ウェブ漫画「脳外科医 竹田くん」が日本で大きな話題を呼んだ。脳神経外科医が関わる医療事故が相次ぎ、病院側の対応や医療安全体制が十分に機能しなかった経緯を描いた作品だ。ストーリーは、現実離れしたブラックコメディのようにも映るが、その背景には実際に起きた医療事故がある。
事件が起きたのは兵庫県の赤穂市民病院。病院側の調査によれば、同じ脳神経外科医は2019年7月に着任し、同年9月から2020年2月までの約5カ月半の間に、同医師が関わる手術で8件の医療事故が発生した。日本脳神経外科学会はその後、病院側が認めた8件を含む計11件を、問題点を総括すべき対象とした。
中でも重大な事案の一つが、2020年1月22日に起きた。当時74歳で、それまで歩行が可能だった女性が腰部脊柱管狭窄症の手術を受けた際、医師は医療用ドリルで腰椎の骨を削る過程で、十分な止血をしないまま、手術部位を十分に確認できない状態で処置を続け、神経を損傷した。
患者には術後、両脚に重度のまひが残り、その後の生活は大きく変わった。この女性の親族が、後に「脳外科医 竹田くん」の作者となった。
同じ医師が関わる医療事故が8件 なぜ止められなかったのか
院内資料や関連する調査の内容が明らかになるにつれ、この事件では一件の手術だけでなく、病院の安全管理体制がなぜ繰り返し十分に機能しなかったのかという問題も浮かび上がった。赤穂市民病院は後に、同じ医師が関わる医療行為で、2019年9月から2020年2月までの約5カ月半の間に計8件の医療事故が発生していたことを認めた。
病院側は検証の中で、事故報告の遅れや管理体制、医療安全の仕組みに問題があったことも認めており、より早い段階で問題を把握し、対応していれば、被害を減らせた可能性があるとしている。さらに、病院側がこの医師に手術の執刀や侵襲的検査を禁止した後にも、関連する医療行為が行われたとされている。病院側は記者会見で、手術室にいた他のスタッフもこうした措置を把握していたとの認識を示し、結果として医療行為を止めることができなかった点を問題として認めている。
その後の事故調査のあり方にも疑問が指摘された。一部の事案では外部専門家による十分な検証が行われず、院内で早い段階に開かれた検証会議には脳神経外科の専門家が加わっていなかった。
被害者の親族は「漫画にする」ことを選んだ
「脳外科医 竹田くん」の作者は後に自身の立場を明らかにし、2020年1月22日に発生した医療事故で重い後遺障害を負った女性患者の親族であることを公表した。作者によれば、事故後、さまざまな経緯を通じて当事者や医療関係者、その他の関係者から多くの情報を得るようになり、家族に起きたことが決して孤立した事例ではないと次第に気づいたという。
執筆を決意した背景には、このまま出来事が忘れられれば、次の被害者が出るのではないかという懸念があった。一方、公になっていない院内の事情をそのまま公開すれば、法的な問題が生じる可能性があるだけでなく、情報を提供した医療従事者に影響が及ぶおそれもあった。
そこで作者は、実際の出来事を架空の世界に置き換え、四コマ漫画として描く方法を選んだ。作者は、「脳外科医 竹田くん」は形式上フィクション作品で、登場人物や病院名などは変更されていると説明している。一方、作品で描かれる医療事故や院内での出来事の多くは、赤穂市民病院で起きた一連の事案を題材としているという。
制作にあたっては、報道記事や裁判資料、行政文書を確認するほか、実際に手術に携わった医療従事者を含む複数の関係者にも取材したとしている。
出版依頼はすべて辞退 現在まで作品を収益化せず
漫画が知られるようになると、日本のインターネット上で大きな反響を呼び、出版社からも出版の申し出が寄せられるようになった。しかし作者は、これまでの出版依頼をすべて断り、作品についても現在まで収益化していないと説明している。
その理由について、作者は、家族の被害を商品化することが作品を描いた目的ではないとしている。また、医療事故を「一人の医師の問題」として捉えるだけでなく、その背景にある組織や制度の問題についても社会に考えてほしいとの考えを示している。
そのため、漫画では被害者側からの感情的な描写を極力抑え、院長や上級医、医療安全部門などの病院関係者が問題にどのように向き合ったのか、あるいは向き合わなかったのかを多く描いている。
その結果、「脳外科医 竹田くん」は、単に「問題のある医師」を描く作品にとどまらず、組織が事故を防ぐ機能を十分に果たせなくなっていく過程を描く作品となった。
「竹田くん」のモデルとされた医師、発信者情報開示を請求
日本メディアで漫画の登場人物のモデルと報じられた医師は、漫画の一部が自身の名誉を毀損すると主張し、2023年、司法手続きを通じてインターネット事業者に発信者情報の開示を求めた。
東京地方裁判所は2024年に開示を認め、作者の氏名や住所などの情報が医師側に開示された。
その後も医師側から損害賠償請求訴訟などは提起されていなかったことから、作者は2025年3月、大阪地方裁判所に対し、漫画をめぐり名誉毀損を理由とする損害賠償債務が存在しないことの確認を求める訴訟を自ら提起した。
また、赤穂民報の報道によると、医師は作者らを名誉毀損などで刑事告訴していたが、神戸地検姫路支部はいずれも不起訴処分とした。
当初、実在の人物や病院をそのまま描かず、架空の漫画という形で発信していた被害者の親族は、作品が大きな注目を集めた後、自ら司法手続きに踏み切ることになった。
6年後、元執刀医に有罪判決
2026年、この事件は大きな司法上の節目を迎えた。
神戸地方裁判所姫路支部は、2020年に女性患者に重い神経障害を負わせた手術をめぐり、当時の執刀医について業務上過失傷害罪の成立を認め、禁錮1年、執行猶予3年の判決を言い渡した。
検察側、被告側の双方が控訴せず、有罪判決は確定した。
裁判所は、出血によって手術部位を十分に確認できない状態だったにもかかわらず、十分な止血措置を取らないまま医療用ドリルによる処置を続けたことが、患者の神経損傷につながったと認定した。
一方、判決では、手術を支える指導医とのチーム体制が十分に機能していなかった点についても、量刑上の事情として考慮された。
この点は、「脳外科医 竹田くん」が当初から問いかけてきた問題とも重なる。
もし最初の事故が起きた時点で病院が対応していたら。もし上級医が介入していたら。もし医療安全部門が十分に機能していたら。もし事故調査によって問題の所在が早期に明らかになっていたら。
その後の患者は、被害を受けずに済んだのではないか。