台湾で11月28日に投開票される統一地方選挙の台北市長選で、与党・民進党の候補、沈伯洋氏を軸にした支持拡大の動きが、沈氏の名前の「洋」にかけて「洋流」と呼ばれている。
民進党にとって台北市は長年の苦戦区だが、従来型の政治家とは異なる沈氏の下に支持者が集まり、夜市での街頭活動や公開行事には多くの人が詰めかけている。一部の世論調査では現職の蒋万安市長との差が縮まる傾向もみられる。
民進党内では、「洋流」の勢いが基隆市や新北市など台湾北部の他の県市にも波及し、各地の選挙戦にも影響を及ぼしているとの受け止めがある。 今回の統一地方選で党全体の勢いを押し上げ、地方組織の結束を強める材料になるとの期待も出ている。
こうした中、沈氏陣営に飛び火しかねない騒動が持ち上がった。
台南市で民間団体が5日間にわたって開催した「鍘美(さつび)芸術祭」が話題を集めたことを受け、これにならう形で、台北市でも有料の寸劇「狸猫換太子(りびょうかんたいし)」を上演する計画が浮上した。
「鍘美芸術祭」は、陳水扁元総統の長女・陳幸妤氏の離婚をめぐる話題から派生し、9月18~22日に伝統劇などを上演した催し。「狸猫換太子」は、皇子が狸猫とすり替えられる中国の古典説話で、本物と偽物のすり替えを題材にした物語だ 。
今回の企画は、この物語になぞらえて、蒋万安市長の家族史を揶揄する狙いがあるとされた。蒋氏は蒋介石元総統のひ孫として知られ、父の蒋孝厳氏は2005年に姓を「章」から「蒋」に改めている。
ネット論客の「四叉貓」氏は9月26日のネット配信で、出演依頼を受けたことを認めて台本を公開し、強いプレッシャーを感じていると打ち明けた。
沈氏は取材に対し、相手候補の過去や家族、出自を選挙戦の争点にすべきではないと強調。選挙では市政運営や候補者の能力を問うべきだとして、出自をめぐる攻撃には「個人的には非常に賛成できない」と明言した。
ネット論客の四叉貓氏(中央)は配信で、「狸猫換太子」への出演依頼を受けたことを明かし、大きな重圧を感じていると語った。(資料写真、劉偉宏撮影)
民進党内、「洋流」への悪影響を懸念 沈氏への飛び火回避へ 騒動が広がる中、政治評論家の呉静怡氏は交流サイト(SNS)「Threads」に、インド太平洋戦略シンクタンク(IPST)の矢板明夫執行長(CEO、元産経新聞台北支局長)の謝罪声明を投稿した。
声明では、「狸猫換太子」についてさまざまな点を慎重に検討した結果、公演を見合わせるか延期する方向で対応するとし、社会に対して謝罪するとともに、寄せられた意見に感謝した。
呉氏は、四叉貓氏から朝一番に電話を受け、当初は事情を十分に把握していなかったものの、直ちに6本の電話をかけて調整に動いたと説明。関係者の迅速な連絡、意思疎通と理解に謝意を示した。
柯氏は2023年7月、総統選に向けた資金集めのコンサートを開催し、会場参加のチケットを1枚8800台湾ドルに設定したことで話題となった。
同有力者は、とりわけ台北市で相手候補の出自を標的にする動きが沈氏と結びつけられれば、「洋流」に大きな悪影響を及ぼしかねず、2022年の台北市長選で陳時中氏が直面したような状況に再び陥る恐れがあったとの見方を示す。
沈氏が今回の問題への回答に慎重だったのもそのためだという。蒋氏の長男が台北市の交換留学制度に選ばれ、公費補助の扱いなどが議論となった問題についても、沈氏は慎重に言葉を選んで対応した。
この問題に深く関わった別の民進党関係者は、騒動が沈静化した要因として2点を挙げる。
1つ目は、四叉貓氏が配信で「愚痴という形で」計画を明かしたことだった。これを受け、多くのインフルエンサーが懸念や不満を表明し、ネット上で反対の声が広がった。それぞれのルートを通じて沈氏陣営にも事情が伝えられ、計画の進行にブレーキがかかったという。
2つ目は、党上層部もこの問題に関心を寄せていたことだ。
台北市の選挙戦の総責任者を兼ねる徐国勇・民進党秘書長(幹事長に相当)も事態を注視していたという。
同関係者は、民進党が民間団体に公演の中止を求めることはできないとした上で、徐氏があるルートを通じて主催者側に懸念を伝え、党側の考えを説明したのは確かだと明かした。
「狸猫換太子」をめぐる騒動が広がる中、民進党の徐国勇秘書長は主催者側に「懸念」を伝えた。(資料写真、劉偉宏撮影)
ポスターは完成済み 出演予定者も知らぬ間に「有料公演」へ 民進党関係者によると、「狸猫換太子」はすでにポスターまで完成していた。
少なくとも7、8人の著名な民進党寄りのコメンテーターに加え、民進党寄りのメディア関係者も参加する予定だったという。
