台湾の立法院が憲法裁判所による違憲判決の成立要件を引き上げる法改正を行い、さらに総統による大法官人事案を二度にわたり否決した結果、いわゆる「新・憲法訴訟法」の制約下で、憲法裁判所は約1年にわたり事実上の機能停止状態に陥ってきた。
そうした中、5人の大法官は、「不足額判決」に反対した3人の大法官を評議の母数から除外した上で、「憲法訴訟法改正案は違憲である」との判断を下し、今後順次案件を審理していくと宣言した。
しかし、これは憲法裁判所の「復活」ではない。むしろ、憲法裁判所が真の意味で「死」に向かい始めた瞬間だと言わざるを得ない。なぜなら、この判決をもはや真剣に受け止める者はおらず、違法な裁判を強行した大法官たちが、憲法ではなく特定の政党に忠誠を誓っているのではないかという疑念が、社会の中で急速に広がっているからである。
さらに深刻なのは、この「手続的正義」を欠いた判決によって、法曹界そのものが真っ二つに分断されたことである。評議への参加を拒否した結果、「総員数」から除外された3人の大法官は、それぞれ反対意見書を提出し、この判決は「当初から無効」であると明確に指摘した。
これらの反対意見書は学術誌に掲載されたにすぎないが、その重みと歴史的意義は、むしろ判決文以上に深いものがあると言える。判決公表後48時間以内に、中華民国憲法学会と民間の司法改革団体が相次いで賛否両論の声明を発表した事実も含め、これらすべては、本来「政治(政党)から超然としているべき」司法界「実務から学界に至るまで」が、もはや司法そのものを沈没させかねない政治の渦中に否応なく巻き込まれている現実を映し出している。
憲法裁判所の停滞の原因は、憲訴法ではなく大法官人事にある
5人の大法官が「新・憲法訴訟法」を違憲と判断した理由は、大きく二つに整理できる。
第一に、立法院の審議手続きが手続的正義に反しているという点である。すなわち、法案が十分な審議を経ないまま第二読会に直付され、議長が異議の有無を確認した直後に、間髪を入れず可決を宣言したことなどが問題視された。
第二に、新たな修正条文が大法官の職能に実質的な影響を及ぼし、憲法裁判所を1年間にわたり麻痺させたことは、権力分立の原則に反するという点である。
その基本的な立場は、立法手続き上の瑕疵は立法院自身が是正すべきであり、政治的対立を司法に持ち込むべきではない、というものである。言い換えれば、議事手続き上の紛争や物理的衝突は、与野党の対立から生じるものであり、大法官は憲法を解釈することはできても、政治的対立そのものを解決することはできない。
にもかかわらず、大法官が立法院の議事運営に介入し、是非を論じることは、対立の解消に寄与するどころか、火に油を注ぐ結果となる。この「憲訴法違憲」という違法判決は、その典型例である。
そもそも、憲法裁判所が1年間にわたり機能不全に陥った理由は、憲訴法改正と多少の関連はあっても、決定的なものではない。立法院が二度にわたり大法官人事を否決したことは確かに影響しているが、それも必然ではなかった。
「新・憲訴法」の要件によれば、評議には10人が参加し、9人の同意がなければ違憲判決は成立しない。しかし、評議会自体は、大法官が1人でも承認されれば開催できたはずである。
そこで問われるべきは、なぜ民進党の院内総召集人が、民衆党の支持を得て可決の可能性が高かった劉静怡教授を封殺したのかという点であり、また、なぜ頼清徳総統は二度にわたる人事提名において、野党の意見をまったく聴こうとせず、法曹界の重鎮を調整役として招く意図すら示さなかったのかという点である。
頼清徳総統は「自分が提名した人材は本当にそこまで劣っているのか」と不満を漏らしているが、問うべきはむしろ、自分自身である。なぜ提名した人材が、誰の目から見ても十分とは言えないのかである。
