コロナ禍を経て、台湾では看護師の大量離職が深刻化している。これにより多くの病院が病床閉鎖を余儀なくされ、結果として救急外来の逼迫 (ERオーバーフロー)を招いている。この事態を打開し、離職した看護師を呼び戻すため、台湾の 衛生福利部(日本の厚生労働省に相当)は「三交代制看護師配置基準」の新制度を策定し、まずはインセンティブ(補助金)による誘導を開始した。
これに対し、主要な看護団体は現在、立法院(国会)の各党派に対し、三交代制の配置基準および看護師の最低賃金の双方を「法制化」し、労働条件を抜本的に改善するよう集中的に働きかけている。しかし、病院側団体はこれに強く反対。法制化はさらなる病床閉鎖を招き、状況を悪化させるだけだと主張している。石崇良・衛生福利部長は、法制化には詳細な精査が必要であり、現時点では具体的な実施スケジュールは決まっていないと述べるにとどまった。
現行基準は「24時間平均」のみ 実態との乖離が課題 現在、台湾の法定配置基準は「医療機構設置標準」に基づく「全日平均(1日24時間の平均)」のみである。その基準は以下の通りだ。
医学センター(最高ランクの病院): 1:9 区域病院: 1:12 地区病院: 1:15 違反した場合は1万〜5万台湾ドルの過料が科され、期限内の改善が見られない場合は連続して罰せられる。
新基準は法制化されておらず強制力は欠如 しかし、「全日平均」による配置基準はすでに国際的な潮流から外れており、 特に夜勤や休日における深刻な 人手不足を覆い隠しやすいとの批判がある。突発的な入院対応で業務量が急増しても、平均値では現場の過酷な実態を反映できないからだ。
これを受け、衛生福利部は2024年10月より「三交代制配置基準」の新制度を推進している。目標値は以下の通り設定された。
医学センター: 日勤 1:6 / 準夜勤 1:9 / 深夜勤 1:11 区域病院: 日勤 1:7 / 準夜勤 1:11 / 深夜勤 1:13 地区病院: 日勤 1:10 / 準夜勤 1:13 / 深夜勤 1:15 ただし、これらはまだ法制化されておらず、強制力はない。政府は40億台湾ドルの特別予算を編成し、夜勤手当の支給や、三交代制の基準を達成した病院に対して「入院看護料」を10%加算するインセンティブ制度で対応している。
看護団体が立法院の各党派を訪問し改革案を提言。 中華民国看護師公会全国連合会(TUNA)の陳麗琴理事長は、2026年1月時点における各級病院の「三交代制配置基準」達成率を以下の通り提示した。
医学センター(最高ランクの病院): 71% 区域病院: 74% 地区病院: 91% さらに同氏は、「医療機構設置標準」を速やかに改正して配置基準を法制化し、看護師に「過酷な労働環境」から解放された職場環境を提供する必要があると指摘。また、長年にわたり看護師の平均賃金が他の医療従事者に比べて低水準に留まっていることも、離職した看護師が「復職」をためらう大きな要因になっていると付け加えた。
「混迷」を極める看護師の平均賃金 官民の認識に大きな乖離 陳理事長は、看護師の「実際 の平均賃金」は長年、不透明なままであると指摘する。新規採用の看護師の平均月給について、政府機関の間でも以下の通り主張が分かれている。
監察院会計検査部(審計部): 約3.8万台湾ドル(約19万円) 頼清徳総統: 約5万台湾ドル(約25万円) 邱泰源前衛生福利部長: 約7万台湾ドル(約35万円) これに対し主要な看護団体は、2024年7月に労働部(日本の厚生労働省に相当)が発表した調査結果を「より現実に近い推計」として支持している。それによれば、新規採用の看護師の平均月給は約5.1万台湾ドル(約25.6万円) 。これは、医師を除く医療専門職全体の平均月給である7.6万台湾ドル(約38万円) を大幅に下回っている。
陳理事長 は、「看護業務は三交代制が必要なだけでなく、極めてストレスで過酷な労働である」と主張。その上で、「国家試験を通過した 専門家である看護師が、これほど低い賃金に見合う存在なのだろうか」と疑問を呈した。
中華民国看護師公会全国連合会の陳麗琴理事長は、新基準の達成率は医学センター71%、区域病院74%、地区病院91%に留まっているとし、全病院での達成に向け「法制化こそが最大の推進力になる」と述べた。(写真/黄天如撮影)
賃金基準を「保険指定認可」と連動へ 抜本的な法改正を要求 中華民国看護師公会全国連合会、台湾看護学会、台湾看護師医療産業労働組合など複数の団体による協議の結果、看護師の基本賃金を保障するための具体的な要求案がまとまった。
その核心は、政府に対し「健康保険医事サービス機関契約・管理弁法(特管弁法)」第8条の改正を求めることにある。具体的には以下の賃金基準を同法に盛り込むことを目指す。
病院勤務の看護師: 最低賃金の2.5倍(約7.2万台湾ドル)以上 クリニック勤務の看護師: 最低賃金の1.5倍(約4.4万台湾ドル)以上 特筆すべきは、この基準を達成できない医療機関に対しては、「国民健康保険の指定医療機関」としての資格を取り消すという、極めて強力な罰則を求めている点だ。これにより、強制的に看護師の待遇改善を図る構えである。
