【武道光影】天然理心流と幕末最強の剣客集団・新選組の結成について

2025-07-07 12:54
土方歳三 所用刀「大和守源秀國」﹑葉志堅撮影

現在、京都の霊山歴史館において、土方歳三の生誕190周年を記念した2025年夏の企画展が開催されている。幕末最強の剣客集団・新選組において「鬼の副長」と称された土方歳三は、幕末史に精通する者や、司馬遼太郎による新選組関連作品を読んだことのある者にとっては、言わずと知れた人物であろう。この武士道を体現し、命を懸けて戦った剣客集団・新選組の中核をなしたのは、実のところ多摩地域出身の者たちであり、彼らが修めていた古い剣術こそ「天然理心流」であった。

文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保が京都守護職に任ぜられた。当時、「天誅」の嵐が吹き荒れる中、第14代将軍・徳川家茂の上洛に先立ち、江戸にて武芸に秀でた浪士を募り、将軍を警護するための「浪士組」が結成された。このような風雲際会の中、天然理心流4代目・近藤勇とその弟子・門人たちは、文久3年に浪士組の一員として京都に赴いた。のちに、松平容保の信任と後援を得た近藤勇は新選組の局長となり、副長には、同じく多摩出身で天然理心流の門人であった土方歳三が就任した。

天然理心流は、単なる剣術の流派としてのみ理解すべきではない。その修行内容には、剣術にとどまらず、柔術・棒術・気術などが含まれ、それらが相互に融合している。たとえば、「小具足」や「柄砕」は剣術と柔術の融合であり、「表木刀五本」は剣術と気術とを融合したものである。このような総合的な訓練により、近藤勇は若年の頃から道場主として、道場破りに対してたとえ竹刀を打ち落とされたとしても、圧倒的な気迫によって相手を震え上がらせることができたのである。精神面と技術面の両面からの徹底的な訓練こそが、新選組が幕末の動乱期において最強の剣客集団たり得た根本的な原因であった。

池田屋事件における襲撃により、新選組は一躍その名を轟かせた。この血戦を経て、近藤勇・土方歳三・沖田総司ら、天然理心流出身の中核指導層は、あらためて天然理心流の剣術の優位性を実感するに至った。その優位性とは、実戦における技の優位性だけではなく、武士道の心の優位性に関することである。「武士道とは死ぬことと見つけたり」に象徴される、精神的な高みにも通ずるものであった。この心の優越こそ、武士階級の出自を持たぬ天然理心流門人や新選組の構成員にとって、何よりも重要な支柱であったと言えよう。

新選組の歴史を顧みると、その構成員すべてが天然理心流の門下であったわけではない。たとえば、会津藩の密命により斬殺された初代局長・芹沢鴨や、油小路の血闘で暗殺された伊東甲子太郎ら、異なる背景を持つ者も存在した。しかしながら、度重なる粛清を経て、新選組は次第に天然理心流と命運をともにする集団となり、近藤勇・土方歳三を頂点とする指導層によって統率されるに至った。ある意味において、「天然理心流こそ新選組」であり、「新選組とは天然理心流」であったとも言える部分がある。構成員たちは、ある意味において、天然理心流の門人として、近藤と土方の意志を受け継ぎ、これを徹底的に実行していたとも言える側面がある。この時代の天然理心流は、もはや単なる武道の流派ではなく、幕末の命運と交錯する存在―― すなわち新選組そのものであった。

換言すれば、天然理心流なくして新選組は存在し得なかった。天然理心流は新選組の始まりであり、また終焉でもあった。その運命は、下総・流山での近藤勇の敗死、箱館戦争における土方歳三の戦死とともに、幕末の激動の中で潰(つい)えたのである。かくして、天然理心流と幕末最強の剣客集団・新選組の結成の物語も、ここに幕を下ろすこととなったのである。

本文の筆者・葉志堅氏は、日本古武道の研究学者であり、ドキュメンタリー映画の監督、《フランスワイン文化教育協会》の理事長でもあります。これまでに5度、フランスから騎士勲章を授与されており、現在は複数の大学で客員教授を務めています。また、日仏両国でたびたび関連する学術講演に招かれています。

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