大法官が「全員民進党」なら、結末は共倒れしかない 異論排除こそが真の違憲行為だ
付言すれば、民選大統領制が始まって以降、国民は国家指導者には一定の度量と包容力があるべきだと信じてきた。とりわけ、司法院を含む「独立機関」の人事においては、党派色を全面に押し出すことは許されず、仮に「身内」を登用する意図があったとしても、一定割合で他党系の人物を含めるのが通例であった。
陳水扁総統の第一次政権における大法官人事は、その典型例であり、国民党・民進党双方から重鎮を揃えた「ドリームチーム」と評され、国民党・親民党の立法委員から一人の否決も受けなかった。
馬英九総統が指名した大法官の中には、今日に至るまで「民進党の憲法裁判所」の立場に立ち続けている黄虹霞氏も含まれている。
これに対し、蔡英文総統は完全執政の下で、二期にわたり大法官を「提好提滿」、すなわち全員を民進党系で固めた。少数与党政権となった頼清徳総統もこれを踏襲し、最初の提名では自身の選挙本部主任を副院長に据え、二度目の提名では検察官を院長に指名した。前者は朝野双方から受け入れられず、後者は法曹界からすら疑問視された。
司法の威信を誇示するためであれ、大統領権力を擁護するためであれ、立法院の議事手続きを批判することはできても、議会運営を指導することはできない。その結果、彼らは評議への参加を拒否した3人の大法官を「総員数」から除外するという、前代未聞の手段に訴えた。
しかし、新憲訴法に基づけば9人、旧法に基づいても現員8人の3分の2、すなわち6人が必要であり、5人による評議は新旧いずれの法の下でも違法である。自ら違法行為を行いながら、立法院に「手続的正義」を説く資格がどこにあるのか。
頼清徳総統は、与党少数という政治的現実に向き合おうとせず、大法官は総統の目隠しをするだけでなく、自らの目まで塞いでしまった。
憲法増修条文が定める二元首長制の精神に照らせば、国会で野党が多数を占める状況では、行政院長の人選でさえ野党の意見を聴くべきである。民進党が初めて政権を握った際、陳水扁総統は野党陣営から唐飛氏を行政院長に迎え入れた。
しかし、頼清徳の頭の中には民主主義のABCすら存在せず、民進党、しかも自身が「信頼する」卓栄泰氏に固執し、連携や妥協を模索しなかった。その結果、国民党・民衆党の結束はかえって強まり、大規模なリコール運動は大失敗に終わり、自らの誤りを証明する形となった。
それでも、頼清徳は党主席を辞任せず、卓栄泰も行政院長を辞任しなかった。さらに驚くべきことに、4カ月も経たないうちに、再び「副署しない、公布しない、執行しない」という立法院法案をめぐる政治的駆け引きを繰り返しているのである。
憲法裁判所は「違法に復活」、政党解散案件は「緊急処理」が必要なのか
もし憲法裁判所が、あえてこのような形で「違法に復活」し、再び違憲判決の権限を奪い返そうとするのであれば、頼清徳総統と卓栄泰行政院長は、そもそも世論から激しい批判を浴びた「三不独裁(副署せず、公布せず、執行せず)」を演出する必要があったのだろうか。
現在、総統府と行政院によって留め置かれ、公布されていない「財政収支区分法改正案」について、改めて副署・公布した上で、再び五人の大法官による違法な裁判を通じて同法を「違憲」と判断させるべきなのか、という疑問も浮かぶ。
注目すべきは、憲法裁判所が「新・憲法訴訟法」を違憲と判断するにあたり、違憲審査にとどまらず、「正副総統の弾劾案件」や「政党解散の宣告案件」についても、もし適時に処理されなければ、政治的不安定が長期化し、社会的混乱や対立が拡大すると特に指摘した点である。
そのため、これらの案件についても違憲判決と同等の評議要件を課すことは、「法律によって大法官の憲法上の職権行使を妨げる行為」に当たり、権力分立の原則に反すると論じた。
確かに、立法院において野党が与党を上回る議席を占めているとはいえ、正副総統の弾劾には3分の2以上の賛成が必要であり、現実的に「緊急処理」の必要性は存在しない。一方で、「政党解散の宣告」は行政権に全面的に握られている案件である。そうである以上、問いかけざるを得ない。
これまでの『大法官会議法』、現在の『憲法訴訟法』、さらには『司法院組織法』に至るまで、いずれも立法院の三読会を経て制定されており、憲法解釈・違憲判断の要件は一貫して高く設定されてきた。
過去においても、違憲判断には3分の2(9人)の同意が必要であり、『大法官会議法』に至っては、4分の3の出席と、その出席者の4分の3の賛成がなければ、憲法解釈を行うことすらできなかった。
争点性の高い案件において、大法官が意図的に会議を回避することも決して珍しいことではなく、すべての憲法解釈は、幾度も熟考と協議を重ねた末に、ようやく判断要件を満たしてきたのである。
法服を龍袍と勘違いし、五人会議で政治を袋小路に追い込む
憲法は国家の根本法であり、民主主義の制度運営の核心である。憲法が重大である以上、憲法裁判(解釈)もまた重大であり、その判断要件が厳格であるのは当然だ。
立法院が正副総統を弾劾する際に、単純過半数ではなく3分の2を必要とするのと同様、立法院が違憲判決の要件を引き上げたのは、大法官による恣意的な判断(例えば実質的な死刑廃止のような判断)を抑制するための措置にほかならない。
人数要件の修正にとどまらず、立法院が『憲法訴訟法』を廃止し、『大法官会議法』を復活させることさえ、制度上は可能である。
大法官の職権行使は、権力者からの授権によるものではない(形式上は総統が提名するが)、あくまで民意からの授権によるものである。その民意を代表する機関こそが立法院であり、だからこそ立法院に同意権が付与されているのだ。
憲法裁判所が、「立法院には法律によって大法官の職権行使の手続きを制限する権限はない」と考えるのであれば、それは根本的な誤解である。
権力者に忠誠を誓う「救憲」の幻想
自らを「憲法裁判所を救う存在」と信じている五人の大法官の視線は、終始、権力者に向けられている。法服を身にまとい、それをあたかも皇帝の龍袍であるかのように錯覚し、司法は民意の上に立てないという原則を完全に無視している。
大法官は国会の上級指導者ではない。五人の大法官が政治の泥沼に飛び込んだところで、民主主義が深化することはなく、権力者が彼らの過剰な忖度を評価する保証もない。結果として、政治的膠着はさらに抜け出せない袋小路へと押し込まれていく。
解決策は二つしか残されていない
憲法裁判所が今後も「五人小会議」を続けるなら、半ば機能不全に陥っている監察院が大法官を弾劾する可能性はなく、立法院も憲法裁判所の違法判決を相手にしないだろう。行政院は虚偽を語り続け、頼清徳総統は政治的現実に向き合おうとしない——この悪循環が続く。
一つは、選挙によって「国民党・民進党がともに勝つか、あるいはともに敗れる」結果が生まれること。
もう一つは、大法官が任期満了によって一人ずつ退任するのを待つことだ。
二年後には、さらに四人の大法官が任期満了を迎える。もし頼清徳総統が、引き続き野党が受け入れ難い人選に固執するなら、憲法裁判所は人影まばらな機関となるだろう。
政党の私心が「独立機関の空洞化」という種を蒔いたのは蔡英文政権期であったが、その消灯の号砲を鳴らすのは、頼清徳になる可能性が極めて高い。
嘆かわしいことに、頼清徳の頑なさは、彼自身の政治的宿命を書き記すだけでなく、国家の行く末にまで不測の注釈を刻み込もうとしている。