近年、日本と台湾の関係はかつてないほど良好な状態にある。2024年9月に駐日代表に就任した李逸洋氏は、現地メディアに「歴史上、最も良い時代」と述べ、両国の緊密な関係を強調した。5月20日に行われた頼清徳氏と蕭美琴氏の就任式にも、日本の超党派国会議員連盟「日華議員懇談会」の歴代最大規模の訪問団が参加し、改めて日台の連帯が確認された。
日台の関係が急速に深まった背景には、2011年の東日本大震災で台湾が200億円以上の寄付を行ったことがある。この支援は日本国民の心に深く刻まれ、当時台南市長だった頼氏は震災直後に二度訪日し、305人の市民を率いて観光業の再建を後押しした。その後、安倍晋三元首相が再任した2012年以降、日台関係は「2.0時代」と呼ばれる新たな段階に入り、2022年の安倍氏の死去時には、頼副総統(当時)が「至親摯友」として東京を訪問。台湾からの過去最高位の弔問となった。
しかしこの「最良の関係」の陰で、台湾の対日外交には深刻な課題が横たわっている。

2022年7月12日、安倍晋三氏が暗殺された後、頼清徳副総統(左から3番目)は「至親摯友(最も親しい友人)」として東京の安倍家を訪れ、記念撮影を行った。(岸信夫Facebookより)
李登輝時代に育まれた外交人材に依存する現実
台湾の対日外交を担う人材の世代交代が進まず、その多くは今なお1990年代の李登輝政権期に育成された人物たちに依存している。2012年の馬英九政権時代にはすでにこの「人材の断層」への警鐘が鳴らされていた。李登輝政権下では、日米台間の秘密ルートとして「明徳グループ」が設立され、当時の外交官が日本の官僚機構とのパイプを築いていた。
しかし、その後の世代にバトンがうまく引き継がれず、特派員の報道によれば、日本駐在の外交高官のうち、5年以内に少なくとも15人が退職すると予測されていたにもかかわらず、この傾向に歯止めはかかっていない。
台湾日本関係協会(旧・亜東関係協会)が対日外交の中心的役割を担っているが、ここでも人事の継続性に問題が生じている。たとえば2023年6月、張仁久氏が12年ぶりに事務局長として復帰した。張氏はかつて駐日副代表を務めたが、2021年に帰国後、再び事務局長に就任したことで、人材の枯渇が浮き彫りとなった。通常であれば、同協会の事務局長を経て日本に派遣され、分処長や副代表に昇進するのが外交官の昇進ルートだが、張氏のように同じポストを繰り返し担うケースは異例であり、現場の人材不足を如実に示している。

李登輝元総統(写真)は在任中に、日米台の秘密コミュニケーションルート「明徳グループ」を立ち上げ、当時の多くの対日外交人材が育成され、現在でも活躍している。
退職間近のベテランが支える対日外交 若手人材の空白が深刻化
台湾の対日外交の現場では、人材の高齢化と継承の問題が一層深刻になっている。台北にある台湾日本関係協会だけでなく、東京・霞が関近くに位置する台北駐日経済文化代表処においても、現職の多くが30年近いキャリアを持つ古参の外交官で占められている。
代表的な例が、現在も副代表として東京に勤務する蔡明耀氏だ。蔡氏は当初、2018年に定年退職を予定していたが、蔡英文政権の下でスワジランド(現エスワティニ)に特命で派遣された後、東京に戻り、再び駐日副代表の任を継続している。
また、台北に在任中の張仁久氏も1991年から駐日代表処で勤務を開始し、ワシントン駐在や国家安全会議への所属を経て、30年以上にわたって対日外交に従事してきた人物である。東京にいる蔡氏は1993年から対日外交に関わり、もう1人の副代表・周学佑氏も、アメリカでの経験を経て日本に赴任し、すでに20年近く日本関連の外交業務に携わっている。
現在、日本国内にある台湾の5つの代表処(支部)でも、所長の多くが「明徳グループ」創設期に日本で任務を経験した世代である。札幌事務所の黏信士所長は63歳で、2011年には亜東関係協会(現・台湾日本関係協会)の副事務局長から日本に派遣され、これまで3度にわたって所長を歴任している。

