日本の近代化の過程において、「野太刀自顕流」は決して無視することのできない武道流派である。かねてより明治維新回天の剣と称えられ、薩摩武士の魂を色濃く体現してきた。激動の幕末史において、安政七年(1860年)の桜田門外の変で井伊直弼を討ち取った有村次左衛門、文久二年(1862年)の寺田屋事件における鎮撫使・大山綱良や江夏仲左衛門、生麦事件の奈良原喜左衛門、そして西郷隆盛の側近であった「人斬り半次郎」こと桐野利秋、さらには後の日露戦争・日本海海戦で名を馳せた海軍大将・東郷平八郎に至るまで、彼らは皆、野太刀自顕流の門人であった。これほど多くの英雄を輩出した野太刀自顕流は、日本の剣術史上、近代化の過程に最も重要な影響を与えた流派であることは間違いない。
野太刀自顕流の歴史は、最も古くは平安時代まで遡ることができる。その修練の核心は、剣技の追求にあるのではなく、精神的な超越と向上にある。そのため、日々の稽古においては、天地を「一刀両断」にする気概と決意をもって剣を振るうことを門人に厳しく求める。また、剣技の訓練では一人対多人数を想定し、たとえ敵が三千人いようとも、我一人で臆することなく打ち勝つ気概を養う。このような内面的な精神修養こそ、野太刀自顕流が幕末の強敵に囲まれ、内外に困難を抱える状況下で、剣によって旧時代の日本に維新への道を切り拓くことができた根本的な理由である―― たとえ負けるとしても、全てを賭して戦う。
野太刀自顕流の最も著名な基本の構え「蜻蛉(とんぼ)」と、他の剣術流派とは一線を画す独特の攻撃技「抜き」に、前述の核心思想が体現されている。蜻蛉の構えは他流派の「八相」の構えとは異なり、剣をより高く掲げ、重心をさらに低く落とす。一方、「抜き」は重心を落とすと同時に素早く剣を抜き放ち、逆袈裟に下から上へと敵を斬り上げる技である。この二つは互いに呼応し、野太刀自顕流の最も鮮明な剣術記号となっている。一方は抜刀して剣を高く掲げ、前進して斬りつける準備ができた状態。もう一方は重心を落としながら、素早く抜刀して逆襲に転じる。両者ともに、野太刀自顕流が他の剣術流派と最も異なる記号含意―― 防御や回避を一切行わず、ただ天地を両断するほどの攻撃に徹するという含意を体現しているのである。 (関連記事: 【武道光影】将軍の剣―― 柳生新陰流と徳川幕府による平和構築 | 関連記事をもっと読む )
最初の一太刀に己の全てを賭け、防御や生死を一切顧みないという決死の精神こそ、野太刀自顕流が幕末明治維新回天の剣と称えられる所以である。まさにこの精神があったからこそ、旧日本は1853年の黒船来航という屈辱から、天皇、幕府、諸藩といった各派閥間の策略が渦巻く困難を乗り越え、再生を遂げることができたのだ。幕末の歴史を振り返れば、安政七年の「桜田門外の変」が日本の政治的近代化の起点と見なせる。この暗殺事件は江戸幕府の大老・井伊直弼の誅殺に成功し、旧日本の権力中枢であった幕府を大きく揺るがした。そして、井伊直弼の首級を挙げた後、自身も負傷し切腹を遂げた剣客こそ、薩摩出身の野太刀自顕流門人、有村次左衛門であった。