2025年12月19日夕方、週末を前にした退勤ラッシュの時間帯、台北駅は普段以上に混雑していた。その秩序だった膨大な人の流れを、一気に破壊したのが、軍用級に似せたM18型の発煙弾15発だった。状況を把握できないまま避難を急ぐ通行人と、黒い上着に黒い短パン、顔を覆うマスク姿の男がすれ違う中、57歳の余姓の男性が制止に入った。しかし男は「両刃の刃物」で余氏の肺と心臓を刺し、致命傷を負わせた。
約1時間後、男は再び姿を現す。台北メトロ中山駅の駅外で再度発煙弾を投げ込み、人々が反応する間もなく刃物を抜いて群衆に突進した。赤信号で停止していたバイクの運転手を切りつけ、さらに誠品生活南西店へ突入し、王姓の男性客を襲撃。最終的に4人が死亡、11人が重軽傷を負う惨事となった。
台北市内で相次いだ二つの大量殺傷事件は国内外に衝撃を与えた。内政部警政署は12月20日、「12・19北捷無差別襲撃事件」に関する特別報告を公表し、社会は初めて、この事件が加害者・張文容疑者によって1年半以上かけて綿密に計画された攻撃だったことを知る。
張文容疑者は12月19日午後3時40分から行動を開始していた。台北・中山地区で3度にわたり放火を行い、その後、自身が台北・中正区で借りていた間借りの部屋にも放火。さらに台北駅、中山駅へと移動し、最終的には午後6時40分、誠品南西店で転落死した。約3時間に及ぶ計画的犯行の間、警察は何をしていたのか。行政院長の卓栄泰までもが「なぜ連続犯行を止められなかったのか」と疑問を呈し、対応過程の全面検証を求めた。警察は職務を全うしていたのか。
張文容疑者は台北駅および中山駅で凶行に及び、4人が死亡した。(資料写真/cheetah.333594@threads提供)
車両放棄と変装で捜査は迷路に 事件の全体像が明らかになるにつれ、卓栄泰行政院長や国民党の台北市議・柳采葳氏、一部メディアから、「張文容疑者が約3時間にわたり犯行を続ける間、警察が阻止できなかった」との批判が相次いだ。
しかし事情に詳しい警察幹部は『風傳媒』に対し、午後4時前後に2件の放火通報を受けた後、台北市警察局中山分局が直ちに捜査を開始したと説明する。放火は計3件と判明し、監視カメラの追跡を始めたものの、張文容疑者は度重なる変装を行い、バイクを放棄してYouBikeに乗り換えるなど、逃走経路を巧妙に分断し、警察を翻弄した。
その間、張文容疑者は台北・中正区の自室に放火。通報を受けた中正第一分局が出動した。約30分後、張文容疑者は台北駅M8からM7出口周辺で発煙弾を投げ始めた。警察は4分以内に現場へ到着したが、現場は煙に包まれ、通報内容も「投擲物があり、負傷者が出た」という情報にとどまり、逃走方向を特定できなかった。張文容疑者は煙の中で再び変装し、捜索は完全に手詰まりとなった。
中正第一分局と台北市刑事警察大隊が対応に追われる中、中山分局の警官がテレビ映像を見て、台北駅で発煙弾を投げた人物が、追跡中の放火犯・張文容疑者である可能性に気づき、直ちに情報を共有した。
身元は確認できたものの、拘束には至らないまま、張文容疑者は午後6時37分、中山駅外で第2波の無差別襲撃を開始。警察は1分以内に現場へ駆けつけたが、張文容疑者はすでに複数人を切りつけ、誠品南西店の屋上に追い詰められた時には、100秒前に装備を脱ぎ捨て転落していた。
張文容疑者は放火で警察の注意を分散させた後、犯行の過程で度重なる変装を行い、捜査の断点を作り出した。こうした一連の計画が追跡を遅らせたとされる。イメージ図。(資料写真/顔麟宇撮影)
検察・警察は時間との闘い 卓榮泰行政院長が台北駅に到着する中、張文容疑者は中山駅付近で襲撃 張文容疑者は犯行の1年半前からタブレット端末で計画を練り、事件3日前には誠品南西店から50メートルしか離れていないホテルに宿泊。各現場を下見し、犯行中は5回の変装、移動手段もバイク、YouBike、徒歩と切り替え、警察は追跡に苦しんだ。
