中東情勢の緊迫化によるエネルギー市場の動乱を鎮静化させるため、国際エネルギー機関(IEA)は11日、同機関の設立以来、過去最大規模となる4億バレルの戦略石油備蓄(SPR)を放出すると発表した。石油供給が不安定化する中、トランプ米大統領は先週までの「石油市場への介入反対」という姿勢から一転、同盟諸国に対し積極的な備蓄放出を働きかけるなど、その180度の方向転換が注目を集めている。しかし、ホルムズ海峡の封鎖により1日あたり2,000万バレル規模の供給が途絶える可能性を考慮すると、4億バレルという膨大な放出量であっても、わずか20日分程度の輸送量に過ぎない。戦況が長期化すれば、「焼け石に水」となる懸念が強まっている。
現在、ブレント原油価格は1バレル=99.54ドル(約1.5万円)付近で推移している。イランは「原油価格の武器化」を中核戦略に据えているとみられ、世界に対し「価格が1バレル=200ドルまで高騰するのを覚悟せよ」と警告を発した。フィナンシャル・タイムズ(FT)やブルームバーグ、ウォール・ストリート・ジャーナル各紙は、市場の供給不足がすでに2億2,000万バレルを突破している現状では、大規模なSPR放出も価格抑制への効果は限定的であるとの見方を伝えている。ロイター通信のコラムも、中東産原油への依存度が60%に達するアジア諸国にとって、米国による備蓄放出は「遠くの水は近い火を消せない」状況に直面していると指摘した。
ホルムズ海峡が開放されない限り、世界の安全保障上のバッファー(緩衝材)を使い果たすこの「歴史的救済措置」も、結局は穴の空いたバケツに貼られた絆創膏に過ぎない結果となる恐れがある。
IEAが4億バレルの備蓄放出を決定、米国は1億7,200万バレルを負担 今回の 危機に対し、IEAのファティ・ビロル事務局長は「石油市場が直面している課題は、規模の面で前例がない。IEA加盟国が今回の緊急招集に応じたことを歓迎する」と述べた。IEAが調整した32の加盟国による4億バレルの放出規模は、2022年のロシア・ウクライナ戦争勃発時に2段階に分けて放出された計1億8,200万バレルを大きく上回る。
FT紙によると、IEA加盟国は緊急時に動用可能な戦略石油備蓄(SPR)を計約12億バレル保有している。SPRの活用は、1970年代の石油危機に伴いIEAが設立されて以来、今回で5回目となる。ビロル事務局長は具体的な放出速度の詳細には触れなかったが、米国は計画された放出ペースに基づくと、全量の引き渡しには約120日を要するとの見通しを示しており、市場へ一気に供給されるわけではない。
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今回放出される 4億バレルのうち、米国は最大のシェアを引き受け、メキシコ湾沿岸の岩塩坑に貯蔵されている4億1,600万バレルの在庫から1億7,200万バレルを放出することを約束した。これにより米国の石油備蓄は1980年代以来の最低水準となる貯蔵容量の60%まで低下し、非緊急時の法定最低限度を下回ることになる。トランプ氏が選挙時に公約した「SPRを上限まで満たす」という内容とは、皮肉にも対照的な結果となる。
IEAは加盟各国の詳細な放出量を即座には明らかにしていないが、一部の国はすでに計画を公表している。英国は1,350万バレル、フランスは1,450万バレルの放出をそれぞれ発表。日本は国内需要の15日分に相当する民間備蓄と、1ヶ月分の国家備蓄を放出する方針だ。また、主要7カ国(G7)首脳電話会談後の声明において、欧州連合(EU)は中東情勢による市場の逼迫に関わらず、ロシア産石油に対する制裁を維持することを表明した。
2026年3月3日、米イリノイ州エルクグローブビレッジで、トラックがガソリンスタンド併設のトラック休憩所で給油している。(写真/AP通信提供)
トランプ大統領が急転換、「心配ない、介入不要」から「同盟国に石油放出を要請」へ 『 ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)』 紙は、石油供給の動揺を巡るトランプ政権の態度がわずか数時間のうちに急変し、同盟諸国に衝撃を与えたと報じた。トランプ氏は先週まで、原油高への懸念を一蹴し市場介入に反対していたが、一転して同盟国に対し介入の断行を積極的に働きかける姿勢に転じた。
トランプ氏は9日、衝突は「間もなく」終了するとの見解を示し、この発言を受けて原油価格は一時大幅に反落した。さらに、タンカーに対して「勇敢に出航せよ」と促し、米軍が「一夜にしてイランの機雷敷設艦をすべて排除した」と豪語していた。米国のクリス・ライトエネルギー長官も10日、主要7カ国(G7)高官に対し、原油価格が1バレル=90ドル(約1.4万)まで低下したことを理由に、大規模な市場介入は時期尚早であるとのホワイトハウスの立場を伝えていた。
しかし、イランによる航行への脅威は収まらず、タンカーは世界の石油・液化天然ガス(LNG)の約20%にあたる日量最大2,000万バレルが通過するホルムズ海峡の航行を事実上停止した。散発的に強行突破を試みるタンカーはあるものの、供給不足の解消には至っていない。戦火の拡大は予想を超え、11日午前にはホルムズ海峡付近で少なくとも3隻の船舶が相次いで攻撃を受けた。これは平穏を保っていた週末以降、1日あたりの被弾数としては最多となる。さらにイラク領海内のタンカーまでもが標的となり、イラク政府は石油ターミナルの稼働を緊急停止する事態に追い込まれた。
情勢の悪化を受け、米政府高官はそれまでの立場をわずか2時間足らずで覆し、各国に石油備蓄の大規模放出を促すよう方針を転換した。ある政府高官は、この急変はトランプ氏が考えを変えたことによるものだと明かした。トランプ氏は11日の当初まで戦略石油備蓄(SPR)の放出に反対していたが、顧問団から乱高下する原油価格を抑制するために不可欠であると説得され、翻意。ライト長官に対し市場介入を推進するよう指示を出したという。
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欧州の高官らは、この突然の豹変に困惑を示しながらも、懸念を押し切って史上最大規模の備蓄放出に同意した。この決定は、加盟国に提案の審議時間として通常48時間を与えるというIEAの慣例を破る異例の対応となった。WSJ紙は、こうした政策の急転換は、イラン情勢への対応におけるトランプ政権の意思決定の不安定さを反映していると指摘している。
トランプ米大統領。(写真/AP通信提供)
「穴の空いたバケツに絆創膏」日量2,000万バレルの欠乏に対し、放出量はわずか20日分 米国やIEAが相次いで対策を打ち出しているものの、JPモルガン・チェースの試算によれば、協調放出による供給ペースは最大でも日量120万バレル程度にとどまるとみられる(2022年の放出時は日量約100万バレル)。このペースでは現在の供給停止分の一部を補うに過ぎず、市場の深刻な供給不足を解消するには至らない。
バーンスタイン・リサーチの調査ディレクター、ニール・ベバリッジ氏は、「原油価格を押し下げる唯一の現実的な方法は、ホルムズ海峡の再開を確認することだ」と指摘する。同氏は、戦略備蓄の放出には時間を要する一方、ホルムズ海峡の封鎖による日量2,000万バレルの供給断絶に比べれば、放出される備蓄量は「雀の涙(微々たるもの)に過ぎない」と述べた。
『ウォール・ストリート・ジャーナル』 も、放出される4億バレルが原油価格を1バレル=100ドル(約1.6万円)未満に維持するのに十分であるかについては、依然として懐疑的な見方が大勢を占めていると強調している。この放出規模は、ホルムズ海峡を通過する輸送量のわずか20日分に相当するためだ。