ところが、ほとんどの関係者が企画が「有料公演」になったことを知らず、役柄やせりふも大幅に変わっていた。参加を打診された関係者の多くは企画の進行状況を把握しておらず、四叉貓氏の配信を見た後に初めて、「なぜ有料公演になったのか」と個別に問い合わせた人もいたという。
同関係者は、「鍘美芸術祭」の成功例をそのまま台北市に当てはめることはできないとの見方を示す。
蒋氏の出自という敏感な問題を扱い、さらに有料公演となれば、台北市の有権者に悪い印象を与えかねないためだという。
台湾メディア『風傳媒(ストームメディア)』の取材によると、企画のために作られたグループには、台湾の主体性を重視するいわゆる「台湾派」の年長者も少なくなかった。
前出の関係者によれば、こうした人々も招待されて参加しただけで、普段の議論にはあまり加わっていなかった。主催者以外の出演者や参加者の多くは企画の進行状況を把握しておらず、事態がここまで進んでいたことに驚いたという。
同関係者は、現時点では「爆弾の処理には成功した」と受け止めている。
「狸猫換太子」をめぐる騒動には、台湾派の内部でも戸惑いが広がった。写真はイメージで、記事の内容とは関係ない。(資料写真、鍾秉哲撮影)
2022年選挙の反発を教訓に 頼氏は出自攻撃を避けるよう要求か 民進党内には、こうした攻撃が中間層の反発を招き、陳時中氏の選挙戦に悪影響を及ぼしたとの受け止めがある。
党関係者によると、台北市長選を重視する民進党主席の頼清徳総統は、早い段階から党所属の公職者や政治討論番組に出演する党関係者に対し、蒋氏の出自を選挙の攻撃材料にしないよう求め、市政運営や政策をめぐる論戦に焦点を当てるよう指示していたという。
党内では、いわば蒋氏の出自をめぐる「かん口令」が敷かれていたとの説明もある。
ある党関係者は、こうした方針があったからこそ、沈氏は今回の「狸猫換太子」騒動でも、即座に反対を表明し、出自をめぐる攻防と明確に一線を画すことができたとの見方を示した。
民進党の台北市関係者は、沈氏の選挙戦が党内の当初の予想を上回る勢いを見せていると話す。
「洋流」の影響は他の県市にも及んでいるとし、接戦となっている複数の県市について党内で「勝機がある」との期待が出始めているほか、隣接する新北市の選挙戦にも追い風になっているとの見方を示した。
台北市議会のある派閥に属する議員は、沈氏の行事日程の連絡対象から外されることが多く、何度問い合わせても連絡が来ないケースがあるとして、「特定の派閥しか深く関われないのか」と周囲に不満を漏らしているという。
こうした不満は、他の県市の党所属公職者にも伝わっている。
2022年の台北市長選に民進党から出馬した陳時中氏(写真)。当時、民進党寄りのメディアが蒋万安氏の出自を大きく取り上げたことは、選挙戦に打撃を与えた要因の一つとみられている。(資料写真、柯承惠撮影)
沈氏、出自攻撃と素早く距離 党執行部も首都選を支援 民進党執行部が台北市長選を重視する中、頼氏は9月30日、沈氏の選挙事務所で開かれた「洋流号」の記者会見に出席した。
選対総責任者の徐氏をはじめ、総幹事の呉思瑤氏、執行総幹事の呉沛憶氏、副主任委員の呉怡農氏、首席副総幹事の李建昌氏ら陣営の主要メンバーもそろった。
頼氏自身が「洋流号」の記者会見に出席したことで、党執行部が台北市長選を重視し、沈氏を支援する姿勢を示す形となった。
別の民進党関係者は、沈氏陣営の強みとして、チームの若さを挙げる。
党内の文書作成スタッフが支援に入る案もあったが、沈氏自身が演説や発信に長けているため、そのスタッフは別の任務に回されたともいう。
一方、陣営の「フラットな」組織運営には弱点もある。アイデアを生み出す力がある半面、組織内の情報管理が十分ではなく、内部情報が必要以上に外部へ流れることがあるという。
重要事項の意思決定が少数のメンバーに委ねられがちなほか、若手やNGO出身者が多く、選挙経験の不足も課題として指摘されている。
ある民進党関係者は、沈氏について、出馬後に予想以上の勢いを示していると分析する。
学者出身で、従来型の政治家とは異なる沈氏の姿が、国民党と民進党という従来の対立構図とは異なる印象を与え、若者や中間層の支持を引き寄せて「洋流」と呼ばれる広がりにつながっているとの見方だ。最近の一部世論調査でも、現職の蒋氏との差が縮まっている。
さらに同関係者は、「狸猫換太子」のような出自をめぐる攻撃と沈氏が素早く距離を置いたことについて、市政や政策を中心とした選挙戦を進める姿勢を示したものだと評価している。
沈氏の選挙戦が最終的にどのような結果につながるかはなお分からない。
同関係者は、沈氏の選挙スタイルは台北市の有権者への訴えにとどまらず、同関係者自身が「老朽化している」と評する民進党の従来型の宣伝・選挙運動のあり方にも、一つの問いを投げかけていると話した。