連日、馬英九(マー・インジウ)基金会を巡る人事騒動が波紋を広げている。野党・国民党内からは嘆きの声が漏れ、与党・民進党側が冷ややかな視線を送る中、とりわけ衝撃を与えたのは馬英九前総統自らの動向だ。馬氏は、長年苦楽を共にしてきた核心的幕僚である蕭旭岑(シャオ・シュウツェン)国民党副主席と、同基金会の前執行長である王光慈(ワン・グァンツー)氏に対し、「背任の疑いがある」として司法当局への告発を辞さない構えを見せたのである。
国民党内では、検察当局の介入を招き、事件が拡大・捏造されることを危惧する声が強まっていた。しかし、3月27日に開かれた同基金会の理事会において、司法への告発は見送られ、内部調査に留めることが決議された。これにより、事態は沈静化に向かうとみられる。関係筋によると、理事らが蕭氏・王氏による「財政規律違反」の証拠を精査したところ、証拠能力が不十分か、極めて些細な問題であるとの認識で一致。国民党側もひとまず安堵の色を浮かべている。
「茶瓶の中の嵐」か、それとも陰謀か 理事会に出席した関係者の証言によれば、代理執行長の戴遐齢(ダイ・シアリン)氏が提示した「蕭氏らの給与が高すぎ、私腹を肥やしている」との指摘に対し、ある理事は「ビジネス界の基準で見れば、むしろ哀れなほど低い給与だ」と一蹴したという。
また、別の理事は会合後、「内部で穏便に解決できたはずの『茶瓶の中の嵐(内紛)』が、なぜ本人たち、馬氏、基金会、ひいては国民党全体を傷つける事態にまで発展したのか」と嘆きを漏らした。
背景には、何らかの意図を持った第三者による煽動があったとの見方もある。しかし、国民党内部の多くの者が知る通り、蕭氏・王氏と馬氏の関係は単なる主従関係ではない。長年、政治的荒波を共に乗り越えてきた「患難辛苦を共にした信頼」で結ばれている。「これほど強固な関係が、そう簡単に揺らぐはずがない」党内には依然として困惑と疑念が渦巻いている。
馬英九氏(手前右)と長年の側近である蕭旭岑氏(中央)、王光慈氏(左)の決裂は、台湾政界で大きな関心を集めている。(写真/馬英九弁公室提供)
2024年総統選での「不在」が影を落とす 揺らぐ馬氏の精神状態 蕭旭岑氏について言えば、この10年間、彼は馬英九氏の「代弁者」であり「分身」とも言える存在だった。『馬英九回顧録』の執筆を担い、対外的に馬氏の政治理念を伝達・解釈するだけでなく、常に第一線で馬氏を擁護し、歴史的な「中台首脳会談(馬習会)」などの重要案件を主導してきた核心的幕僚である。
それほどの信頼関係が、オフィス内で物議を醸していたある護衛官の通報ひとつで、脆くも崩れ去り、断絶に至った。この事態は国民党内に衝撃を与えただけでなく、蕭氏や王氏と親交のあったかつての部下たちにとっても、なぜここまでこじれてしまったのか、到底理解しがたいものだった。
「馬氏は多くのことを忘れてしまった」変質の兆候 国民党の内情に詳しい関係者は『風傳媒』の取材に対し、 「この事態は『氷凍三尺、一日の寒に非ず(物事の停滞や悪化は一朝一夕に起こるものではない)』の結果だ」と明かす。鍵となるのは、蕭氏が指摘した「馬前総統は多くのことを忘れてしまった」という言葉だ。
つまり、オフィスや基金会の運営体制も、蕭氏ら幕僚による「ボス」への接し方も長年変わっていない。問題は、現在の馬氏が、かつて皆が抱いていた「馬英九」という人物像とはもはや別人になってしまったことにあるという。
その変容の始まりを辿れば、2024年の総統選前後に突き当たる。2023年11月、馬氏は野党連合の立会人を務め、侯友宜(ホウ・ヨウイー)氏と柯文哲(コー・ウェンジェ)氏による共闘体制をあわや実現というところまで導いた。当時の馬氏は、依然として元総統としての風格と政治的知性を備えており、異変を感じさせるものは微塵もなかった。
「決起集会」の屈辱と、元高官らによる批判 決定的な転機となったのは、2026年1月の投開票直前に行われた「選前之夜(投開票前夜の決起集会)」だった。馬氏がドイツの公共放送『ドイチェ・ヴェレ(DW)』のインタビューで発した発言を巡り、突如として侯友宜陣営から出席を拒否されたのである。
国民党内で最高の政治的地位にある党員が、最も重要な大選の決起集会から排除される。これは馬氏にとって前代未聞の屈辱であり、甚大な精神的打撃となった。選挙後も低落した気分は晴れず、追い打ちをかけるように、かつての部下である銭復(チエン・フー)元監察院長や蘇起(スー・チー)元国家安全会議秘書長が相次いで回顧録を出版。その中でかつての上司である馬氏に対し批判的な言及がなされたことも、馬氏の情緒に深い影を落とした。
2023年末、馬英九氏(中央)は元総統としての知見と政治的知恵を示し、野党連合(藍白合)の立会人を務めた。(写真/陳昱凱撮影)
中国訪問での「中途退席」事件 学生たちが目撃した馬氏の激昂 2024年4月の「第2回中台首脳会談(馬習二会)」から2025年5月にかけて、馬英九氏は公私ともに多くの活動をこなしていたが、その裏では少なからず「異変」が生じ始めていた。蕭旭岑氏や王光慈氏が全力でサポートしていたため、外部にその兆候が漏れることはなかったが、多くの旧部下や党幹部は馬氏の変容を察知し、密かに感傷と不安を抱いていた。
決定的な出来事は、2025年6月に起きた。馬氏が「大九学堂(ダイキュウ・ガクドウ)」の青年たちを率いて中国の福建・甘粛両省を訪れた際、蕭氏や王氏ですら制御不能な事態が発生したのである。この時の出来事が、現在の核心的幕僚との決裂を招く「遠因」となったことは、その後の波及効果からも明らかである。
14日間の過酷な旅、崩れた「温厚な紳士」のイメージ 訪中団に参加した学生が『風傳媒』の記者に語った証言によれば、馬氏は次第に疲労の色を濃くし、参訪中には案内役に対して同じ質問を何度も繰り返すようになったという。そればかりか、公衆の面前で幕僚を激しく叱責する場面も何度か見られた。かつての「温文儒雅(穏やかで洗練された紳士)」というイメージとはかけ離れた姿に、多くの学生が違和感を抱き始めていた。
上海での「名札」トラブルと失意の決別 台湾帰国当日となる6月27日、上海で開かれた歓送会の席で、馬氏の感情はついに爆発した。
会場に入った馬氏は、テーブルに置かれた自身の名札の「字体」が気に入らなかったという。周囲が説明を試みるも馬氏の怒りは収まらず、同行していた中国側官員に対して直接不満をぶつけただけでなく、ついには憤然として席を立ち、会場を後にした。
基金会のスタッフが急いで説得し、馬氏は会場に戻ったものの、情緒は不安定なままだった。蕭氏は場を和ませようと、学生好きの馬氏に「各テーブルを回って学生たちに挨拶してほしい」と促した。しかし、馬氏は学生たちに対し、挨拶ではなく「自分がいかに腹を立てているか」という理由を延々と説明して回ったという。学生たちは、自身の名前という尊厳に関わる問題への不満には理解を示しつつも、その激しい動揺ぶりには驚きを隠せなかった。
かつての温厚なイメージとは異なり、上海の歓送会で激昂した馬英九氏(中央)の姿は、同席した学生らを驚かせた。イメージ写真。(写真/顔麟宇撮影)
中国側の態度の変化と、馬氏の中に芽生えた「猜疑心」 上海での失態を経て、帰国の途についた馬英九氏の情緒は次第に落ち着きを取り戻した。しかし、この「上海事件」が残した最大の後遺症は、これまで馬氏の訪問を熱烈に歓迎してきた中国側の姿勢が、極めて慎重なものへと転じたことである。
2025年後半、馬氏は再び訪中を望み、蕭旭岑氏に調整を命じた。蕭氏は訪問期間の短縮や公開活動の制限など、中国側の懸念を払拭する案を提示したものの、中国側からの積極的な回答は得られなかった。2025年6月末の帰国以降、馬氏の精神状態は不安定な時期が続いており、蕭氏ら幕僚は、頻繁なメディア露出が馬氏の「異変」を露呈させることを危惧していた。
