再び強まる「石油」の存在感
2026年の春から夏にかけて、世界経済は再び、あのなじみ深い匂いを感じ取り始めている。石油の匂いだ。
今年2月末、米国とイスラエルはイランに対する軍事行動を共同で展開し、イラン革命防衛隊(IRGC)や一部の宗教・政治高官を標的にした精密攻撃を実施した。これにより中東情勢は一気に緊迫化した。衝突はなお収束しておらず、米国とイランの交渉も行き詰まっている。
しかし、世界の金融市場が本当に警戒しているのは、ミサイルそのものではない。エネルギー供給の途絶と原油価格の上昇である。
イランは石油輸出国機構(OPEC)の重要加盟国であるだけでなく、世界のエネルギー輸送の要衝であるホルムズ海峡を押さえている。世界の石油と液化天然ガス(LNG)の約5分の1がこの海上交通路を通過しており、輸送に支障が出れば、エネルギー価格は地政学リスクを直ちに織り込み、大きく変動する。
ブレント原油価格は年初の1バレル60ドル台から上昇基調を強め、3月上旬には100ドルを突破した。エネルギー価格の高騰に伴い、米国の消費者物価指数(CPI)と個人消費支出(PCE)物価指数の前年比上昇率は再び3%台に乗せた。低下傾向にあったコアインフレ率も反転上昇している。
さらに注目すべきは、ミシガン大学の消費者調査で、今後1年間の期待インフレ率が約4.5%まで上昇し、近年の高水準に達したことだ。
市場では当初、米連邦準備制度理事会(FRB)が年内に利下げを行う余地があるとの見方が広がっていた。しかし現在は、原油高が続けば、FRBは利下げを見送り、場合によっては利上げに転じるのではないかとの見方も出始めている。
一見すると、結論は単純に見える。インフレ率が上がれば、中央銀行は利上げを行う。だが今回の物価上昇の主因は、需要の過熱ではなく、典型的な「供給ショック」である。歴史が示すように、原油高が主導するインフレに対して、利上げの効果は教科書的な説明ほど単純ではない。
1970年代の教訓 利上げだけでは原油高を止められない
原油高とインフレを語る上で、1970年代の2度にわたる石油危機を避けて通ることはできない。
1979年にイラン革命が起きると、第2次石油危機が発生した。原油価格は1バレル約15ドルから40ドル近くまで急騰した。当時の米国は、不況下で物価が上昇するスタグフレーションという深刻な局面に陥った。とりわけ1980年から1982年にかけては、経済がマイナス成長に陥り、失業率が2桁に迫る一方、1980年の消費者物価上昇率は13.5%に達した。
FRBは当初、利上げによってインフレを抑え込もうとした。しかし効果は限られていた。理由は明白だ。問題の根源は需要ではなく、供給にあったからである。
産油国が減産を続ける中で、金利上昇によって米国企業が投資を控え、家計が消費を切り詰めたとしても、世界の石油供給不足は解消されない。結果として、金利は上がり、景気は悪化したが、原油価格は高止まりした。
インフレ鎮静化はボルカー氏だけの功績ではない
1979年にFRB議長に就任したポール・ボルカー氏は、極端な金融引き締めに踏み切った。フェデラルファンド(FF)金利は一時20%近くまで引き上げられ、近代金融政策史に残る水準となった。ボルカー氏はその後、「インフレを退治したFRB議長」として語られるようになった。
ただし、歴史を詳しく振り返ると、同氏の高金利政策だけがインフレを長期的に沈静化させたわけではない。もう一つの決定的な要因は、エネルギー供給の回復だった。
1980年代初頭には、北海油田の本格開発、アラスカのプルドーベイ油田の増産、メキシコなど非OPEC産油国の生産拡大、さらにOPECの市場支配力低下が重なった。世界の石油供給が増加したことで、原油価格は1981年の高値から下落に転じた。
ボルカー氏の功績は、石油供給を直接増やしたことではない。エネルギー価格が高騰する中で、高インフレの心理が経済全体に広がることを食い止めた点にある。
言い換えれば、ボルカー氏が抑え込んだのは需要とインフレ期待であり、原油価格そのものではなかった。エネルギー供給の回復が石油危機を終わらせ、ボルカー氏はインフレ期待の連鎖を断ち切ったのである。
2022年のロシア・ウクライナ戦争が示したもう一つの教訓
比較的新しい事例として参考になるのが、2022年のロシア・ウクライナ戦争である。ロシアによるウクライナ侵攻後、ブレント原油は一時1バレル130ドルに迫り、米国のガソリン価格は過去最高値を更新した。
