先週は「プラザ合意」署名から40年の節目だった。だが、日本経済を「死に至らしめた」真犯人は、いまもなお特定されていない。
1985年9月22日、米・英・仏・独・日の財務相と中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルで、為替市場に協調介入することで合意した。5カ国は協力してドルを売り、「秩序立ったドル安」を促す一方、円とマルクの上昇を容認。深刻化する米国の貿易赤字の矛先が日独に向けられるなか、為替調整(円・マルク高、ドル安)によって赤字是正を図ろうとしたのが、いわゆる「プラザ合意」だ。
歴史上、二国間・多国間の経済・金融協定や為替介入は数多い。だがプラザ合意は特別扱いされる。米国が「策略」で日本を叩き、日本経済を「失われたN年」に追い込んだ元凶だ、と語られがちだからだ。40年の節目に合わせ、当時を検証する論考が相次いだ点は、2008年の金融危機(一般にリーマン破綻の9月15日を起点とする)の「記念日」に似ている。
もっとも、プラザ合意が本当に「日本経済を殺した」のかについては、なお議論が尽きない。
まず当時のマクロ環境を振り返る。1980年代の日本はまさに最盛期。経済規模も平均所得も伸び続け、日本製品は世界を席巻した。ソニー、東芝は最先端企業の代名詞で、経営と生産効率ではトヨタが世界標準を作った。ハーバード大のエズラ・ボーゲル(原文引用の表記に準拠)が1979年に著した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、日本の隆盛を予見し、「アメリカ衰退」論にも火をつけた。
こうした潮流の中で1985年のプラザ合意が結ばれ、その後の資産バブル崩壊、いわゆる「失われた10年」から「失われた30年」へ――その出発点をプラザ合意と見なし、「日本を押さえ込んだ」のは米国だ、という物語が定着した。
この「前例」は、その後の米中間の「為替操作国」論争でも引き合いに出され、中国側では人民元の切り上げに反対する論拠として「日本の轍を踏むな」という主張が繰り返された。足元でも、台湾ドルの大幅高が話題になった際、国内で「プラザ合意の悪夢」が持ち出され、「失われたN年」への懸念が語られた。
確かに日本は1991年のバブル崩壊後、成長は断続的で、ゼロ成長とマイナス成長の間をさまよう時期が長かった。マクロ指標を他国と並べれば、「失われた」状況は明白だ。
1992年、日本の名目GDPは3.91兆ドル。米国の6.5兆ドルに次ぐ規模で、世界比15%、米国の約6割に達していた。平均所得でも、日本の3.6万ドルは(小規模な都市国家を除けば)世界上位で、米国の2.54万ドルを大きく上回る。香港・シンガポールの約1.8万~1.6万ドルの倍、台湾・韓国はまだ1万ドルに届かない水準だった。
それから33年。日本は先進国としての所得と生活水準を維持しているものの、相対比較では「空回りした」33年に見える。米国の経済規模は約29兆ドルへ拡大し、日本は約4兆ドルで米国の13%、世界シェアは3.6%まで縮小。米国の平均所得は8.5万ドルに達し、日本は3.25万ドル程度と大差がついた。かつて日本の2倍ほどだったシンガポール・香港の水準は今や約9万ドルと、日本は追尾すら難しい。台湾・韓国も日本を上回り、日本の一人当たり所得は世界3位圏から30位台へと後退した。