時間と戦っていたのは現場の警察・検察だけではない。台北駅から500メートル圏内にある行政院、警政署、さらに1キロ圏内の総統府も一斉に動いた。事件発生当時、行政院で執務していた卓栄泰行政院長 は、救急車のサイレンを聞き、10分以内に状況を把握。まず行政院で指揮を執る決断を下した。
台湾警政署は「国土安全緊急通報作業規定」に基づき、行政院国土安全弁公室に「重大な人為的治安事件」として通報。張文容疑者 による台北駅での襲撃から約1時間後、 卓栄泰 行政院長 はの劉 世芳 内政部長 らと 現場視察のため台北駅に向かった。しかし、台北駅でメディア対応を行っていたまさにその時、張文容疑者は地下鉄でわずか1駅離れた中山駅付近で、次の 襲撃を行っていた。
関係者によると、この襲撃発生を受け、劉世芳内政部長 は直ちに中正第一分局へ向かい、張榮興警政署長 、消防署、台北メトロなど関係機関とともに、緊急対応チーム会議を招集したという。 同日午後7時18分、卓榮泰行政院長 は自身のSNSを通じて、国民に向けて状況説明を行った。その20分足らず後には、賴清德総統もSNSに投稿し、国民の不安を和らげるよう呼びかけた。
卓栄泰行政院長 (写真)は事件の概要を把握後、まず行政院で指揮を執り、その後、劉世芳内政部長 らと共に台北駅の現場を視察した。(資料写真/顔麟宇撮影)
総統が直接報告を要求 警政署、徹夜で対応 12月19日夜8時頃、卓栄泰 行政院長 は中正第一分局に到着し、警察に徹夜での捜査を命令。1時間後、張栄興警政署長 は特別会議を終え、全国の警察機関に対し、警戒強化、連携体制の強化、迅速な通報・対応、現場処置の徹底という4項目を指示した。
賴清德総統(中央)は20日、特別報告に自ら出席した。これに対応するため、警政署は徹夜で準備に追われた。(資料写真/顔麟宇撮影)
台北駅襲撃は「極めて敏感」 賴清德総統「決して軽々しく済ませるな」 賴清德総統は、なぜ張文容疑者による台北駅襲撃事件を強く注視し、深夜に翌日自ら警政署へ出向いて報告を受ける決断を下したのか。12月20日、警政署、法務部、交通部、衛生福利部が順次報告を行った後、賴清德総統の懸念は、その後のあいさつの中で明確に示された。
賴清德総統は、いわゆる「賴医師」としての姿勢を改めて示し、医療面では計画的に長期的な健康ケアや心理カウンセリングを進める必要があると指摘した。その上で、台湾高等検察署が設置した特別捜査チームに対し、捜査範囲を全面的に拡大し、徹底的な調査を行うよう特別に指示した。捜査対象には、犯人の背景、犯行動機、共犯者の有無、第三者の指示があったかどうか、資金源などが含まれる。「初動で手掛かりが得られなかったからといって、決して軽々しく見逃してはならない」と強調した。
実際、台北駅は高速鉄道(高鉄)、台湾鉄路(台鉄)、台北メトロ、空港メトロが集約する「四鉄共構」の拠点であり、極めて重要な交通インフラに位置づけられている。過去数年にわたり、同駅は各種演習の重点対象となってきた。2023年の国軍「漢光39号」演習をはじめ、国土安全および対テロ防衛を目的とした金華演習、さらに長年実施されてきた万安演習も、いずれも台北駅で行われている。
こうした背景から、張文容疑者が台北駅を襲撃した後、インターネット上では「単独犯行ではないのではないか」といった憶測が相次いだ。
警察は現在も犯行動機を断定できていないものの、事件発生から18時間後の12月20日午後、張榮興警政署長 は、現時点ではテロ攻撃の可能性を暫定的に排除したと発表した。捜査状況を把握している刑事は『風傳媒』の取材に対し、「現在得られている証拠からは、テロの兆候は見られず、敵対勢力と連携するいわゆる『第五縦隊』の形跡も確認されていない」と述べている。