駐日副代表の蔡明耀氏(写真)は、2018年に定年退職予定だったが、一度蔡英文政権により政務特任でアフリカの友邦エスワティニ(旧スワジランド)に派遣され、現在も東京で特命駐日副代表を務めている。(写真/顏麟宇撮影)
日本の特殊な政治構造が外交接触を難しくしている
駐日代表は大使に相当するポストだが、ここにも台湾特有の人事構造が見られる。近年では、前代表の謝長廷氏(元行政院長)や現代表の李逸洋氏(元考試院副院長・内政部長)など、国内で政治経験を積んだ人物が起用される傾向が強い。
このような政治任用のスタイルは、日本側から強い批判を受けているわけではないものの、日本の制度とは大きく異なる。日本は明治時代以来、専門文官制度を中核とした行政体系を築いており、国家政策の決定と実行は議員よりもキャリア官僚が主導する構造となっている。
謝長廷氏も著書『駐日八年台日友好記事簿』の中で、「日本は議会内閣制とエリート官僚制度が特徴であり、公務員こそが国家運営の中心である」と記している。実際、日本の外交や経済政策を動かしているのは千代田区・霞が関に集う中央省庁の官僚たちであり、台湾側の政治任用者が彼らと円滑な意思疎通を図るのは容易ではない。そのため、台湾の対日外交においては、現場に深い人脈を持つ古参の外交官に頼らざるを得ない状況が続いている。だが、これらのベテランもいずれ退職を迎える。若手外交官の育成と世代交代は、これからの対日関係の継続と深化において、避けて通れない課題となっている。

前駐日代表で台湾の元行政院長の謝長廷氏は、内閣制度において「大物政治家」と称された。(写真/顏麟宇撮影)
外交官試験は英語組偏重 日本語人材の空洞化が深刻に
頼清徳政権では、元総統府資政の邱義仁氏や行政院政務委員の馬永成氏など、対日関係を担うキーパーソンの起用が進んでいる一方で、日本外務省との実務的な対話を担う専門文官の育成が急務となっている。背景には、外交官試験制度が長年にわたって英語組を優遇してきたという構造的な問題がある。
考試院の管理する「外交領事人員試験」では、16の語学組が設けられている。直近5年の試験データによると、英語組は毎年20~30人の採用枠が設けられているのに対し、日本語組の募集は年間2~3人と極めて少なく、2023年にはついに1人も募集されなかった。
その結果、日本語を話せる専門外交官が不足し、対日関係において感情や文化に根ざした対話を重視する日本側との円滑な意思疎通が難しくなっている。日本は米国に次ぐ友好国とされるにもかかわらず、外交官人事のリソース配分には大きな差がある。たとえば、ワシントンの駐美代表処では、米連邦議会との関係を担当する政治スタッフの人数が、駐日代表処の全政治グループを上回っており、全体でも約3倍の規模を誇る。

台日関係は親しいと言われるが、台湾の外交システムは英語圏に重点を置いており、日本語を専門とする外交官は冷遇されてきた。(写真/柯承惠撮影)
「日本派」は政策決定の蚊帳の外 若手の参入も遠のく構造的問題
外交部内では、「日本派」とされる人材が長らく冷遇されてきた経緯もあり、若い世代の外交官が対日分野へ進出する機会は限られている。外務省の政務次長や常務次長の大半は、駐美または駐欧のポスト出身者が占めており、日本語組出身の次官が登場したのは1932年が最後とされる。
その後、国民政府の遷台以降に30人以上の外交部長が交代したものの、日本語派の専門外交官が初めて政策決定層に入ったのは、2017年に蔡明耀氏が外交部主任秘書に就任したときだった。一方で中国では、現職の外交部長である王毅氏が日本での外交キャリアを積み、駐日公使を経て、現在は外交トップにまで上り詰めている。

