バリアフリー席/優先席——この「特別席」こそ、ここ最近の台北メトロ論争の最大の焦点だ。なかでも象徴的だったのが、席を譲れと詰め寄る老婦人を、若い男性が向かい側の空いた席めがけて蹴り飛ばした一件である。あの蹴りは、優先席という制度の存在意義そのものを否定した。社会の主流的価値が変われば、「優先席」「バリアフリー席」は時代遅れと見なされ、論争の火種になるだけでなく、社会の偽善も露わにする。
老婦人の素性は、あの蹴りを正当化しない
集団も個人も、最初の反応がいちばん本音だ。老婦人を蹴り飛ばす映像がネットに出回った直後、コメント欄は拍手喝采で埋まった。その後になって、老婦人は台北メトロでトラブル常習の要注意人物で、窃盗容疑の手配歴がある、といった情報が出回った。しかし優先席をめぐる議論に、彼女の過去は関係ない。称賛が先行したのは、多くの人が日常の公共交通、とりわけメトロで繰り返される「道徳的な恫喝」への鬱憤を代弁してもらったと感じたからだ。座席トラブルの全てが同じ背景を持つわけではない以上、いま必要なのは市民感情に目を向けることだ。
優先席は「道徳」に依存する——それはいまの台湾では希少資源だ
当時の状況を整理すると、若者の逆鱗に触れたのは二つ。
①優先席に座る若者に譲れと要求し、無視されるとバッグで叩いたこと。
②周囲に空席が十分あったのに、なお譲れに固執したこと。
暴力は論外として、そもそも老婦人に若者へ「譲れ」と強いる権利はあったのか。たとえ「バリアフリー席」の時代であっても、強制力はなく、結局は道徳による自制に頼るしかない。警察でさえ着席者を立たせることはできなかったが、当時は「問題行動の老婦人」を見逃す空気もなかったし、厚顔な若者は世間の非難を浴びた。動画が出回っていれば、責められたのは若者であって老婦人ではなかっただろう。だが今や「席を譲る」は主流価値ではなくなり、老婦人が道徳を楯に強制すれば、社会の反感を買う。「彼女にそんな権利はない」という反応が示す通り、彼女の論拠は弱く、蹴られた後でさえ「正義」を求める声は広がらなかった。
実利面でも、近くに空席があるのに他人の席を譲らせるのは無理筋だ。こうした「道徳ポリス」の振る舞いは、若者や周囲の反感を一層招く。本来バリアフリー席の趣旨は、善意やお願いに頼らず、制度で必要な人を支援すること、つまり「個人が助けを乞わなくて済む」設計にある。もし周囲に空席がなかったなら若者が譲った可能性はあるし、老婦人も「道徳ポリス」ではなく実際の座席需要に基づいて動いたと言えただろう。要するにこれは単なる利害衝突ではない。優先席が産む違和感の裏で、年齢や性別にかかわらず、強硬に「道徳」を行使しようとする少数派が確かに存在するという事実だ。こうして制度と現実の齟齬が、優先席という場で露出してしまうのである。