11月7日前後、ベルギー警察のパトカーが先導する黒塗りの車列が、ブリュッセルの欧州議会議事堂へと静かに到着した。車から姿を現したのは欧州議員ではなく、台湾の蕭美琴副総統だった。外交部長の林佳龍氏とともに議事堂へ入ると、場内は大きな拍手に包まれ、出席者の多くが立ち上がった。蕭氏は「対中政策に関する列国議会連盟(IPAC)」の年次総会に招かれ、現職の台湾高官としては過去最高レベルでブリュッセルを訪れた人物となった。その後、乗り継ぎ地のドイツ・フランクフルト空港には、2日後に蔡英文前総統が到着。退任後3度目の欧州訪問である。
蕭氏の欧州議会入りが報じられてからわずか10時間後、中国駐EU使節団は週末にもかかわらず声明を発表し、欧州議会が中国の強い反対を無視したとして強く非難。外交部の林剣報道官も11月10日の会見で、「台湾独立派は存在感を誇示しようと必死だが、すべて茶番だ。思惑は決して実現しない」と牽制した。蕭氏が公式に欧州議会の招待を受けたわけではなく、議会指導部とも接触していないのは事実だが、ベルギー当局が入国を認め、警備を提供したのも紛れもない事実である。では、台湾はどのようにして蕭氏を欧州議会に送り込んだのか。そして、台湾と欧州の関係はいまどこまで進んでいるのか。
ベルギー当局が入域を認め、警備体制を整えたことで、蕭美琴副総統(左端)と林佳龍外相(左から2人目)は欧州議会の議事堂へと足を踏み入れた。(資料写真/AP通信)
賴清德氏が「全力で取り組め」と指示 「兵は詐を以て立つ」台湾が仕掛けた周到な外交作戦 台湾は8月、IPACから欧州議会での年次総会への招待を受け、外交当局は蕭美琴氏の派遣を検討した。しかし当初は実現困難と判断され、蕭氏本人も「オンライン参加だろう」と考えていたという。ところが、9月下旬に着任した台湾駐EU・ベルギー代表の謝志偉氏が情勢を確認したところ「手応えがある」と判断。直ちに外交部政務次長の吳志中氏に連絡し、林佳龍部長の承認を得た。正式な電報が台湾に届くと、頼清徳総統も「全力で進めよう」と指示。こうして外交部と在外公館は数時間の睡眠で作業を続け、わずか1カ月で蕭氏の欧州議会入りを実現させた。
蕭氏が議場の演壇に立つまでには、台湾外交官たちの涙ぐましい努力があり、中国の強圧的な介入をはねのけた背景がある。外交関係者によれば、中国があらゆる手段で欧州側に圧力をかけることは織り込み済みで、準備期間中には「すでに中国が動いた」との情報が流れ、緊張が走ったという。林佳龍部長も取材に対し、「IPAC総会の10日前に中国から欧州側へ照会があった」と明かした。ただ、同時期に蔡英文前総統、陳建仁前副総統もそれぞれ別ルートで欧州を訪問しており、「中国側はどのルートを妨害すべきか判断がつかなかったようだ」と述べた。
関係者によると、外交チームは蕭氏の渡航計画を徹底して秘匿し、蕭氏本人でさえ出発5日前までオンライン出席だと思っていたほど。これが結果的に中国側を混乱させ、実際の動きを把握できなかったという。ちょうど同時期、陳建仁氏のバチカン訪問に続き、蕭氏と蔡英文氏がベルギー・ドイツへそれぞれ招かれていた。台湾は限られた外交リソースの中で、この3人をすべて無事に欧州へ送り出す必要があった。
事情に詳しい人物は「台湾としては3人全員が国際社会で声を上げてほしかったが、成功は確実ではなかった。だからこそ「多線同時展開」で、中国がどこに照準を合わせて妨害すべきか判断できない状態を作った」と語る。まさに「兵は詐を以て立つ」を地で行く外交戦で、中国は台湾側の動きを最後まで読み切れなかったのだ。
EU・ベルギー駐在代表の謝志偉氏(左から2人目)は、欧州の対台姿勢の変化を敏感に捉え、蕭美琴氏を欧州議会の演壇に立たせる「突破口」を開いた。(写真/范雲氏オフィス提供)
EUが中国への姿勢を転換 台欧関係が動き出す転機に 中国外務省は今回の訪問について、「欧州議会の個々の議員による行動であり、公式立場ではない」と説明を受けたと主張し、欧州側に「利用されないように」と警告したという。しかし、IPACのルーク・デ・パルフォード事務局長は、欧州議会議長、EU対外行動庁(EEAS)、ベルギー外務省も事情を完全に把握していたと証言。林佳龍外相も「欧州議会内でイベントを開くには、ただ場を借りるだけで自由に出入りできるものではない。蕭美琴氏への待遇や警備も、議会側とベルギー政府の了承が必要だ」と述べた。外交関係者によれば、これまで欧州側は台湾の高官訪問に慎重姿勢を示すことが多かったが、今回は逆に協力を申し出るほど対応が変わっていたという。
吳志中政務次長はメディアに対し、「運もあり、台湾の先人の加護もあった」と控えめに語ったが、欧州が今回の訪問を受け入れた背景には偶然だけではない要因がある。現場で交渉に当たった外交官によれば、EUの中国観は近年大きく変化していた。EUは2019年に中国を「協力相手・競争相手・体制上のライバル」という「三位一体」で位置づけていたが、ロシアによるウクライナ全面侵攻以降、中国を「協力相手」と呼ぶことは激減し、むしろ「体制的ライバル」として扱う傾向が強まっている。
こうしたEUの認識変化が、台湾との関係強化の追い風となっている。外交関係者は、欧州諸国も以前ほど中国市場を重視せず、北京の圧力を受け流しやすくなったと分析する。さらにパンデミック後、欧州では供給網の安全性と強靭性の重要性が再認識され、台湾のサプライチェーンでの存在感が改めて注目されている。EUは2024年以降、人工知能(AI)などを戦略産業として位置づけており、その重要工程を台湾が担うことから、台湾との協力は不可避となりつつある。
対中認識の見直しが、台欧関係強化の転機となったEU。写真は2024年5月、習近平国家主席(左)、欧州委員会のフォンデアライエン委員長(右)、フランスのマクロン大統領(中央)が三者会談に臨んだ場面。(写真/AP通信)
台欧関係の温度差 EUは中東欧に次ぐ積極派 もっとも、台欧関係は進展しているものの、台湾にとって馴染み深い米国や日本ほど一枚岩ではない。欧州事情に詳しい外交官によると、EUは27カ国の集合体であり、欧州委員会に加えて各国の中央政府が存在する点が米国とは大きく異なる。近年、欧州諸国は台湾との交流を活発化させつつあるが、その速度や熱度には大きな差があるという。
外交官によれば、欧州の対台姿勢は少なくとも5つのグループに分かれる。最も積極的なのは、共産主義支配の歴史を持つ中東欧諸国。次いで積極的なのがEU本体、つまり欧州委員会だ。欧州委員会は「民主主義の価値を守る存在」と自任しており、ロシアと歩調を合わせる中国に対する警戒感が強い。また27カ国を束ねる立場から、長期的視野で台湾の重要性を認識している。
さらにEUの中核であるドイツとフランスも対台姿勢を大きく転換している。かつては極めて低調にしか台湾と接触しなかったが、今では相互訪問や投資が増え、軍艦が台湾海峡を通過することも辞さず、台海の平和を公然と重視するようになった。
今回、蕭美琴氏に入国許可と警備を提供したベルギーもこうした流れの一部だ。外交関係者によると、オランダやベルギーといった「欧州の中堅国」は伝統的に実利重視だが、台湾との関係が自国の経済力と競争力に直結すると理解し始めた。両国議会は近年、台湾支持の決議を「大胆に」可決しており、南欧諸国や中国依存度の高い国々でも台湾との交流がじわりと拡大しているという。
外交官は「ウクライナ戦争を経て、欧州はインド太平洋や台湾海峡をもはや『遠い地域』とみなさず、欧州安全保障とつながった『単一の戦場』と捉え始めている」と語った。
中東欧諸国に次いで、台湾との関係構築に積極的とされる欧州委員会本部の建物(ベルギー・ブリュッセル)。(写真/AP通信)
蔡英文政権の積極外交が土台に 台欧関係はかつてないペースで進展 もっとも、こうした地政学的変化が追い風となった一方で、今回の蕭美琴氏の訪問が実現した背後には、蔡英文政権下で積み上げられた外交戦略がある。『風傳媒』がこの10年間の外交部報告を比較したところ、台欧関係は「穏やかな前進」から「急速な発展」へと評価が引き上げられていた。前外相の呉釗燮氏は退任前に「台欧関係は史上最高」と断言し、林佳龍外相も最新の報告で「台欧は安定的に深化している」と述べている。
蔡英文前総統は、ロシアのウクライナ侵攻前の2022年元日、すでに「欧州連携強化計画」を掲げ、コロナ禍で高まった相互支援の機運を維持し、サプライチェーン再編の中で台湾の立ち位置を固めようとしていた。ウクライナ戦争が起きると、この流れはさらに加速した。外交関係者は「蔡政権は欧州との関係を多方面で深めた。賴清德政権になり、林佳龍外相はその土台の上に、より体系的な欧州戦略を打ち出している」と語る。
2022年に「欧州連携強化計画」を打ち出した蔡英文前総統(右)と、その路線を引き継いで一層の深化を図る賴清德総統(左)。(写真/総統府提供)
林佳龍外相が欧州プロジェクトを始動 賴清德政権と卓榮泰院長が全面支援 外交関係者によれば、林佳龍氏が外相に就任して以降、台湾と欧州の関係は大きく発展する潜在力があると判断し、学者出身らしく政策の枠組みや実務面の整備に強いこだわりを示したという。その結果、外務省の中長期的な外交戦略として「欧州プロジェクト」を立ち上げる決断に至った。
このプロジェクトは詳細な戦略設計がなされており、欧州全体の対欧政策に加え、西欧・中東欧・北欧・南欧それぞれに異なる多層的アプローチを打ち出す内容となっている。英国、フランス、ドイツといった伝統的な軸国との関係深化はもちろん、イタリアやバチカン、さらに南欧の新興民主国との関係拡大も視野に入れている。
林佳龍氏は、欧州各地の在外公館が互いの目標を共有し連携できるよう「地域的な連携体制」を構築し、外交活動を相互補完できる環境を整えたい考えだ。また政策を実行するには人員と予算が不可欠として、外務省内部の配置を見直しつつ増員を要求。賴清德総統と卓榮泰行政院長もこれを支持し、新規採用枠の調整など具体策が進んでいるという。
林佳龍外相は「欧州プロジェクト」を打ち出し、対欧関係の強化に乗り出した。賴清德総統と卓榮泰行政院長もこれを後押ししている。(写真/林佳龍氏のFacebookより)
賴清德の指示で卸任元首を全力で送り出す 蔡英文は「最強の外交官」に 一方で賴清德政権にはもう一つの強みがある。2024年5月に退任したばかりの蔡英文前総統が、就任後も積極的に外交活動に参加し「最強の外交官」として前面に立っていることだ。外交官によれば、賴清德総統は「機会がある限り、蔡英文氏と陳建仁氏を国際舞台に必ず送り出すように」と直接指示したという。
蔡英文氏は退任後すでに4度の公務出張を行い、そのうち3回が欧州訪問だ。2024年10月には、退任後の元首として初めて欧州議会に入った台湾政治家となり、その直後に林佳龍外相も欧州議会を訪問。1年余りを経て、今回ついに蕭美琴副総統が同じ舞台に立った。
さらに蔡英文氏は2024年10月の欧州歴訪でフランスも訪れ、台湾の卸任元首として初めてパリに足を踏み入れた。『風傳媒』の取材によれば、林佳龍外相も2025年9月の欧州出張時にワルシャワ安全保障フォーラム終了後、極秘でフランスを訪問したという。外交官は、林佳龍氏と蕭美琴氏の一連の「突破的訪問」は、賴清德政権が掲げる「チーム外交・総力戦」という方針の成果であり、蔡英文氏と林佳龍氏の度重なる欧州訪問が台欧間の信頼形成に大きく寄与したと語る。
退任後もたびたび欧州を訪れ、台湾外交の「先鋒」を務める蔡英文前総統。写真は5月にリトアニアを訪問した際の様子。(写真/蔡英文オフィス提供)
対欧メッセージを微調整 「台湾=民主主義+半導体」が新たな主旋律に 興味深いのは、蔡英文氏の欧州での演説内容が訪問を重ねるごとに変化している点だ。初訪問となったチェコの「フォーラム2000」では終始「民主主義の価値」が中心だったが、2回目のデンマーク・コペンハーゲン民主サミットでは社会・経済・安全保障など「レジリエンス(強靭性)」に多くの時間を割いた。3回目のベルリン自由会議では、民主価値に加え、半導体・国防・供給網など実質協力の内容も強調した。
こうした変化の背景には欧州メディアの視点もある。2024年10月、フランス国際放送は元AFP記者ピエール・ハスキ氏の寄稿を掲載し、蔡英文氏の「価値」強調に対し、レーニンの「政治を語りすぎれば政治を誤る」という言葉を引きつつ、「台湾=民主主義+半導体」という新しいフレームを提示した。これは台湾が理念だけでなく、半導体産業という“実利面”を前面に出すべきだという示唆と受け止められた。
その後、蔡英文氏、林佳龍外相、そして今回の蕭美琴氏まで、台欧関係の演説では必ず民主主義に触れつつも、より多くの比重が「供給網の安全」「AI戦略」「半導体」「灰色地帯への対応」「社会の強靭化」など、欧州の関心と直結するテーマへと移り始めた。
蔡英文氏は対欧メッセージを現実路線へと切り替え、抽象的な民主主義の価値だけでなく、安全保障や経済の強靭性の観点からも訴えるようになった。(写真/蔡英文オフィス提供)
「価値の共有」から「利益の共有」へ 欧州の対台湾認識が転換 つまり賴清德政権は、蔡英文政権時代に築いた「価値外交」の土台の上に、欧州のニーズに即した「利益の共有」を前面に出す外交へと舵を切ったと言える。外交官によれば、台湾側が「台湾は欧州に貢献できる」というメッセージを政策面・産業面の両方で発信したことにより、欧州各国の台湾への見方にさらなる変化が生まれたという。こうした流れが、今回の蕭美琴氏による「史上初の欧州議会入り」につながった。
蔡英文前総統は常に「外交はリレー」と語ってきた。台欧関係の深化もまさにその通りで、蔡政権から賴政権へとバトンが渡され、蔡英文氏自身も退任後にチェコ、フランス、ベルギー、リトアニア、デンマーク、英国を次々に訪問した。今回、蔡英文氏は再び台湾の卸任元首として初めてドイツを訪問したが、この「ドイツ訪問」が台独関係をどう動かすのか。台湾のみならず、欧州も、そして北京も固唾をのんで見守っている。