7月1日、中国の「民族団結進歩促進法」が施行された。外部からは、中国共産党が思想統制を世界に広げるための法的な外衣だとの見方も出ている。
その5日後、政治評論家の矢板明夫氏が台湾で暴力的な襲撃を受けた。台湾の大陸委員会(陸委会)は、中国共産党による越境弾圧事件と位置付け、初期捜査では香港の犯罪組織「和勝和」の関与も浮上している。
脅迫状や尾行、監視、ディープフェイクによる偽のポルノ画像、さらには身体的な暴力まで、手口はさまざまだ。しかし目的は共通している。標的となった人物を心身ともに疲弊させ、コミュニティーから孤立させ、最終的に活動を続ける能力を奪うことだ。
本特集では、各国・地域の関係者への5本のインタビューを掲載した。
台湾で起きた矢板氏への襲撃事件を起点に、英国に亡命した香港出身の劉珈汶氏、ニュージーランドの中国系独立ジャーナリスト、毛芃氏、カナダ下院議員の関慧貞氏、ヒューマン・ライツ・ウォッチのアジア局タイ担当上級顧問、スナイ・パースック氏の実体験を取り上げる。
中国共産党による組織的な弾圧は、どこまで広範かつ巧妙に及んでいるのか。越境弾圧を受けるリスクが高い人々は今、何に直面しているのかを検証した。
「中国はタイを自国の裏庭扱い」 人権活動家が越境弾圧に憤り 「実際、中国は以前からタイを自国の裏庭のように扱っている。中国は自ら誰でも逮捕しに来ることができるし、タイ側に汚い仕事をさせることもできる」
ヒューマン・ライツ・ウォッチのアジア局タイ担当上級顧問、スナイ・パースック氏は7月末、『風傳媒(ストームメディア)』英語版の取材に対し、タイで行われる中国の越境弾圧に強い憤りを示した。
最近も、タイ政府が北京に配慮し、中国政府に異議を唱える人々を中国へ送還する事態が繰り返されているためだ。
人権団体セーフガード・ディフェンダーズが2022年に実施した調査 によると、中国は世界5大陸に少なくとも54カ所の、いわゆる「海外警察サービス拠点」を設け、海外の華人コミュニティーの監視や威嚇に利用しているという。
報告書は、2021年4月から2022年7月までに、約23万人が圧力を受けて中国へ戻るよう迫られたと指摘した。
このうち、中国による越境弾圧は319件を占め、実行件数が最も多い国となっている。
報告書は特に、タイが中国やベトナムの当局と協力し、少数民族や異議活動家を拘束して送還するのを支援していると指摘した。
カナダへの渡航直前に出国を阻止 異議活動家の行方に懸念 ヒューマン・ライツ・ウォッチは7月中旬に声明を発表し 、中国の異議活動家を強制的に中国へ戻すべきではないと訴えた。声明によると、当時少なくとも4人が、バンコクのスアンプルー入管収容施設に収容されていた。
4人は、『財新』の元調査報道記者、白兆東氏(56)、チベットとウイグルの人権擁護活動に携わる譚翼翔氏(49)、法輪功の実践者で人権活動家の張信燕氏(56)、活動を禁じられている中国民主党のメンバー、周俊義氏(54)だ。
4人はいずれも国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から難民認定を受けている。
このうち張氏は、カナダ政府による再定住の受け入れが決まっており、7月8日にバンコク発バンクーバー行きの便でタイを出国する予定だった。
しかし、搭乗直前にタイ警察に拘束され、出国を阻止された。
この問題を注視しているカナダ・バンクーバー・イースト選挙区選出の下院議員、ジェニー・クワン(関慧貞)氏は取材に対し、張氏は国連から難民として認定され、カナダ政府も受け入れを決めていたにもかかわらず、カナダへ向かう直前に阻止され、現在も拘束されていると指摘した。
「すでに彼女の事案についてカナダ外務省に伝えており、安全に釈放され、無事にカナダへ向かえるよう、タイ当局と速やかに交渉することを政府に求め続けている」
クワン氏は、カナダが受け入れを約束した人々について、可能な限り保護する責任があると強調した。
