台湾と日本の交流において重要な役割を担う日本台湾交流協会は、東京海上ホールディングス株式会社の元会長である隅修三氏が、大橋光夫氏の後任として会長に就任することを発表した。政界関係者によると、隅氏は財務・経済に強い知見を持つ実業界出身の人物であり、日本経済団体連合会(経団連)の副会長を務めた経験もある。その背景から、今後の日台関係において、彼が商界からの「大手」として強力な影響力を発揮するとの見方が出ている。
隅氏は1947年7月11日、山口県玖珂郡錦町(現・岩国市)に生まれ、日本の保険業界では長年にわたり重鎮として知られてきた。政財界での豊富な経験を持ち、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)に1970年に入社して以来、同業界でのキャリアを積み上げてきた。

隅修三氏は東京海上ホールディングスの元会長で、日本経済団体連合会の副会長も務めるなど、日本の経済界における重要人物だ。(写真/日本台湾交流協会提供)
山口県・宰相の郷の出身、早稲田大学卒業
隅氏の出身地である山口県は、「宰相の郷」として名高く、明治維新の原動力となった長州藩の流れを汲む地域である。これまで伊藤博文、山県有朋、桂太郎、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三といった歴代首相を多数輩出しており、日本の政治史に深く関わってきた。
隅氏は早稲田大学理工学部土木工学科を卒業。校友誌には、自身が過ごした1960年代の高等学院や大学での学生生活について寄稿しており、特にボート部に所属し、寮生活で培った経験が、その後の企業人生の基盤になったと振り返っている。
1963年に山口県の山間部から単身で上京した隅氏は、当初はボート部の訓練を軽視していたが、日々隅田川で体力を鍛え、練習中に油輪(曳舟)に助けられた経験もあるという。この出来事を通じて、身体的にも精神的にも忍耐力を養うことになったと語っている。
また、当時の英語学習に真剣に取り組まなかったことを悔やんでいるとしつつも、大学時代にはオリンピック代表選手が立ち上げた社会人ボートクラブに参加し、自主性を発揮したという。学生寮「和敬塾」では、異なる出自を持つ学生たちと寝食を共にすることで、視野を広げた。1960年代の学生運動が活発だった時代には、論理的な議論の力と、心理的な耐性も身につけたと述べている。早稲田の「自由・自立・責任」という理念は、社会に出てからの自分を支える原動力になったとも明かしている。

山口県は多くの重要な政治家を輩出しており、日本で最も影響力のある政治家も含まれる。(AP通信)
経歴から商界の巨人に 経済界と国際舞台で活躍
商業界に入った後、隅氏は2000年代から徐々に企業の中枢へと着実に上り詰めた。海外本部ではロンドン駐在の首席代表を務め、その後、常務取締役、専務取締役などを歴任。2007年には東京海上日動の社長に就任し、同時に当時の持株会社であるミレアホールディングスの社長も兼務した。翌2008年、持株会社が東京海上ホールディングスに改組された後も社長を務め、2013年には取締役会会長へと昇格。その後は2016年よりシニアアドバイザーとして会社にとどまり、経営を支えている。
企業経営にとどまらず、隅氏は日本経済界全体と国際的な舞台でも活躍している。2013年には英国ロンドン市から名誉市民の称号を授与され、2015年には経済同友会の副代表幹事から日本経済団体連合会(経団連)の副会長へと転じた。2016年にはソニーの社外取締役にも就任。2018年には国際保険界における最高の栄誉である「保険名誉殿堂」入りを果たした。
また、人気漫画《島耕作》シリーズの作者である弘兼憲史氏と、高水高等学校附属中学校で同級生だったことでも知られる。二人はそれぞれ企業経営と漫画創作という異なる分野で活躍しつつ、2014年には早稲田大学の校友対話イベントで同じステージに立ち、社会人としての経験を語り合った。

隅修三氏は東京海上ホールディングスで社長や取締役会会長を務め、現在も会社のシニアアドバイザーとして活動している。(写真/東京海上ホールディングス公式サイト提供)
「島耕作」の原型、経済と創作の交差点
2013年には、両氏による対談が行われ、人事と国際人材について深い意見交換がなされた。ともに1947年生まれで、企業の採用観について隅氏は「適材適所」の考えを重視しつつも、配置がすべての期待に応えられるわけではないと率直に語った。
また、従来の「安定した平均的能力」を求める風潮から一歩進み、独自性や専門性を持つ人材に価値を置くようになったという。国際競争に勝つためには「尖った個性=エッジ」が不可欠とし、弘兼氏も国際的な視点を持つ管理職の必要性を強調した。
隅氏は、語学力だけが国際舞台での強みではなく、政治・経済・文化を立体的に把握し、自分の立場を明確に示すことが重要だと語った。「異なる意見が恐れられることはないが、黙っていては誰も耳を貸さない」という発言には、グローバル社会における自発性と明確な意思表示の重要性が表れている。
弘兼氏が描く《会長島耕作》では、作中の主人公が経済界の要職に就く描写があり、現実の隅氏との共通点が話題を呼んだ。例えば、作中で島耕作は「経団連」に代わる団体「経済交友会」に参加するが、隅氏は真逆の道を進み、2015年に経済同友会副代表幹事を辞し、経団連の副会長に就任した。
さらに興味深いのは、作中の島耕作が「会長」に就任したのと同じ年に、現実の隅氏も東京海上ホールディングスの会長に昇進している点である。漫画と現実が偶然にも交差するこの出来事は、政界・商界・文化界にまたがるエピソードとして注目を集めた。