医療現場での暴力行為に対する量刑の軽さも課題に 待遇改善の一方で、医療従事者が直面している「医療暴力」の問題も深刻だ。衛生福利部の統計によれば、2024年の医療暴力通報件数は443件に達し、過去5年間で最多を記録した。特筆すべきは、被害者の約7割が看護師であるという点だ。
病院経営者側の反発、賃金の法制化は「国民保険の崩壊」を招く 一方で、看護師の最低賃金を「特管弁法」に明記するという要求に対し、台湾コミュニティ病院協会の朱益宏理事長は真っ向から反対している。「いかなる職種においても、法律で賃金レベルを規定する前例はない」と朱氏は断じる。
看護団体の要求通り、病院看護師の月給を最低賃金の2.5倍、クリニックでは1.5倍に強行設定した場合、法律施行と同時に基準を満たせない中小病院やクリニックは「健康保険の指定機関」からの離脱を余儀なくされる。これは医療供給体制を揺るがす死活問題である。
台湾コミュニティ病院協会の朱益宏理事長は、「いかなる職種においても、法律によって賃金の多寡を規定するような前例はない」と指摘した。(朱益宏氏提供)
「波及効果」への懸念と年収100万ドルの是非 朱氏はさらに、看護師の最低賃金が法制化されれば、薬剤師や臨床検査技師、理学療法士といった他の医療専門職も同様の要求を掲げることになり、健康保険の財政が破綻しかねないと警告する。
多くの人が関心を寄せる看護師の現行賃金について、朱氏は2023年の衛生福利部による調査結果を引用。それによれば、医学センター勤務の看護師の平均年収は約90万〜100万台湾ドル(約453万〜503万円)に達しており、「決して低い水準ではない」と主張する。看護団体の要求が通れば、各種手当や「三節奨金(三大節句のボーナス)」を含めた年収は100万台湾ドルを優に超えることになり、「(台湾の経済水準において)極めて高額な報酬となる」との見解を示し、慎重な議論を求めた。
深刻な夜勤の「人手不足」と病床閉鎖の連鎖 三交代制の看護師配置基準の法制化について、台湾コミュニティ病院協会の朱益宏理事長は「議論の余地はある」としながらも、現在はインセンティブ先行での実施に留めるべきだとの考えを示した。
朱氏によれば、平均賃金が比較的高い医学センター(最高ランクの病院)を含め、多くの病院で日勤の配置基準を達成することは可能だ。しかし、準夜勤や深夜勤を希望する看護師の確保は極めて困難な状況にある。
この状態で厳しい三交代制の基準が法制化されれば、現在よりも多くの病床が閉鎖を余儀なくされ、救急外来の混雑はさらに深刻化するだろう。そうなれば、議員などを通じた「コネによる病床確保(裏口からの入院調整)」が常態化し、公平な医療提供体制を損なうことになりかねないと朱氏は警告する。
行政指導とインセンティブによる段階的な推進を 現時点での三交代制基準の法制化には、物理的な限界がある。衛生福利部が行政指導とインセンティブ制度を先行させているのは、政府側もその「難易度の高さ」を認識しているからだ。現在、基準を達成できている医療機関は全体の7割から9割に留まっている。
「もし今すぐ法制化すれば、未達成の残り2割から3割の病院はどうすればいいのか」と朱氏は問いかける。人員確保は単なる賃金の問題だけではない。各病院で労働条件が異なる中、人手不足を解消できない僻地の地区病院は廃業に追い込まれる可能性が高く、国内の「無医地区」を増やす結果を招きかねない。
医療改革は「一朝一夕」にはいかない ここ2年、国民健康保険の総額予算の伸び率は高水準にあり、状況は改善に向かっている。朱氏は「今必要なのは、各級病院が時間をかけて段階的に調整できる猶予だ。基準を満たせない病院を即座に崩壊させるような拙速な法制化は避けるべきだ」と総括した。
新基準を達成する病院数は着実に増加 病院側団体の見解を総括すると、各病院協会は「三交代制配置基準」の法制化そのものには反対していない。しかし、その推進は漸進的であるべきだと主張している。具体的には、各級の医療機関の少なくとも9割以上が基準を達成できた時点こそが、法制化に踏み切る適切なタイミングであるとの認識を示した。
一方で、「特管弁法(健康保険医事サービス機関契約・管理弁法)」を改正して看護師の最低賃金を規定することについては、断固反対の立場を貫いている。その理由は、「いかなる業種においても、賃金水準を法律で強制的に規定すべきではない」という原則に基づくものだ。賃金はあくまで「市場メカニズム」によって自然に形成されるべきであるとしている。
衛生福利部 インセンティブの成果を強調、法制化は慎重に議論 三交代制配置基準の法制化に対し、石崇良・衛生福利部長は、2024年に行政院で承認された「看護人力政策整備12戦略中長期計画」に言及。看護師にとってより良い職場環境を構築することが目的であると説明した。
また、昨年から開始された公的予算による夜勤手当の支給などの措置は、すでに着実な成果を上げている。現在、新基準を達成する病院の数は着実に増加傾向にあるという。
石部長は今後の展望について、看護師の現場復帰のスピードや、各級病院が「診療能力の維持」と「友好的な職場環境」を両立できているかを見極めた上で、法制化の具体的なスケジュールについて詳細な議論を進めていく方針を示した。