また別の警察関係者は、テロの定義は極めて厳格であり、現時点で把握している証拠はいずれも、明確にテロ行為と認定できるものではないと説明した。ただし、『行政院国土安全応変機制行動綱要』によれば、最終的にテロか否かの判断は、国家安全および行政システム全体の情報を踏まえ、国土安全弁公室が総合的に判断する必要がある。検察・警察は現在も動機の解明を続けており、テロの可能性が完全に排除されたわけではない。
台北駅は重要な交通インフラであり、事件発生後、対テロ任務を担う霹靂小組(SWAT)が配置され、厳戒態勢が敷かれた。(資料写真/警政署提供)
卓榮泰行政院長は警察の初動対応を追及 賴清德総統は「快速打撃部隊」の強化を指示 一方、卓榮泰行政院長が、なぜ警察の初動対応によって張文容疑者が放火後も犯行を継続できたのか、その責任を追及しているのに対し、賴清德総統は、劉世芳内政部長 および張榮興警政署長 を名指しし、各県市警察局と連携して「快速打撃部隊」の機能を強化するよう求めた。
賴清德総統が対テロ訓練に関心を示したのは今回が初めてではない。2025年6月13日には、大統領として桃園市新屋区にある対テロ訓練センターを視察し、張榮興警政署長 および保安第一総隊の総隊長・張国雄氏らの陪同のもと、維安特勤隊による実動訓練を見学した。訓練では、地下鉄車両を模した閉鎖空間での人質救出が想定された。
賴清德総統はその際のあいさつで、維安特勤隊は対テロ攻撃や重大刑事事件の制圧・包囲に加え、反暴力、反破壊といった特殊任務を担う極めて重要な部隊であると述べ、政府として台湾の対テロ能力を強化する重要施設を全力で支援すると表明した。「準備を積極的に進めるほど、台湾はあらゆる挑戦に対応できる力を高めることができる」と語っている。
賴清德総統(右)は6月に警政署の反テロ訓練センターを視察していた。今回の事件を受け、改めて関係官僚に対し、対テロ能力の強化を指示した。(資料写真/鍾秉哲撮影)
年末の大型行事を前に厳戒態勢 警察は「徹底的に調べ尽くす」構え 張文容疑者はビルから転落し、救急搬送後に死亡が確認されたものの、賴清德政権にとって、ここで気を緩める余地はない。事件発生直後、インターネット上には「次の場所」を示唆する書き込みが出回った。
12月25日のクリスマス関連行事や、12月31日の各地の年越しイベントなど、年末は大量の人出が見込まれる。わずかな風評や動きが重大な危機を招きかねないことから、賴清德政権と警察当局は一切油断せず、厳戒態勢を敷いている。
特に警察は、張文容疑者が焼却したノートパソコンを押収し、クラウド上のデータを解析した結果、張文容疑者が2014年に発生した台北メトロ鄭捷無差別殺傷事件に関する情報を大量に閲覧していたことを確認した。現時点では、鄭捷事件の模倣犯である可能性が高いと見ているが、なお多くの疑問が残されている。
例えば、2024年半ば以降、定職に就いていなかった張文容疑者が、2025年1月から月額1万台湾ドル(約5万円)以上の家賃が必要な分租雅房をどのような資金で借りていたのか、といった点は依然として解明されていない。
事件発生から24時間が経過した後も、特別捜査チームに参加する警官らは会議を重ね、その夜の役割分担や、どの監視カメラ映像を精査するかを協議していた。声を潜めながら、その警官はこう語った。
「現時点では、特定の方向に捜査を制限する指示は出ていない。私たちはあらゆる細部を分担して調べ尽くす。限界まで、可能な限り徹底的にだ。17日から19日にかけて、彼が誰とも接触していなかったことは確認しているが、その3日間に接触がなかったからといって、1週間前や2週間前に接触がなかったとは言い切れない。だからこそ、毎日会議を開き、時間をさかのぼって調査を続けている」