いかなる難民も、外国政府からの政治的圧力によって、安全を得る機会を奪われてはならないと訴えた。
弁護士にも知らされず 譚翼翔氏を秘密裏に中国へ送還 タイのアヌティン首相が中国を訪問していた時期とも重なり、中国の異議活動家が、中国側への「手土産」として強制送還される可能性があるとの懸念も出ていた。
この問題を追っているパースック氏によると、その後タイ当局や人権活動に携わる関係者に確認したところ、譚氏はすでに6月、秘密裏に中国へ送還されていたことが分かった。
ヒューマン・ライツ・ウォッチが7月上旬に4人への支援を呼びかけた時点で、譚氏はすでに中国へ戻されていたことになる。
「事前に誰にも知らされなかった。彼の弁護士も知らず、国連機関や人権団体、私たちの誰一人として、彼が中国へ送還されたことを把握していなかった」
パースック氏によると、譚氏が中国へ送還された後の所在は分からず、今後の処遇も不明だ。
「私たちは何も知らない。彼の安否が新たな懸念となっている」
譚氏がどのような状況で中国へ戻されたのかも分かっていない。
「タイ当局から確認できたのは、彼がすでに入管収容施設におらず、中国に戻っているということだけだ」
タイ当局が正式に送還したのか、中国警察がタイ国内から直接連れ去ったのかについても、手掛かりはないという。
「彼らはいつ強制送還されてもおかしくない、差し迫った危険にさらされている。人権団体や国連機関、さらには他国の大使館でさえ、介入してタイ側を説得する機会を与えられない可能性がある」
「タイはますます危険に」 北京への配慮で人権上の義務を犠牲に 政治的な報復を受ける恐れのある中国人をタイが強制送還したのは、今回が初めてではない。
2015年7月、タイは国際社会の強い反対を押し切り、100人以上のウイグル族を中国へ送還した。
同じ年、中国の人権活動家である董広平氏と姜野飛氏もタイから強制送還され、中国で「国家政権転覆扇動罪」と「不法越境罪」により有罪判決を受けた。
董氏は2026年5月、ゴムボートを操縦して韓国へ渡り、カナダでの庇護が認められた。6月にはカナダに到着して家族と再会し、10年間に及ぶ逃亡生活を終えた。
2025年2月には、タイが再びウイグル族の男性40人を中国へ送還し、予測できない政治的迫害の危険にさらした。
「中国の異議活動家や、北京から指名手配されたり起訴されたりしている人にとって、タイはますます危険な場所になっている」
パースック氏は、亡命した社会運動家や出版関係者、民主主義や自由を求める活動家が北京から目を付けられ、タイで拘束される事例は少なくないと指摘した。
以前に中国へ送還されたウイグル族についても、その後の状況は分かっていない。
タイ政府は、送還されたウイグル族の安全を定期的に確認すると約束していたが、パースック氏は「政府は嘘をついている」と批判した。
タイ政府が面会したのは2、3回にとどまり、その後は追跡していないという。
「政府は、自分たちが面会したウイグル族が、実際にタイから送還した人々なのかどうかさえ、明確に説明できていない」
パースック氏は、タイ当局の対応を次のように批判した。
「北京を満足させるために、タイ当局がここまで自らをおとしめるとは思わなかった。自国の国際的な信用を犠牲にし、法律や人権上の義務まで犠牲にしている」
過去の報道によると、中国の人権活動家、向莉氏 は2018年、タイの入管収容施設で、中国人とみられる身元不明の人物から写真を撮られ、取り調べを受けた。中国当局者からも尋問されたという。
また、董広平氏 は、中国共産党が派遣した人物によってタイの入管収容施設から連れ去られたとされる。
海外の中国人権活動家は、こうした行為を中国による越境弾圧や違法な拉致だとみている。
「中国は基本的に、タイを自国の裏庭として扱っている。いつでも弾圧の手を伸ばし、誰でも標的にすることができる。タイ側もそれに協力する意思があり、タイが北京による弾圧活動の延長となっている」
