2026年の台湾統一地方選挙(11月28日投開票)で、首都・台北の市長選が冷え込んでいた選挙戦を熱くしている。「プランB」として擁立された民進党の沈伯洋(しん・はくよう)氏は当初、対立陣営からも党内からもほとんど期待されていなかった。それが今や「洋流」(沈氏の名の「洋」と「海流」を掛けた支持者側の呼称で、沈氏を取り巻く支持の広がり、いわば「沈伯洋ブーム」を指す)を巻き起こし、急速に追い上げている。
再選に余裕を見せ、市政府研究発展考核委員会の殷瑋主任委員に対応を任せていた国民党の現職・蒋万安市長も、2022年の三つどもえとなった市長選で繰り返した「慎重に臨み、決して油断せず、薄氷を踏む思いだ」という言葉を、4年ぶりに口にするようになった。
かつて大ヒットしたドラマ「WAVE MAKERS~選挙の人々~」(原題:人選之人―造浪者)は、台湾初の政治スタッフを主人公にした職業ドラマだ。政党の広報部門の物語を通じ、選挙で政治スタッフや宣伝チームが果たす役割の大きさを浮き彫りにした。
いま沈氏が台北市長選で「洋流」を起こしているのは、沈氏の人柄や経歴に引かれた支持者がいるからだが、沈氏個人の魅力に加え、陣営もまた重要な推進役となっている。スポットライトの外で「流れ」をつくっているのは誰なのか。彼らはどのように台北市長選を揺さぶっているのか。勢いを増す沈氏には、どんな不安材料があるのか。
沈伯洋氏が巻き起こした「洋流」を受け、蒋万安市長(右)も楽勝ムードではいられなくなった。「慎重に臨み、決して油断せず、薄氷を踏む思いだ」と繰り返し強調している。(劉偉宏撮影)
当初は期待薄だった沈氏 8月から「洋流」で情勢に変化 2026年9月23日、11月28日の投開票まで約2ヶ月を控えた時点で、沈氏はすでに終盤戦さながらの動きを見せていた。朝は南福宮で参拝して支持を訴え、午後は地元の五分埔商店街を練り歩き、夕方には西門町で街頭演説会を開いた。午前と夜にはそれぞれ座談会もあり、一日中予定が詰まっていた。
南福宮でも五分埔でも西門町でも、沈氏が姿を見せる前から大勢の支持者が待ち構え、沈氏と触れ合うために3、4時間前から現地に来る人までいた。
だが、2026年5月13日に頼清徳総統が民進党主席として沈氏の擁立を発表した当時は、国民党陣営が冷笑しただけでなく、民進党内でも期待する声は乏しかった。
同市議によると、沈氏の情勢は8月に大きく変わり、上向き始めた。関係者によれば、「洋流」が起きてからは、「小鶏」と呼ばれる台北市議選候補らも沈氏との連携を強めたほか、他の県市の首長候補陣営からも応援要請が相次いでいる。台湾の選挙では、首長候補を「母鶏」、その傘下で戦う議員候補を「小鶏」と呼ぶことがある。
ただ、沈氏はあくまで台北での日程を優先している。沈氏の練り歩きや地域行事といった「地上戦」の日程は、民進党の台北市議会会派が会議で協議し、陣営は円グラフを作って市内12の行政区に均等に割り振っているかを確認しているという。
沈伯洋氏が訪れる先では、南福宮、五分埔商店街、西門町のいずれでも、本人が姿を見せる前から大勢の支持者が待ち構える。沈氏と触れ合うため、3、4時間前から訪れる人もいる。(顔麟宇撮影)
沈陣営の見分け方は「黒地にオレンジ文字のベスト」 沈氏はすでに地域回りを始め、政策も次々と打ち出し、選挙ソングやキービジュアルなども発表して「洋流」を巻き起こしている。
ただ関係者によると、沈陣営には今も選対本部長(主任委員)を務める「党の大物」がいないため、最近は「大物が欠けている」と陣営に助言する人や、「陣営がまだ固まっていない」と評する人も出ている。
ある陣営関係者は風傳媒に対し、「皆、古い選挙の枠組みを私たちのチームに当てはめすぎだと思う」と、やや困惑気味に語った。
台湾メディア『風傳媒(ストームメディア)』の取材によると、沈陣営では民進党の呉思瑤立法委員(台北市北投・士林選挙区)が総幹事を務め、地上戦の組織固めは、民進党台北市党部主任委員で台北市中正・萬華選挙区選出の呉沛憶立法委員が執行総幹事として担う。SNSなど「空中戦」の広報・宣伝は民進党比例代表の范雲立法委員が担当し、政策センターは同じく比例代表の陳培瑜立法委員が招集人を務める。
