呉典蓉コラム》頼清徳総統は「団結」の名を借りて分断を広げたのか?野党は「リコール側翼」と猛反発

2025-07-03 11:52
20250701-総統の頼清徳、「団結国家十講」の第4講に出席。(総統府提供)
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台北の政界では最近、総統のスピーチライターが誰かを探る動きが活発だ。なぜなら、頼清徳総統の「団結十講」がほぼ「災難十講」と化し、親しい者に痛みを与え、敵には喜びをもたらすほどの災難だからだ。総統の演説は一大事であり、一点のミスも許されない。しかし、頼清徳総統はこれまでの4回の演説で、歴史的事実の誤りや価値観の偏り、政治的に不適切な発言を含む数々のミスを犯しており、このままでは、「大団結」を掲げた演説が、かえって内情を露呈する「暴露の旅」になりかねないとの懸念も強まっている。

総統の原稿に誤りがないことは最低限の基準に過ぎない。総統の演説に求められる高い基準とは、単に当代の国民を団結させるだけでなく、未来の世代をも鼓舞する力を持つことである。

例えば、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の「われわれが恐れなければならない唯一のものは、恐れそのものである」や、ジョン・F・ケネディ大統領の「われわれはみなベルリン市民だ」という言葉は、世界を変えた名演説として知られている。

台湾の総統として、自らを過小評価すべきではない。言葉一つひとつが敏感な地政学的影響を伴い、たった一つの演説原稿が戦争と平和の均衡を揺るがすことさえあり得るからだ。

そのため、総統の演説原稿は高度な政治芸術であると言える。たとえば、中研院の朱敬一院士は、「中華民国総統の就任演説を書く際、聴衆は大きく三つに分かれる:習近平氏、台湾の独立志向勢力、そして台湾の国民だ」と指摘する。

「いかにして全てのメッセージを正確に伝え、台湾の人々に安心感を与え、独立志向勢力の過剰な不安を抑え、そして習近平氏を黙らせるか」――このような高度な演説術こそ、中華民国総統が目指すべき理想である。

しかし、こうした演説の芸術は台湾においては存在しないか、あるいは完全に失われてしまっているのかもしれない。

総統の演説は人々との契約であり、時間の試練に耐えなければならない

蔡英文前総統は、かつて「文学青年風の文体」や「原稿読み機械」と揶揄されたこともあったが、それでも平穏さを重視した彼女の演説の中には、共感を呼び起こす名文句も少なくない。

たとえば、「自らのアイデンティティについて、誰も謝罪する必要はない」や、「民主国家の総統は、自らの権力が天から与えられたものではなく、国民から一時的に預かったものであることを知っている。もし適切に行使できなければ、その時が来れば、国民は貸したその権力を返してもらうだろう」といった言葉である。

これらのフレーズが称賛されたのは、美辞麗句だからではない。むしろ、それらが国家や社会の未来像を示し、総統と国民の間に結ばれる一種の「契約」となっていたからに他ならない。 (関連記事: 「リコールも民主の一部」賴清德総統が語る、団結と主権を守る台湾の選択 関連記事をもっと読む

総統が理想や倫理の高い基準を掲げると、その言葉はやがて、国民や歴史が政権を評価する際の基準となる。そして事実、「アイデンティティを理由に謝るべきではない」という言葉は、時に蔡英文自身が批判される材料にもなり、後継者である頼清徳総統にも無言の制約として働いている。