さらに、海上輸送への脅威はホルムズ海峡にとどまらず、ペルシャ湾全域へと拡大している。現在、世界全体の原油消費量は日量1億バレルをわずかに上回るが、イラク、クウェート、サウジアラビアなどの産油国はすでに世界供給の約6%に相当する減産を余儀なくされており、世界のエネルギー供給網は一段と逼迫している。
空爆の影響で、イラン国内の製油施設の一つが損壊し、黒煙を上げている。(写真/AP通信提供)
イランが「1バレル=200ドル」を警告、再燃するインフレの悪夢 地政学的 な膠着状態により、原油価格の安定は見通しが立たない状況だ。イランは、いかなる停火(停戦)合意の条件としても、米国とイスラエルによる将来的な攻撃を二度と行わないという保証を米国に要求しているが、ワシントンがこれを受け入れる可能性は極めて低い。
こうした中、イランは「石油の武器化」を中核戦略に据えている。テヘランの軍報道官、エブラヒム・ゾルファガリ氏は11日、「世界は石油価格が1バレル=200ドル(約3.1万円)まで急騰する事態に備えるべきだ」と公然と警告した。
皮肉にも、IEAによる備蓄放出のニュースが伝わった後、原油価格は下落するどころか上昇に転じた。ブレント原油は一時8.2%急騰して1バレル=99.54ドル(約1.9万円)をつけ、WTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)も94ドル(約1.5万円) を突破した。バノックバーン・グローバル・フォレックスのコモディティ担当責任者、ダレル・フレッチャー氏は、市場が抱く深層の恐怖を次のように語った。
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「市場はIEAの放出を完全に無視した。これは誤ったシグナルを発した可能性がある。彼ら(IEA)は、我々がまだ知らないさらなる『バッドニュース』を掴んでいるのではないか」
米カリフォルニア州のガソリンスタンドに「サービス停止」の掲示が出されている。(AP)
地理の厳しい現実、米国の「遠水」はアジアの「近火」を救わず ロイター通信のエネルギーコラムニスト、ロン・ブッソ氏は、今回のエネルギー危機において最も深刻な打撃を受けるのは、原油調達の60%をペルシャ湾に依存するアジア地域であると指摘する。現在、アジアの多くの製油所が減産を開始しており、一部の国では在庫を温存するために燃料の配給制(ラショニング)の導入を余儀なくされている。
今回のIEAによる備蓄放出において最大のシェアを占める米国だが、その救済策がアジアに届くにはあまりにも時間がかかる。まず、輸送コストと時間の問題だ。米国メキシコ湾岸からアジアまでの航程は40日から60日を要し、これは中東からの輸送時間の2倍以上に相当する。さらに、戦火の影響でタンカーの運賃も急騰している。ロイターの試算によると、米国からシンガポールへの原油輸送費は現在、1バレルあたり10ドル(約1.6千円)から12ドル(約2千円)の追加コストが発生しており、これは貨物価値の約15%に相当する。戦前の輸送費比率がわずか2〜3%であったことと比較すれば、その異常な高騰ぶりがわかる。
2026年3月11日、アラブ首長国連邦のホール・ファッカーンからホルムズ海峡を望むと、複数のタンカーや船舶が海上で列をなして航行しているのが見える。(写真/AP通信提供)
世界の「最後の命綱」を使い果たす懸念 IEAの介入は、インフレと景気減速に直面する世界各国の政府に対し、一時的な猶予(息継ぎの時間)を与えることは間違いない。しかしブッソ氏は、その裏には長期的な代償が隠されていると警告する。今回の記録的なSPR放出は、世界が備えていた「緊急時の救命資金」を大量に消費することを意味するからだ。
今後、中東の戦況が泥沼化し、衝突がさらに激化すれば、世界の消費国が頼れる安全保障上の緩衝材は極めて脆弱なものとなる。ロイター通信は、「中東のエネルギー大動脈が速やかに復旧しない限り、この歴史的な備蓄放出という介入も、広大な大海の一滴にすぎない結果に終わるだろう」と悲観的な見通しで記事を締めくくった。