陣営幹部によると、沈陣営は毎週1回全体会議を開き、各チームが進捗を報告し、大きな方針を固めた後、それぞれが動く仕組みだという。
関係者によると、沈陣営はすでに50人を超え、加わりたいという人も後を絶たない。風傳媒の観察では、沈氏がSNSで予告する公開行事では、外側でオレンジ地に白文字のベストを着たボランティアが現場の秩序維持や通路の確保に当たり、内側で黒地にオレンジ文字のベストを着たもう一つのグループが沈陣営のスタッフだ。
外側のボランティアは老若さまざまだが、内側の黒ベストのスタッフはほぼ全員が若い顔ぶれだ。
沈伯洋氏(左から2人目)の選挙陣営はすでに50人を超える。黒地にオレンジ色の文字が入ったベストを着ているのが、沈氏のそばで活動する中核スタッフだ。(鍾秉哲撮影)
民進党各派閥から人材 沈氏も自前の部隊を率いる 『風傳媒(ストームメディア)』 の調べでは、民進党の派閥「新潮流」「英系」「民主活水」からそれぞれ人材が加わっているほか、沈氏自身も一つの部隊を率いて選挙戦に臨んでいる。
陣営の執行長は沈氏の議員事務所主任、蔡承婷氏だ。沈氏が立ち上げた民間防衛教育組織「黒熊学院」の副執行長や、同じく沈氏が設立し中国の認知戦を研究する「台湾民主実験室(ダブルシンク・ラボ)」の運営責任者を務めた。政策センター副主任の陳韻如氏も、台湾民主実験室の研究員や黒熊学院の協力講師を務めた経歴を持つ。
また陳氏も、台湾民主実験室の研究員時代、のちに同実験室の副執行長となった曾氏とともに、2020年の総統・立法委員選挙で偽情報が有権者に与えた影響を調査・分析している。
『風傳媒(ストームメディア)』 のさらなる取材では、沈陣営には、沈氏の議員事務所や台湾民主実験室、黒熊学院の出身者に加え、2014年のひまわり学生運動に関わった市民団体やシンクタンク、「経済民主連合」や「台湾公民陣線」の出身者、さらに高校の学習指導要領改定に反対した運動に参加した社会運動家もいる。民進党中央党部の青年部主任、黄聖文氏らも沈陣営に加わった。
沈伯洋氏の中核チームには、過去に社会運動で活動をともにした仲間や、各方面から集まった若者が参加している。写真は、青年チームのメンバーに「巡洋監兵」のステッカーを貼り、若者に開票監視への参加を呼びかける沈氏(左から2人目)。(中央通信社)
沈氏自身が筋金入りの「ネット民」 宣伝班はネットに敏感な若者を結集 認知戦や情報戦への対抗に精通した沈氏と陣営は、宣伝面でも独自の道を切り開いているようだ。
民進党はかつて宣伝の創意工夫で一歩先を行っていたが、2025年には国民党の新媒体部が、「liar(うそつき)」とかけた「ライアー校長」シリーズの動画で頼清徳氏を風刺し、ネットで大ヒットした。
今回の選挙戦でも、沈氏を「赤い熊」に仕立て、AIで顔を差し替えた動画がネットにあふれているが、コメント欄を見る限り沈氏のイメージを傷つける狙いは果たせていないようで、むしろ民進党支持者から喝采が上がり、「結構かわいい」との声まで出ている。
台北市長選への擁立以来、養女やベトナム出身の祖母をめぐる心温まるエピソードを紹介したショート動画は、確かに沈氏に好影響をもたらした。
9月24日夜には、陣営が「魯肉飯(ルーローハン)当てコンテスト」のショート動画を公開した。人気チェーン「鬍鬚張」の3代目、張耀升氏が蒋氏の後援会行事に出席して一部の民進党支持者からボイコットされた騒動や、老舗「金峰魯肉飯」の女性経営者、蘇月雲さんが沈氏支持を表明して国民党支持者から低評価を書き込まれた騒動に巧みに応える内容で、蒋氏が先にフェイスブックに鬍鬚張で食事する様子を投稿したこととも比べられた。
関係者によると、沈氏のSNS・宣伝チームは台湾各地から人材を集め、動画編集や企画が得意な若者で構成されている。メンバーの多くが若いため、ネット上の議論にも敏感だ。
ある陣営関係者は、今回の魯肉飯の目隠し当て動画は、SNS担当者が企画を考え、沈氏と相談したうえですぐに撮影したものだと話す。別の陣営幹部は、若者のネット用語で言えば沈氏自身が「活網仔」、つまり日常的にネットを使いこなす筋金入りの「ネット民」で、SNS運営にも自分なりの考えを持っていると語った。
沈伯洋氏(中央)の広報チームには台湾各地から、動画編集や企画を得意とする若者が集まっている。写真は五分埔で練り歩く沈氏。紫色の服を着た祖母も現場に駆けつけ、声援を送った。(資料写真、顔麟宇撮影)
「まだ羽が生えそろっていない」頃は先導役が必要 今では基本動作も板に 関係者によると、沈陣営には制度上の組織図はあるものの、新しく若いチームとして運営は極めてフラットで、従来型の選挙とは異なり、現時点で一人の「司令塔」はいない。
ある陣営関係者は風傳媒に対し、陣営では何事もメンバーがそれぞれ意見を出し、それを集約して共通認識をつくっており、沈氏自身も陣営の重要な「頭脳」だと明かす。
実際、沈氏が選挙運動に適応する速さには、党内でも驚きの声が上がっている。
2026年1月9日、沈氏は南部・高雄へ赴き、当時予備選を戦っていた民進党の邱議瑩立法委員の選挙カーでの遊説に同行した。ところが、邱氏の支持を訴えるはずの沈氏はマイクを握るなり固まってしまい、邱氏に紹介してもらう始末だった。高雄選出の民進党・黄捷立法委員は「Puma(沈氏の愛称)が最も苦手なのは選挙カーでの遊説だ」と語った。
呉沛憶氏も以前、沈氏が自分の地域回りに同行した際、「道中ずっと彼が誰なのかを紹介していた」と明かしている。
一方、2026年5月に台北市長選への擁立が決まった当初は、台北・新北・基隆の選挙戦を統括する民進党の徐国勇秘書長が自ら沈氏を連れて地域を回った。
沈氏は当時、自分は「まだ羽が生えそろっていない」ので、徐氏に地域を一通り案内してもらう必要があると話していた。だが風傳媒の観察では、沈氏は最近、市場の練り歩きでも寺院での参拝でも地域の会食でも、促されなくても自然に地元の市議選候補を紹介し、「議員全壘打(市議選は全員当選を)」と呼びかけるまでになっている。
沈伯洋氏(左)は立候補当初、民進党の徐国勇秘書長(右)に同行してもらう必要があったが、選挙運動への適応は早く、現在ではつきっきりで教わる必要もなくなった。(資料写真、顔麟宇撮影)
支持者が名付けた「洋流」 民進党の集会で久々の「息もできないほどの人出」 沈氏が従来の選挙戦のスタイルを覆している理由は、本人と一風変わった陣営だけではない。
何度も選挙を戦ってきたある民進党の台北市議は風傳媒に対し、沈氏が起こした「洋流」は見たことのない光景だと語る。
「行ってみて本当に驚いた。とんでもなく長い列ができていて、何事かと思った。市長選じゃなかったのか、まるでスターのサイン会じゃないか」
「回を追うごとにすごい人出になり、人があふれ出していた。息が詰まるほど人が押し寄せる練り歩きなんて経験したことがない」
「洋流」という言葉は、もともと支持者が自ら名付けたもので、陣営がそれに気づいて採用した。
ある陣営関係者によると、沈氏の練り歩きで「洋流」の兆しが見え始めたのは8月18日で、その後は回を追うごとに人が増え、9月10日の石牌商圏では人の列が数百メートルに及び、9月15日の公館商圏でも驚くほどの人出となった。
ある民進党の台北市議は、「洋流」による人出について「これまで見たことのない光景だ」と語った。写真は9月18日、台北市文山区の景美夜市を練り歩く沈伯洋氏。現場には大勢の支持者が集まった。(鍾秉哲撮影)
熱烈なファン、支持者、通行人 「洋流」の3つの顔 『風傳媒(ストームメディア)』の観察では、「洋流」は大きく3層に分けられる。
沈氏に最も近い内側の輪は、自らを「粉撲」と呼ぶ熱烈なファンだ。主に若者で、中年層もいるこのグループは沈氏を追って各地を回り、非公開の日程などの「内部情報」までつかんでいる。
中間の輪は沈氏や民進党の地元支持者で、年齢層は幅広く男女ともいるが、女性がやや多い。子どもを連れた母親も少なくなく、黒熊学院がよく開く民間防衛講習の受講者層と似ているようだ。
例えば9月22日夜の延三夜市での練り歩きでは、外側で見物していたのは年配の地元住民や仕事帰りの通勤客が中心だった。一方、9月23日夜に西門駅前で開いた街頭演説会では、外側に買い物や食事に向かう若者が多かった。