王毅中国外交部長は、日本への赴任を皮切りに、2004年には中国駐日大使に就任した。(写真/AP通信)
二国間から多国間へ 深化する台日外交の現在地
台湾と日本の関係は地政学的な要請もあってさらに密接になっている。2024年8月には、当時自民党総裁選への出馬を表明した石破茂氏が訪台し、その後、日本の首相に就任した。また、台湾の外交現場では、李登輝政権時代に発足した「明徳グループ」の世代が主軸を担っているが、その多くはすでに高齢で、後継育成の必要性が叫ばれている。
台日外交は今や二国間にとどまらず、多国間外交の要素を含み始めている。たとえば2024年5月下旬から6月上旬にかけて、中南米の友好国であるパラグアイとグアテマラの大統領が台湾を訪問した後、日本を訪れて石破首相と会談。三者は戦略的パートナーシップを発表し、東京ではパラグアイ大使館と台湾の駐日代表処が共催する「台パ日友好レセプション」が開かれた。これは台日断交後、初の外交的快挙ともいえる。
このように、台日外交は従来の「双方向」の枠を超え、多国間の枠組みと連携を重視する新たな段階へと移行しつつある。

石破茂首相は、2024年8月の台湾訪問中に、初めて自民党総裁選への出馬を表明した。(写真/AP通信)
対日歴30年のベテラン復帰 林佳龍氏が張仁久氏を再び起用
台湾日本関係協会が再び張仁久氏を事務局長に迎えたことについて、外交関係者は「対日専門外交官が絶対的に不足しているわけではない」との見解を示している。資格と経験を備えた他の候補者も存在するが、現段階では張氏が最適な人選だという。
張氏は30年以上にわたり対日外交に携わり、日本の政界・民間に広範な人脈を築いてきた。2024年5月に外相に就任した林佳龍氏も、張氏を部長室に招いて対日政策を推進しており、外交方針「総合外交」に精通している人物として信頼を寄せている。張氏はこれまで数多くの日本要人との会談に同席し、訪台する日本の賓客の案内役も務めてきた。
一方で、外交官試験(外交特考)の日本語組に関しては、近年の募集状況に波があり、「2年連続で採用ゼロ」という年もあったとされる。外交部は引き続き対日人材の育成に力を入れているが、語学力だけでなく、地域政策の理解や分析力も含めた長期的な養成が必要だと強調されている。

専門外交官出身の張仁久氏は、3度目の再任で台湾日本関係協会の事務局長に就任した。(写真/鍾秉哲撮影)
台日外交は深化 「親密さ」だけでは支えきれない構造問題も
頼清徳総統は過去の選挙期間中、「台日世界平和共同体構築シンポジウム」に出席し、台日間の軍事対話メカニズムの構築を提唱した。この場で、日華議員懇談会の古屋圭司会長が「台海情勢の緊張を受けて、日台間では水面下の交流が行われているが、詳細は公表できない」と述べた。ただし、日本側の外交システムからはこの提案に対し慎重な対応が求められている。
こうした文脈からも、駐日代表だった謝長廷氏が実践した「地方が中央を包囲する」戦略――日本全国47都道府県を訪問し、地方の世論を通じて中央政府に影響を与える外交スタイル――の意義が浮かび上がる。後任の李逸洋氏もこれを引き継いでいるが、日本の官僚制は一枚岩であり、そこに働きかけるには専門性の高い外交官の存在が不可欠となる。
李登輝政権下に結成された「明徳グループ」から、頼清徳氏による安倍晋三氏への弔問外交まで、台日関係は長い時間をかけて「最良の時代」と呼ばれるまでに発展してきた。しかし、霞が関にパイプを築いたベテラン外交官たちが次々と退任する今、新たな世代がその役割を引き継ぐには至っていない。頼清徳政権が、安倍元首相の「台湾有事は日本有事」という発言を実質的な枠組みに転化できるかどうか、そして新世代の外交官が「霞が関」にいかに食い込めるかが、今後の台日外交の成否を握ることになる。