柔術と聞けば、多くの人が思い浮かべるのは、力で相手をねじ伏せる体格を利した相撲とは一線を画す姿だろう。ましてや、脱力と柔らかさを真髄とする「合気」柔術であればなおのこと、その隔たりは大きいように思われる。しかし、合気柔術の源流と目される「大東流合気柔術」には、関西の地で相撲技を取り入れた独自の稽古法が密やかに受け継がれている。その源を辿ると、かつて朝日新聞大阪本社で理事を務めた大東流合気柔術の継承者、久琢磨という人物に行き着く。そして、彼が厚い信頼を寄せた門弟・川邉武史が、師から受け継いだ教えと自身の探求を融合させ、最終的に今日の大東流合気柔術「講武館」に見られる、相撲の神髄を内に秘めた比類なき合気技へと発展させたのである。
久琢磨は学生時代、優秀な相撲選手であった。神戸高商(現・神戸大学)相撲部の主将を務め、関西学生相撲大会で優勝した経歴を持つ。この事実を鑑みれば、相撲技が、彼が後に修めることとなる大東流合気柔術に影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。久琢磨が大東流合気柔術を学んだのは、朝日新聞社に勤めてからのことである。同社にいた神戸高商の先輩・石井光次郎の紹介で、のちに「合気道」を創始する植芝盛平と出会い、その門を叩いた。興味深いのは、当時、植芝盛平は自ら教える武道を「旭流」と称していたが、その師である武田惣角が大阪を訪れたと知るや、慌ただしくその場を去り、決して顔を合わせようとしなかったという逸話が残っていることだ。
その後、久琢磨は大東流合気柔術中興の祖と称される武田惣角に直接師事し、武田惣角から唯一「免許皆伝」を授けられた門弟となった。久琢磨の尽力によって大東流合気柔術は関西で確固たる礎を築き、幾多の優れた門人を世に送り出した。その影響力は四国にまで及び、関西以外に武田惣角大東流合気柔術のもう一つの重要な伝承地へと押し上げたのである。川邉武史は、こうした流れの中で大学時代から久に師事して植芝流の合気道を学び、卒業を機に大東流合気柔術の本格的な修行へと身を投じた。そして遂には、久琢磨本人から直々に教授代理に任命されるに至る。 (関連記事: 【武道光影】幕末維新の剣―― 野太刀自顕流と日本の近代化過程 | 関連記事をもっと読む )
現在81歳となる「講武館」館長、川邉武史の合気柔術修行経歴は60年を超える。彼は学生時代より久琢磨に教えを受けただけでなく、その後も四国、北海道へと足を運び、中津平三郎の門弟である千葉紹隆や蒔田完一、さらには武田惣角の息子・武田時宗からも指導を仰いだ。これにより、大東流合気柔術の技法を余すところなく受け継いでいるといえよう。そして、相撲技と合気柔術の融合は、彼の修行における特筆すべき功績の一つである。それは師・久琢磨からの伝承もさることながら、川邉武史自身の相撲技への深い愛好と探求心の賜物であった。川邉武史は、合気柔術が力と力の衝突を避ける一方、重心の巧みな昇降や運動軌跡の捉え方においては、相撲技と多くの共通点を見出しており、そこから学ぶべきと考えている。