中国が異議活動家を送り返す「3つのルート」 パースック氏によると、中国共産党が異議活動家を中国へ戻す手段には、大きく分けて3つのルートがある。
中国側がタイに対し、対象者は中国国民であり、中国へ戻さなければならないと正式に要請する。
対象者はタイで移民関連法への違反を理由に拘束され、その後、中国へ送還される。
過去の多くの事例では、中国側が、対象者はすでに起訴されたか有罪判決を受けており、有効な逮捕状が出ていると主張する。
「問題は、その容疑や有罪判決が、本当の刑事犯罪に基づくものなのか、それとも政治的な動機によるものなのかという点だ。私が確認した限りでは、このような事例の大半で、容疑や有罪判決には政治的な動機がある」
第一、第二のいずれのルートについても、タイには本来、国内の審査制度がある。
裁判所は国際基準やタイ国内法に基づき、送還や犯罪人引渡しに安全上、人道上の懸念がないかを審査できる。
「しかし残念ながら、タイの裁判所は、この重要な『門番』としての役割を果たそうとしない」
審査も保護も行われない状況では、中国とタイが誰かを中国へ送ることで合意すれば、それを阻止するための実効性のある仕組みは存在しないという。
「だからこそ、タイは中国の異議活動家にとって危険な場所なのだ」
第三は、秘密裏に行われる「チャーター機による移送」だ。
パースック氏によると、これは新たに現れた手法で、刑事司法・法執行協力の枠組みを利用する。
中国側は、タイと中国を往復するチャーター機やプライベートジェットを使い、表向きには詐欺や違法賭博に関係する犯罪者を中国へ移送するという。
「しかし、実際に誰が乗せられているかは分からない。異議活動家や難民を紛れ込ませることは、非常に簡単だ。こうした任務に使われる航空機は通常、軍用空港を発着するため、私たちには監視する方法がない」
送還禁止原則に違反 タイ国内の歯止めも機能せず 中国共産党による越境弾圧の事例を長年追ってきたパースック氏によると、入管収容施設が大規模に封鎖され、外部の人間が何日間も入れなくなった場合、タイ当局が大規模な送還を行っている可能性が高いという。
過去にウイグル族が大量に送還された際にも、同様の手法が使われた。
パースック氏は、どのような手段を使ったとしても、中国の異議活動家を中国へ送還する行為は、ノン・ルフールマン原則(送還禁止原則)に反すると批判した。
ノン・ルフールマン原則は、いかなる状況でも違反してはならない絶対的な原則だと説明する。
しかし重要な局面になると、裁判所を含む関係機関が、送還を阻止するための役割を果たさない。これは極めて深刻な問題だという。
タイ当局が批判を意に介さず、国内の歯止めも機能しない中、人権団体はなすすべなく事態を見守るしかない場合が多い。
どれほど調査や働きかけを続けても、最終的には送還を阻止できないこともある。
「私たちには、この事態を止める力がないように見えるかもしれない。しかし、それでも難民や亡命した異議活動家を守るための闘いをやめることはない。努力を続け、抗議することをやめない」
「国際法はノン・ルフールマン原則を明確に保障している。それでも、ウイグル人や中国の人権擁護者が国外へ追放された事例を含め、難民や異議活動家が送還、強制送還されるケースが繰り返されている」
こうした事例は、北京からの政治的圧力が、国際人権法に基づきタイが負う義務を侵食しているのではないかという深刻な疑念を生じさせると述べた。
難民がこれほど重大な危険にさらされている以上、国際社会は沈黙してはならないと訴えた。
インタビューに応じる、バンクーバー・イースト選挙区選出のカナダ下院議員、ジェニー・クワン(関慧貞)氏。(写真/クワン議員事務所提供)
