台湾総統の頼清徳氏は「団結十講」を始動し、24日に開催された第2回目の講演で、「国家の力を結集するには、選挙やリコールを繰り返すことで“不純物を取り除く”必要がある」と断言し、大きな波紋を呼んだ。これを受けて総統府は火消しに奔走し、「過度な解釈は避けてほしい」と釈明、野党に対しても「自分たちのことだと思わなくてよい」と呼びかけた。しかし、総統府の公式サイトに掲載された講演要旨からは、「不純物を取り除く」という表現が突如として削除されていた。与党陣営が頼総統の発言を擁護すればするほど、この言葉こそが彼の「本音」であるとの印象が強まっている。
中国出身配偶者追放、「人心の洗浄」と「不純物の除去」の始まりか?
忘れてはならないのは、頼清徳氏が就任前から「人心を洗い清める」ことを重要課題の一つとして掲げていた点である。教育者を気取る頼氏は、しばしば歴史教師のように振る舞いながら、実際には静かに人々の意識に働きかける歴史の再解釈と虚構の構築を進めている。昨(2024)年の「1624年史観」や「祖国論」、さらには今(2025)年に欧州戦勝80周年と八田與一を同日に記念した演出、「団結十講」第1講での台湾史の語りなど、そのいずれもが、歴史を自身の「台湾独立」思想に奉仕させるための講義と化しており、驚嘆せざるを得ない。同時に、政治的権力を駆使して「人心を洗い清める」ことへの異常なまでの執着を改めて印象づけている。
行政院の公式サイトにおいて、漢民族を「その他の人口」と表記した件に始まり、頼清徳氏が自ら「不純物を取り除く」と発言した一連の言動により、頼政権が目指す方向性はますます明確になってきた。これらは、単に立法院での多数派奪還を目指す「大規模リコール」戦術にとどまらず、繰り返される内部の粛清を通じて、“純粋な『信頼』社会”を築き上げようとする意図すらにじませている。
その延長線上にあるのが、インフルエンサーとして活動していた中国出身配偶者の国外退去処分や、中国籍配偶者や中国在住台湾人の戸籍・身分を狙い撃ちにした一連の政策である。これらはまさに、「不純物を取り除く」という思想の実践的な第一歩にほかならない。
実際、頼政権による異論の排除に対しては、すでに社会の一部から「ファシズム化している」との批判が上がっている。だが、ドイツをはじめとする欧州各国の駐台機関が、ヒトラーやユダヤ人大虐殺を「民主主義的な価値観」とは相容れない警告の象徴として持ち出しつつ、間接的に頼政権の正当化に寄与する形となったことで、「人心の洗浄」や「不純物の排除」といった概念は、いつの間にか西側「友好陣営」からの黙認や支援を受けたかのような印象を与えている。結果として、台湾社会は歴史から教訓を汲み取り、内省する力を徐々に失いつつある。

5月8日、頼清徳総統は欧州戦争勝利80周年を記念する式典に出席したのち、八田與一技師の逝去83周年追悼式にも参列した。(写真/総統府提供)
欧州戦勝を記念するも、ファシズムと軍国主義から教訓を学べず
とはいえ、「歴史教師」を自任する頼清徳氏の最大の問題は、歴史から教訓を得ることができず、むしろ過去の過ちを繰り返す恐れすらある点にある。アメリカの著名な精神科医・心理学者であるロバート・リフトン(Robert Lifton)は、その代表作『ナチスの医師たち――医学的殺人とジェノサイドの心理学』において、極端な生物医学思想と政治的全体主義が結びついたとき、それはまるでブラックホールのようなイデオロギーとなり、「劣等民族」と見なされた集団は「生きるに値しない命」と同義となり、社会全体が「世界の浄化の必要性」に対する確信を深めていくと警告している。
あるナチス医師は、悪名高いアウシュビッツ強制収容所を生理学的な用語になぞらえ、「世界の肛門」と呼んだ。そこはナチスが支配下の「廃棄物」を排出する場所であり、「人類再構築」という最終目標への過程であった。ナチスが見なした「廃棄物」と、頼総統が語った「不純物」との間に、果たしてどれほどの違いがあるのか。そう考えるだけでも、背筋に冷たいものが走る。欧州戦勝80周年を盛大に記念する頼氏が、もし人類の理性と民主政治の暗黒面に正面から向き合わないのであれば、その姿勢は極めて偽善的に映るほかない。
第二次世界大戦期のアジアにおいても、日本の軍国主義を支えた思想的背景には、福澤諭吉の影響があった。福澤は人類を大きく「文明」と「野蛮」に二分し、さらに「渾沌」「野蛮」「未開」「文明開化」といった四段階に分類した。そして、人類社会の発展を「野蛮社会」「半開化社会」「文明社会」の三段階で説明した。福澤にとって、「支那人は思想が貧しく、日本人は思想が豊かである」との認識があり、それゆえに中国への武力行使を強く主張し、日清戦争を「文明」と「野蛮」の戦いとして位置づけたのである。
1万円札に肖像が描かれている福澤諭吉は、台湾とも深い関わりを有している。かつて日本軍が台湾を征服した際、各地で蜂起した抗日運動に対して日本の植民地当局が苛烈な軍事弾圧や討伐を行った背景には、福澤諭吉の思想があったとされる。すなわち、福澤は「日本が欲しいのは台湾という土地であり、台湾の“土人”ではない」と主張し、抵抗する者は皆殺しにすべきだと説いたうえで、日本人の移民政策を推奨していた。
故・許介鱗氏――日本研究の第一人者として知られる台湾の学者――は、生前の論考においてこう指摘している。すなわち、福澤は日本を「文明国」として西洋に見せかけるため、手段を選ばず歴史の捏造や歪曲を行い、「愛国心」を拠り所として東洋の仁義や道徳すらも投げ捨てた人物であったという。
日本の思想家・福澤諭吉は、「文明」と「野蛮」の戦いを主張し、植民地支配に抵抗する台湾人を排除すべき「土人」と見なしていた。(出典/ウィキペディア)団結が崩壊する中、除去されるべきは歪んだ歴史による「不純物」
日本の「文明」に深く心酔している頼清徳総統は、果たして福澤諭吉の啓蒙をも受け継ぎ、かつての日本植民地当局が台湾の「土人」を排除したように、現代の台湾社会における「信頼できない」ものを「不純物」として取り除こうとしているのだろうか。ファシズムや軍国主義が人類にもたらした惨劇を振り返れば、頼氏の掲げる「人心の洗浄」の進化形である「不純物の排除」が、一部の「その他の人口」に深い不安をもたらしているのは、決して根拠のない被害妄想ではなく、過去と地続きの構造的懸念なのである。
「団結十講」はまだ第2講にすぎないにもかかわらず、その「団結」という名目自体がすでに形骸化しつつある。「不純物を打ち払う」という表現には、「信頼する者だけが生き残る」という意味を持つのか、では「信頼しない者」はどうなるのか――そう考えると、ぞっとせざるを得ない。与党およびその周辺勢力による「不純物」発言の擁護は、頼総統のそれが「本音」であったことを逆に浮き彫りにし、人々の間に反発と不信の炎を確実に広げている。
もし「団結」が本当に頼氏の追い求める政治理念であるならば、講壇に立ち、人々に説教を垂れるような高圧的態度をとるよりも、まず歴史を丁寧に学び直すべきであろう。歴史を鏡として過ちを繰り返さぬようにすることこそが、真のリーダーに求められる姿勢である。頼総統が真に取り除くべきは、自らの誤った歴史認識から生じた「不純物」であり、そして社会全体を不安に陥れている澱のような政治的言動である。