11 月の堺は、再び全国学生相撲選手権大会を迎えた。初回開催からすでに106 年が経っている。しかし、堺が学生相撲の発祥の地とされる歴史は、それよりもさらに古く、明治42年(1909 年)に大阪府立医学校校長・佐多愛彦の提唱で開催された第一回学生相撲大会まで遡る。学生相撲は、プロの「大相撲」とは非常に多くの点で異なる。この激戦の背後には、大相撲への登竜門の戦いであるだけでなく、相撲の歴史の発展に、より開放的な空間を提示している。
一般的に、女性は長く相撲の土俵では禁忌とされてきた。しかし、プロ志向ではない学生相撲では、女性が土俵に上がり、重要な主審を務めることも許されている。また、学生相撲では大相撲のように「大銀杏」を結う必要がなく、青春を謳歌するように、自分の好きな髪型でいられる。これら相撲故実の体系とは異なる様々な記号が、学生相撲と大相撲の違いを浮き彫りにし、相撲が日本の国技として時代や世界と連携していく可能性を描き出している。
学生相撲と大相撲は外見的な形式には大きな違いがあるが、内面的な本質である「武技」においては、実は大きな区別はない。そのため、長く大相撲選手の重要な供給源となってきた。なぜなら、これらの優秀な学生相撲選手は、皆在学中から体系的で充実した相撲技の訓練を受けているからである。そして「登竜門」の一戦と見なされる「全国学生相撲選手権大会」という激戦の洗礼を経て、勝ち残った者は、自然と未来の大相撲のスターとなる。例えば、第 54 代横綱・輪島や第 75 代横綱・大の里、そして昭和末期の大関・朝潮などは、皆かつて堺の土俵で学生横綱になった。
そして「激情」は、全国学生相撲選手権大会におけるもう一つの重要な感情的記号である。これは、大相撲の場所が比較的、抑制的で冷静であるのとは非常に大きく異なる。全国学生相撲選手権大会では、選手が土俵に上がる際に傲然とした表情や態勢を見せることがよくあり、一方で土俵下で応援する同校のチームメイトも、座ったり立ったりしながら大声で叫ぶ。これは大相撲の場所では非常に珍しい光景である。さらに興味深いのは、これらの体格が大きく屈強な学生選手が、土俵を降りた途端に大声で泣き出し、時には監督に慰められるほど泣いている姿をよく見ることだ。これは間違いなく青春の真情の表れであり、学生相撲ならではの純真さである。
泣く理由は、もちろん一部は身体的な痛みから来ているが、もう一方は試合に負けたことへの失意と悲憤からである。これは、今も出雲隠岐に伝わる古典相撲を思い起こさせる。ここでの相撲試合には面白い不文律がある。それは、勝った側が、次の試合で相手に負けなければならないというもので、恨みや争いを残さず、相手と友情を築くためである。そのため、この古典相撲は「人情相撲」とも呼ばれている。もちろん、このような友情を築くことを期待する相撲観は、血気盛んで、登竜門の一戦での勝利を急ぐ学生力士たちには受け入れ難いものであろう。若さとは本来、あるべき傲慢さと激情を持つものである。
しかし、激情の傍ら、69 連勝の記録を持ち、史上最強の横綱と称される「昭和の角聖」―― 双葉山のことを考えてみるのもよいかもしれない。彼の勝負に対する淡然とした態度は、当時も今も、注目すべき議題である。勝負よりも、双葉山は日頃の訓練の成果と「信念の歯車」を重視した。登竜門の激戦は、相撲の修行の道には合致しないかもしれないが、学生相撲ならではの青春の色である。あるいは、従容迫らぬ「木鶏」は、堺の後の土俵にのみ存在するのかもしれない。登竜門の後には、無数の戦いが待っているが、それは別の大人の世界―― 大相撲の土俵である。
本文の筆者・葉志堅氏は、日本古武道の研究学者であり、ドキュメンタリー映画の監督、《フランスワイン文化教育協会》の理事長でもあります。これまでに5度、フランスから騎士勲章を授与されており、現在は複数の大学で客員教授を務めています。また、日仏両国でたびたび関連する学術講演に招かれています。
編集:梅木奈実 (関連記事: 【武道光影】日本の国技としての大相撲における文化記号の脱構築的考察 | 関連記事をもっと読む )
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