくまで民間伝承である。
それでも、この物語は日本で何百年にもわたって繰り返し語られてきた。
「もし本当にいつまでも老いないとしたら、それに耐えられるのか」という問いだ。
不老不死はなぜ「祝福」から「呪い」に変わるのか
表面だけを見れば、八百比丘尼は多くの人が夢見るものを手に入れた。
年齢によって若さを失うこともなく、普通の人と同じ寿命の限界に縛られることもない。
親しんだ村も変わり、家もなくなり、彼女を知っている人さえ、世代を重ねるうちに一人もいなくなる。
しかし、すべての人の命に終わりがあるからこそ、人々はおおむね同じ時間の中を生きることができる。
そこから一人だけ外れてしまえば、「長く生きる」ことは、より多くの別れを経験することにもなり得る。
少女が偶然手にしたのは、多くの人が夢見る長寿だった。ところが物語の最後に残されたのは、永遠の命をどう楽しむかという答えではなく、自分がいつこの世を去ったのかを知らせるための白椿だった。
祝福に見えた長い命が、最後には終わりのない待ち時間へと変わっていく。
『ちいかわ』がさらに突きつける問い 大切な人にも永遠の命を与えるのか
ここで『ちいかわ』の物語に戻ると、ヒトハとフタバが直面する問題も、八百比丘尼の伝説と重なって見える。
ただし、『ちいかわ』はその問いをもう一歩先へ進めている。
自分は老いないのに、周囲の人たちは先にいなくなってしまうこと。
ヒトハが人魚の肉を食べさせ、瀕死のフタバを救ったことで、フタバは異常に長い命を得る。
しかし、フタバだけが死なないのだとすれば、数十年、数百年後にはヒトハが先にこの世を去り、自分だけが残ることになるかもしれない。
一見すれば、それは友情の究極の形のようにも思える。
「失いたくない」が「離れてほしくない」に変わる時
ヒトハが最初にフタバへ人魚の肉を食べさせたのは、フタバが瀕死の状態だったからだ。
しかしその結果、フタバは自分で本当に選択する機会がないまま、終わりの見えない命を得ることになった。
そして今度はフタバが、自分だけが残されることを恐れ、同じ運命をヒトハにも与える。
そして最後には、「ずっと一緒にいたい」という願いと、「ずっと一緒にいてもらわなければならない」という思いの境界が曖昧になっていく。
悲劇を動かしているのは、必ずしも怪物だけではない。
むしろ、その出発点にあるのは誰にでも理解できる感情だ。
「電池を交換すれば生き続ける」 『ちいかわ』が描く異様な永遠
ナガノ氏は、こうした永遠の命に、荒唐無稽でありながら不気味な設定も加えている。
人魚の肉を食べたヒトハとフタバの身体には、乾電池を入れる構造が現れる。
『ちいかわ』らしく、どこか笑ってしまいそうな設定でありながら、それがかえって「死なないこと」の不気味さを際立たせている。
そこにある生命は、自然な生き物というよりも、エネルギーさえ与え続ければ動き続ける機械のようにも見える。
普通の生命は生まれ、成長し、老い、最後には終わる。
では、「電池を交換する」だけで延々と動き続けられるとしたらどうなるのか。
過去に起きた出来事も、長く生きれば自動的に解決するわけではない。
八百比丘尼には、少なくとも「800年生きた」という伝承上の区切りがある。
しかしヒトハとフタバには、その区切りすらないのかもしれない。
人が本当に恐れているのは「死」だけなのか
古今東西、人間は長生きする方法を想像し続けてきた。
中国には不死の薬があり、ヨーロッパの伝説では寿命を延ばす神秘的な物質が求められ、日本には人魚の肉を食べて長寿を得る物語が残されている。
しかし興味深いのは、多くの永遠の命をめぐる物語が、「死なないこと」を必ずしも幸福な結末として描いていないことだ。
ヒトハはフタバを失うことを受け入れられず、救うことを選んだ。
フタバはいつか自分だけが残されることを恐れ、ヒトハにも永遠にそばにいてほしいと願った。
八百比丘尼は長く生きれば生きるほど、自分より先に去っていく人々を見送ることになった。
それぞれの物語が行き着くのは、同じ矛盾なのかもしれない。
人が永遠の命を願うのは、大切なものを失いたくないから。だが、本当に永遠に生きることができたなら、それは失う経験を重ねる時間を増やすことにもなり得る。
だからこそ、『ちいかわ』の物語で恐ろしいのは、単に「人魚の肉を食べたら何が起きるのか」ということだけではない。
数百年にわたって語られてきた古い伝承と重なる問いを、あらためて突きつけてくる。
もし、本当に大切な人と永遠に生きられるとしたら――
「永遠に一緒にいること」は、果たして幸せだと言い切れるだろうか。