『風傳媒(ストームメディア)』 の観察では、こうした人たちは熱心なファンに勧められて旗を手にするものの、内側の人たちと一緒に旗を振り続けるわけではない。
「洋流」は、最も内側の熱烈なファン、その外側の支持者、さらに外側の見物人という、おおむね3層で構成されている。(資料写真、鍾秉哲撮影)
「隣の家の息子」対「マダムキラー」 沈氏と蒋氏、それぞれ中高年女性に人気 興味深いことに、9月2日に沈氏が立候補を届け出た日、風傳媒は、スマートフォンを手にした市民が沈氏にどの政党なのかを尋ねる場面を目撃している。当時はまだ知名度が十分でなかったことがうかがえる。
関係者によると、沈氏は大規模リコール運動を通じて反感を買ったものの、それは政治に詳しい有権者に限られ、多くの人は沈氏をよく知らなかった。
このため、いま沈氏に引き寄せられている層の入り口もさまざまで、「アニメオタク」のイメージに引かれた人もいれば、よくある政治家らしくないところに魅力を感じた人もいる。
一方、風傳媒の取材では、沈氏は年配層へのアプローチにも独自の手法を持っている。
蒋氏が「貴公子」「マダムキラー」のイメージで中高年女性の心をつかんでいるのに対し、沈氏は「隣の家の息子」のような礼儀正しさで年長者に好印象を残している。
ある年配の男性は、偶然沈氏の練り歩きに出くわした時の話をうれしそうに語った。まだ「洋流」ができる前で沈氏の周りにはほとんど人がいなかったが、沈氏は丁寧にお辞儀をしてあいさつし、握手までしてくれたという。
ある民進党の台北市議も、「洋流」が起きる前に沈氏を連れて地域の会食を回った際、中高年の女性たちが「とても素直そう」な沈氏を意外にも気に入っていることに気づいたと話す。
ある民進党の立法委員はこう分析する。沈氏はもともと「予備校の人気講師」として世に出て、教え子の中には後に弁護士や検察官になった人もいる。このため多くの法曹関係者の間ではとうに知られた存在で、その後の民間でのさまざまな活動を通じて築いてきた人脈も加わり、「これもある種の『洋流』だと思う」と語った。
沈伯洋氏(右)は年配層へのアプローチにも独自のスタイルを持つ。「隣の家の息子」のような礼儀正しさで、年長者に好印象を与えている。(顔麟宇撮影)
陣営が感じる不安 固定支持層に囲まれ支持拡大できない懸念 ただ、「洋流」が熱を帯びるにつれ、沈氏のスタッフは人出の裏にある不安も感じ始めている。
関係者によると、陣営内部では、練り歩きのたびに既存の支持者が記念撮影やサインを求めて殺到すれば、かえって沈氏が露店の店主や地元住民と触れ合う機会が狭まり、より多くの地元有権者と接するという練り歩き本来の目的から外れてしまうとの懸念が出ている。
さらに重要なのは、沈氏を追いかける熱烈なファンの多くは、もともと沈氏に投票すると決めている人たちで、これでは支持の拡大につながらないかもしれないことだ。このため陣営は歩調の調整に乗り出した。
風傳媒の観察では、公館商圏や景美夜市に大勢の支持者が集まった後、沈陣営は日程の公表方法を見直し始めた。
SNSでの日程予告の時間を遅らせたほか、9月24日夜には予告なく萬華区の中原夜市に姿を現した。事前の取材案内もなく、駆けつけた報道陣の多くは地元の市議を通じて知ったという。
陣営は、一部の市場や夜市は空間が狭いことや、支持者があちこち駆け回って疲れすぎないよう配慮したためと説明している。
だが関係者によると、もう一つの狙いは、沈氏が固定支持層に取り囲まれるのを避け、地元住民と実際に接し、中間層や国民党寄りなど、まだ沈氏に近づいていない人たちと出会える機会をつくることにある。
「洋流」を票に結びつけられるかは、民進党全体の関心事だ。とりわけ大規模リコール運動の失敗が残した影は大きく、陣営は熱気を目の当たりにしても完全には安心できずにいる。
沈氏と「流れをつくる人たち」に課された次の試練は、支持者の熱意を受け止めながら、まだ態度を決めていない台北市民の方へと泳ぎ続け、「洋流」を支持層の外へ広げられるかどうかだ。
そして、自らが「洋流」の中に閉じ込められてしまわないかどうかでもある。