遠ざけられる公の場、深まる「分身」への嫉妬 馬氏の名誉を守るため、幕僚らは露出の頻度を最小限に抑える決定を下したが、これが馬氏には「遠ざけられている」と映り、強い反発を招いた。半年もの間、公の場に立てず、念願の訪中も実現しない状況に、馬氏の中には激しい不満が蓄積されていった。
特に、蕭氏が学生団を率いて中国との交流を続けることに対し、馬氏は強い憤りを露わにするようになった。事前に報告を受けていたとしても、事後には「学生を率いるのは自分であるべきだ」と、蕭氏に対する嫉妬心を剥き出しにしたという。さらに、蕭氏が国民党副主席に就任し、基金会の活動枠を超えて「国共交流」の当事者として活動し始めると、馬氏の蕭氏に対する疑念は抜き差しならないものへと深化していった。
決定打となった「王滬寧氏との会談」信頼から敵意へ 2026年2月初旬、蕭氏が国民党副主席として訪中し、北京で共産党最高幹部の一人である王滬寧(ワン・フーニン)政権担当常務委員と会談した。このニュースを耳にした馬氏は激昂し、「なぜ蕭旭岑 ごときが王滬寧と会えるのか」と、その資格を激しく問い詰めたという。
この時点で、馬氏の蕭氏に対する感情は、もはや信頼の欠如どころか、強烈な「敵意」へと変質していた。国民党関係者は、「馬氏がなぜ蕭氏との面会を拒み、一切の説明も聞き入れずに直接解雇を言い渡したのか。それだけでなく、容赦なく司法調査へ移送しようとしたのか。すべてはここ(王氏との会談による決定的な断絶)で説明がつく」と分析している。
蕭旭岑氏(左)が国民党副主席に就任後、国民党を代表して訪中し国共交流を行うようになったことで、馬英九氏の疑念は日増しに深まった。(写真/劉偉宏撮影)
旧正月の「失踪事件」と背後にいた黒幕 馬英九氏、側近切りを決定づけた空白の時間 馬英九氏と、長年の「右腕」であった蕭旭岑氏、王光慈氏との関係を修復不能なまでに破壊した「最後の一撃」は、旧正月を目前に控えた時期に放たれた。
事の発端は、職場内のトラブルで離職した元護衛官による「内部告発」だった。この元護衛官が独断で収集した基金会の内部資料を手に馬氏へ直訴したことが、泥沼の「お家騒動」へと発展する引き金となった。これを受け、馬氏はかつての盟友であり「金庫番」とも称された金溥聰(キン・フソウ)元国家安全会議秘書長に相談。金氏と基金会理事の高華柱(コウ・カチュウ)氏に事態の処理を全権委任した。3月27日、金氏は小年夜(2月15日)に馬氏、高氏、そして例の離職した元護衛官の三者と面会し、詳細を把握したことを認めている。
家族をパニックに陥れた「総統失踪事件」 2月25日に騒動が表面化する直前、実はこの危機を未然に防ぐチャンスが馬家と幕僚たちには残されていた。しかし、なぜそれは逃されたのか。その裏には、小年夜の昼時に起きた奇妙な出来事がある。
旧正月の準備に追われていた馬氏の家族は、突如として「馬英九の姿が見当たらない」ことに気づき、パニックに陥った。家族は直ちに基金会へ「総統がいなくなった」と連絡し、文山区の自宅周辺には複数のスタッフが急行して捜索に当たるという異例の事態となった。
「ベルトを買いに行っていただけ」という嘘 緊迫した空気の中、しばらくして一台の車が自宅前に現れた。運転していたのは、例の離職した元護衛官であり、助手席には馬氏が座っていた。
馬氏は動揺する周囲をよそに、「そんなに心配しなくていい。ただベルトを買いに行っていただけだ」と告げたという。家族やスタッフは、馬氏が無事に戻ったことに安堵し、それ以上の追及をすることなく各自の帰省の途についた。
しかし実際には、この「空白の時間」に馬氏は金溥聰氏らと密会し、蕭氏と王氏の追放という断を下していたのである。こうして、この騒動を内々に食い止めるための最後の窓口(チャンス)は永遠に閉じられ、国民党を揺るがす大嵐へと突き進むこととなった。