2022年6月、米国のCPI上昇率は9.1%に達し、1981年以来の高水準となった。FRBはこれを受け、過去40年で最も急激な利上げサイクルに入った。2022年3月から2023年7月にかけて、FF金利の誘導目標は0〜0.25%から5.25〜5.50%へと引き上げられた。わずか16カ月で5.25ポイントの利上げである。
特に2022年6月、7月、9月、11月には、4会合連続で0.75%の大幅利上げが実施された。その後、CPI上昇率は2023年から低下に転じ、2024年には3%を下回る水準まで落ち着いた。
つまり、利上げが需要を抑制し、供給網の回復がコストを押し下げた。両者が同時に働いたことで、インフレは段階的に沈静化したのである。
2026年のFRBを悩ませる供給ショック
現在、FRBが直面している状況は、1970年代や2022年と似ている。原油高がインフレを押し上げている一方で、経済そのものが過熱しているわけではない。
むしろ米国の労働市場には、やや減速の兆しが見える。企業が採用にも解雇にも慎重な「様子見」の状態に近く、賃金上昇率も鈍化している。全体としては、なお一定の均衡を保っている。
仮にFRBが利上げを選択すれば、企業の設備投資は鈍り、住宅ローン金利はさらに上昇し、個人消費も抑えられる可能性がある。しかし、それによって原油価格が下がるとは限らない。景気が大きく後退しない限り、物価上昇の勢いが止まる保証もない。
FRBが本当に警戒すべきなのは、原油高だけではない。インフレ期待が制御不能になること、つまり物価安定への信認が揺らぐことだ。
企業がコストの上昇が続くと予想し、販売価格に転嫁し始める。労働者がより高い賃金を要求する。家賃も上がり始める。そうなれば、エネルギー主導のインフレは、経済全体に広がるインフレへと変わる。中央銀行が最も恐れる第2次波及効果である。
FRBは今年、利上げに踏み切るのか
現時点で判断すれば、原油価格の高止まりが続く場合、FRBが年内に利上げへ踏み切る可能性は排除できない。一部の連邦公開市場委員会(FOMC)メンバーも、姿勢をややタカ派寄りに変えつつある。
ただし、FRBが2022年のような急激な利上げを繰り返す可能性は低い。理由は三つある。
第一に、現在の米国物価には反発の兆しがあるものの、2桁に迫った2022年のインフレ率とはなお大きな開きがある。
第二に、新任FRB議長のケビン・ウォルシュ氏は中央銀行の独立性を重視しているが、同時に政治側からの利下げ圧力にも直面している。
第三に、米連邦政府の債務残高はすでに国内総生産(GDP)比で120%を超えている。金利が1ポイント上昇するだけでも、政府の利払い費は大きく膨らむ。
そのため、供給ショックによる物価上昇に対して、FRBはまず政策を据え置き、中東情勢の推移を見極める可能性が高い。だが、原油価格が長期にわたって100ドル前後の高値圏にとどまり、インフレ率が上昇し続ける場合、FRBは市場のインフレ期待を抑えるため、早ければ第3四半期末にも利上げに動く可能性がある。
結語 利上げは万能薬ではない
「中央銀行は利上げによって需要を抑えられるが、石油を生産することはできない」
1970年代の2度の石油危機から2022年のロシア・ウクライナ戦争に至るまで、歴史が示してきたのは、インフレが供給ショックに起因する場合、金融政策にできることは限られるということだ。
その意味で、今年のFRBが直面する本当の課題は、物価をどこまで押し下げられるかではないのかもしれない。市場がFRBの物価安定能力を疑い始めることを、どう防ぐかである。
2026年のインフレの主因が需要過熱ではなく中東情勢にあるのだとすれば、FRBにとって最大のリスクは「利上げが遅すぎること」ではなく、「利上げが早すぎること」になり得る。
問題が供給側にある時、過度な金融引き締めはインフレを消し去ることができない。それどころか、先に経済へ重い代償を強いる可能性がある。
英語には「The cure is worse than the disease」という言葉がある。時には、治療そのものが病気以上に大きな代償をもたらすこともあるのだ。
*筆者・徐千婷氏は台湾・合作金庫金融控股(TCBフィナンシャル・ホールディングス)チーフエコノミスト兼合作金庫証券投資顧問(TCB投顧)会長、鑫友会の政策アドバイザー(鑫友会前瞻政策顧問)。