ほとんど報じられないまま送還規則案を承認 越境弾圧を助長する懸念 パースック氏は、タイ内閣が7月初めに承認した規則案にも言及した。現時点では、ほとんどのメディアが注目していないという。「タイは史上初となる送還手順の策定を進めている。これによって中国共産党の越境弾圧が、さらに容易になるのではないかと懸念している。中国との協力をより進めやすくするために、この手順をつくっていると考えている」
パースック氏が提供した資料と、タイ政府広報のFacebookページ「PR Thai Governmen t 」が17日に発表した声明によると、タイ内閣は、パコーン・ニンラプン副首相が提案した「送還に関する首相府規則案」を承認した。
法令に違反した外国人の送還手続きを迅速化、簡素化することが目的だという。
声明は、現行制度には統一された行政送還手続きが存在しないとして、その不備を補い、国家安全保障と社会秩序をより効率的に維持するためのものだと説明している。
規則案では、次の6つのいずれかに該当する外国人が、迅速な送還の対象となる可能性がある。
合法的な許可を得ずにタイへ入国、または滞在した者 外国人就労関連法に違反して就労した者 外国人事業法に違反して事業を行った者 公文書を偽造、または虚偽の公文書を使用した者 法定刑が3年以上の拘禁刑となる犯罪を行った者 上記1~5の正犯、教唆犯または幇助犯 タイと中国は、法執行分野での協力を強化する姿勢を明確に示している。
人身売買、電気通信詐欺やオンライン詐欺、違法薬物の密売、違法賭博、マネーロンダリングなどの国境を越えた犯罪を一切容認しない姿勢で取り締まるとしている。
「双方は、法執行機関と司法機関の協力を強化するとともに、これらの課題へ効果的に対応するため、刑事事件における犯罪人引渡しと司法共助を強化することで合意した」としている。
東南アジアで影響力を拡大 広がる越境弾圧のネットワーク 中国共産党による越境弾圧は、タイだけで行われているわけではない。東南アジア全体に大規模なネットワークが築かれているという。
パースック氏は、中国の東南アジアにおける影響力が拡大するにつれ、越境弾圧の危険も深刻になっていると指摘する。
こうした国々では、国内の制度も機能せず、越境弾圧を抑止できない状態にある。
各国は、中国が指名手配した人物の追跡に協力し、国連から難民として認定された人を含め、亡命中の異議活動家を特定して拘束することができるという。
「誰も安全ではない。見つかれば拘束され、その後、中国へ引き渡される可能性がある。国際社会の人権に関する懸念や国際法は完全に無視されている。彼らは全く意に介していない。だからこそ、悲しく、恐ろしいのだ」
「促進法」がタイ政府による人権侵害の盾になる恐れ 7月上旬に中国で施行された民族団結進歩促進法(以下、促進法)についても、中国共産党による越境弾圧が強まるのではないかとの懸念が出ている。
「タイ政府がこの新法について中国側に異議を唱えたり、対抗措置を講じたりする兆候は全く見られない」
「実際、中国は以前からタイを自国の裏庭のように扱っている。中国は自ら誰でも逮捕しに来ることができるし、タイ側に汚い仕事をさせることもできる。しかし、この新法によって、すべてが合法であるかのように見えてしまう」
促進法は、タイ政府が批判や非難を受けた際の盾になりかねないという。
タイ政府が、「両国が合意した協力に基づく法律を実施しているだけだ」と主張する根拠になる可能性があるためだ。
パースック氏によると、タイの市民は、中国による介入や威圧的な振る舞いについて、以前よりも強く認識するようになっている。
「市民は、タイ側が中国に協力する姿勢に強い不満を持っている。リベラル系メディアやソーシャルメディアでは、すでに多くの批判が公然と出ている。批判はタイ政府、在バンコク中国大使館、そして北京に向けられている」
『風傳媒(ストームメディア)』英語版「The Storm Media」越境弾圧特集・Red Dragnet(レッド・ドラグネット)関連記事: