台湾総統・頼清徳氏は「2025総統科学賞」授賞式で「333ノーベル計画」 の始動を発表し、今後30年間で台湾が物理、化学、医学の3大分野で少なくとも3人のノーベル賞受賞者を輩出するという大志を抱いた。日本が2000年以降22人のノーベル賞受賞者を輩出しているのに対し、台湾は1976年の丁肇中氏(成大卒)、1986年の李遠哲氏(台大卒)以外、約40年間ノーベル賞受賞者がいない。
頼氏の抱負に対し、中研院院士・陳培哲氏は「スローガンは簡単だが、我々の土壌はそのような花を咲かせることができるのか?」と率直に述べた。台湾の学術文化は「職業化」しており、基礎科学への信仰と文化的自信が欠如していると指摘し、「このような大学ではノーベルの花は開かない」と語った。
日本の啓示:戦敗から科学復興へ 今年(2025年)のノーベル生理学・医学賞は、大阪大学の坂口志文教授が米国の研究者とともに受賞した。受賞理由は、免疫機能を制御する「制御性T細胞」の発見とその研究成果である。日本が科学分野の賞を獲得するのは2年連続で、2000年以降の受賞者はすでに22人に達し、米国に次ぐ規模となっている。
陳培哲氏は、この背景に「文化的自信」の存在を指摘する。「湯川秀樹が1949年に日本人として初めてノーベル賞を受賞したのは、原爆投下からわずか4年後のことだ。あれは精神面での再建の象徴だった。日本社会は科学を通じて敗戦の影を乗り越え、民族としての自信を取り戻した」と語る。
1901年の創設から今日まで、日本は自然科学3分野で計32個のノーベル賞を獲得しており、ほぼ10年に一度は新たな受賞者が生まれている。「日本の学術制度は戦前の帝国大学の系譜がそのまま受け継がれ、断絶がなかった。重要なのは、研究の価値を信じる文化だ。たとえ理解されなくても、研究者は信念を持って続けることができる」と陳氏は強調した。
百年の対照:東京大学、京都大学と台湾大学、三つの大学が歩んだ運命の分岐 1928年、日本政府は台湾に「台北帝国大学」を設立し、東京・京都と並ぶ帝国大学体系の一角を担った。当時の教授陣は多くが日本本土から派遣され、制度や学風も本土と大きく変わらなかった。しかし、その後およそ100年が過ぎ、東京大学と京都大学が十数人のノーベル賞受賞者を輩出する一方、台湾大学からはこの40年間、国際的な科学者が生まれていない。
「台北帝国大学は1928年創立で、2028年にはちょうど100年になる。東京・京都・台北の歩みを比べると、その差は歴然だ」と陳培哲氏は語る。鍵は教育の方向性の変質にあるという。「日本の学生が東京大学や京都大学に進むのは、学問を探究するためだ。だが、台湾の多くの学生は就職のために大学へ入る。」
陳氏はこうまとめる。「同じ制度から出発しても、文化の志向が違えば、行き着く結果はまったく異なる。」
「食べるための大学」 知識が職業訓練に矮小化される構造的な落とし穴 陳培哲氏はこう指摘する。「大学入試の志願動向を見れば、社会の価値観がよくわかる。1950年代には誰もが物理学科に憧れ、60年代には電機工学や医学へと傾いた。いまの学生が学科を選ぶ基準は、『何を学びたいか』ではなく、『どこなら就職に有利か』になっている。」
「いまの大学は、学問のためではなく“食べていくため”の場所になってしまった」と陳氏は言う。こうした教育環境からは、未知に挑む若者は育ちにくい。「この土壌では、根本的な問いに向き合おうとする“花”は咲かない。」
「医師科学者」から「医療技術者」へ 台湾大学医学部が辿った転換点 「かつて台湾大学医学部は、医師を育てる場ではなく『医師科学者』を育成する場だった」。陳培哲氏はそう振り返る。当時、杜聰明氏はアヘンの研究を、李鎮源氏は蛇毒の研究を行い、後者は蛇毒の解析から神経と筋肉の伝達に関わる重要な受容体を発見した。「これは台湾大学が人類科学に残した数少ない本質的な貢献だ」と陳氏は語る。
しかし現在の医学教育は臨床中心へと大きく傾き、「学生が学ぶのは病気の診断や薬の処方であって、生命の根本原理ではない」と陳氏は批判する。
陳氏は、近年台湾大学医学部の学部長が自らを「台湾大学附属病院の『農場』」と表現し、臨床医を育てる場だと語ったことを例に挙げる。「この自己定位はあまりに小さい。医学部は職業訓練校ではない。」
一方で、日本の東京大学や京都大学の医学部では、卒業生の半数が臨床医にならず研究の道に進む。「ここには文化の差がある。一方は知識の探求を目指し、もう一方は職業としての医学を追い求めているのだ」と陳氏は強調した。
中央研究院院士の陳培哲氏は、いまの大学は学問のためではなく「食べていくため」の場所になっていると指摘する。(写真/顏麟宇撮影)
基礎科学の荒廃 信仰がなければ革新もない 「若者が大学に進学しても、1〜2年生の段階でまだ物事を深く考える前に、専門知識で頭の中が埋め尽くされてしまう」。陳培哲氏は、こうした教育が学生から「世界を問い直す力」を奪っていると指摘する。「専門知識の多くは技術職的な性質で、既存の知を応用するものであり、新しい知識を生み出すものではない」。
台湾は長年にわたり基礎科学を軽視し、応用技術に偏重してきたと陳氏はみる。「台湾の研究の多くは implementation science、つまり実施科学だ。例えば肝炎ワクチンの普及は確かに重要だが、それは“原初的な発見”とは言えない」。
これは日本の学術文化とは対照的だという。「日本の研究者は、主流がどう評価しようと、自分が価値を感じる研究を続ける。オートファジー(自食作用)を研究した大隅良典氏も、当初は誰からも注目されなかったが、最終的には細胞生物学の歴史を書き換える発見につながった」。
「本当に代替できないものだけが文化となり、そこから初めてノーベル賞も生まれる」。陳培哲氏はそう指摘する。台湾の産業にはTSMCのような世界的企業があるものの、それは高度な受託生産の領域に属する。「ベンツのように品質は非常に高いが、“絶対に代わりがきかない”とは言えない」と話す。
陳氏は、決して産業の価値を否定しているわけではなく、社会がこの二つを取り違えてはいけないと強調する。「TSMCは台湾経済を支える存在だが、それだけで文化の高さを示すことにはならない。科学の価値とは、世界の知の体系そのものを変えることであり、商業的に数年先行することではない」。そして「根本的な問いに答えようとする人材を育てることこそ、文化と教育の使命だ」と語る。
もっとも、TSMC自身も文化の重要性を理解し、文学賞や書道賞などを通じて文学・芸術支援に取り組んでいるという。「これは、台湾社会が豊かさとともに教養や礼を重んじる方向へ進もうとする努力の現れだ。この流れが続けば、いつか必ず大きな花を咲かせるはずだ」と陳氏は期待を込めて述べた。
自信から「信念」へ 日本の揺るがぬ研究文化が示すもの 日本の研究者の姿勢について語るとき、陳培哲氏の声には敬意がにじむ。「坂口志文氏が制御性T細胞を研究した際、最初は誰も信じなかった。それが世界に認められるまで、数十年かかった。彼が続けられたのは、自分の研究に価値があると信じていたからだ」。
陳氏は、こうした「信じる力」こそが文化的自信の核心だと強調する。「日本の研究者は、自分の研究に価値があると自ら確信している。他人の承認が前提ではない。この文化的な自信が、独立した思考や独創的な研究を育てる」。
一方で、台湾社会には課題があると指摘する。「台湾人は失敗を恐れすぎ、成功を急ぎすぎる。信念も、信仰も、文化的な根もないままでは、どうして長期的な学術的成果が生まれるだろうか」。
文化的自信なき国家に、科学の尊敬は訪れない インタビューの終わりに、陳培哲氏は窓の外に目をやりながら、静かにこう語った。「台湾の問題は、お金が足りないことではなく、信念が足りないことだ」。
そして、ゆっくりと言葉を継いだ。「日本も韓国も、戦争と貧困を経験してきたが、それでも科学の価値を信じ続けてきた。台湾がいまのように大学を職業訓練校の延長として扱い続けるなら、『3つのノーベル賞』は、単なる数字のスローガンに終わるだろう。夢があり、自信があり、文化の根があってこそ意味を持つ。そうした基盤がなければ、どれだけ『333』を唱えても、それは空中楼閣にすぎない」。
最後に、陳氏は台湾が「333」に近づくための具体的な提案も示した。「われわれが本当に望んでいるのは、台湾の企業家たちが志を持って資金を投じ、プリンストン大学やロックフェラー大学のような私立大学をつくることだ。研究者が生活の不安なく学問に打ち込める環境を整え、台湾の優秀な人材を育てていけば、50年後、100年後には、台湾独自の文化が育ち、それが人類全体の財産になっていくはずだ」。