漫画家の弘兼憲史氏(写真)は隅修三氏の同級生で、彼の作品である『会長島耕作』は隅修三氏の経験を物語のインスピレーションにしている。(資料写真/陳韡誌撮影)
商界から台湾外交の最前線へ──隅氏にかかる期待
ある外交関係者は、隅氏の就任に大きな意味を見出している。隅氏が副会長を務めた日本経済団体連合会(経団連)は、日本商工会議所や経済同友会と並ぶ「経済三団体」の一つであり、会長職は「財界総理」とも称される日本産業界の中枢に位置づけられる存在だ。経団連は、東京証券取引所の一部上場企業を中心とした企業連合であり、2002年に旧経済団体連合会と日本経営者団体連盟が統合して誕生。もともとは経済産業省が所管する社団法人として設立され、のちに一般社団法人へと移行した。
また、事情に詳しい関係者によれば、日本台湾交流協会は長年、日本の対台湾窓口機関として機能してきた。正式な外交関係はないものの、日台間の外交・経済・文化・教育など多分野の交流において中核的な役割を担ってきた。過去には日本の著名な外交官である垂秀夫氏も駐在しており、長年会長職を務めた大橋光夫氏の高齢化を受けて、日本政府は新たな体制への移行を決断。日台関係のさらなる発展に向けた象徴的な人事として注目を集めている。
2025年6月20日、日本台湾交流協会は、隅氏が第6代会長に就任すると発表。14年間にわたり日台交流をリードしてきた前任の大橋氏の後任となる。隅氏は発表にあたり、「現在の良好な日台関係を基盤に、この重要な任務に携われることを光栄に思う。多方面の協力をさらに深化させるべく尽力したい」と語った。また、これまで商界を通じて台湾とのつながりを築いてきたことや、最近では家族と共に台湾を私人として訪問し、台湾の自然や文化、日本に向けられた厚い親しみを肌で感じたことを紹介。自身の交流推進への意欲を示した。

前日本台湾交流協会の会長である大橋光夫氏(左)は14年間在任し、台湾との密接な交流を築いた。(写真/顏麟宇撮影)
理念と信念で日台協力を推進 「上善如水」を胸に
隅氏は台湾を「民主主義、自由、法治といった価値観を共有する大切なパートナー」と表現し、日本にとって極めて重要な人的・経済的交流の対象であると強調した。日本台湾交流協会が2024年に実施した台湾での世論調査によれば、回答者の76%が「最も好きな国」として日本を挙げた。2023年には台湾から日本を訪れた旅行者数が過去最多の約604万人を記録している。経済面では、台湾積体電路製造(TSMC)による熊本での大型投資が進行中であり、日台産業協力の深化を象徴するプロジェクトとされる。
さらに、2024年11月にペルーで開催されたAPEC会議において、日本の石破茂首相と台湾の林信義資政が会談を行い、防災分野などでの協力強化を確認したことにも触れ、日台の連携が国際的課題への対応でも具体的な成果を挙げつつある点を紹介した。
隅氏は、老子の言葉「上善は水のごとし(上善如水)」を引用し、争わず、名誉や利得を追い求めず、無私の奉仕の精神で協会職員と団結し、日台の各界と共に協力を推進していく姿勢を示した。「限られた力ではあるが、今後も皆様の支持とご指導をお願いしたい」と語り、継続的な交流深化への決意を表明した。
台湾側では、外交部傘下の台湾日本関係協会会長である蘇嘉全氏が、長年にわたり日本台湾交流協会との間で多様な連携を進めている。2024年12月に東京で開催された第48回台日経済貿易会議では、蘇氏が台湾代表団を率い、当時の大橋会長らとともに、一般政策や農林水産、医療技術、知的財産権など幅広い分野で意見を交換。「台日植物新品種審査協力覚書」が締結された。
また、2023年1月には海洋問題に関する協議が行われ、同じく蘇氏と大橋氏が共同で覚書に署名している。形式上の外交関係は存在しないが、日台の間には「絆」と呼ばれる深い信頼と交流のネットワークが確かに根付いている。