台湾・台北市長選の情勢が、沈伯洋(しん・はくよう)氏の「洋流」によって大きく変わりつつある。「洋流」は、沈氏の名前の一字「洋」にちなみ、その支持の広がりを海流になぞらえた呼び名だ。
当初、大きくリードしていた国民党の蒋万安市長に、民進党の台北市長候補、沈氏が急速に迫っている。
「洋流」の勢いが目立ち始めたきっかけの一つは、9月10日に沈氏が、国民党寄りとされるプロデューサー、王偉忠氏のラジオ番組に出演し、インターネット上で大きな反響を呼んだことだった。
さらに10月には、国民党系の政治グループ「戦闘藍」を率い、中国広播公司(BCC、中広)の元会長でもある趙少康氏が、8日間で2度にわたって沈氏にインタビューした。これが結果的に「洋流」の勢いをさらに後押ししたとの見方が国民党陣営内で広がり、蒋氏の選挙戦への圧力も強まっている。
趙氏の対応に反発する国民党支持者も少なくなく、国民党の江永雄・中央委員は署名を集め、国民党執行部に趙氏の除名を求める提案まで行った。
国民党内では、投票日まで40日という時期に党内対立を表面化させることは、選挙戦全体にとって不利益しかないとの認識が共有されている。まして趙氏はメディアで大きな影響力を持ち、国民党の候補者にとっても無視できない存在だ。
このため国民党執行部は早期に動き、江氏に提案を取り下げるよう求めるとともに、一連の動きは個人によるもので、国民党の立場ではないと説明した。
李乾龍・国民党秘書長は趙氏に電話で経緯を説明したほか、党規律上の問題はないと公に明言した。張善政・桃園市長や、国会議員に当たる複数の国民党立法委員も趙氏を支持する姿勢を示した。
蒋氏も趙氏と同席した際、自ら抱擁を交わし、両者の間にわだかまりはないことをアピールした。
ただ、国民党のある要人は取材に対し、選挙戦全体を考えれば趙氏との良好な関係を維持する必要がある一方で、国民党陣営内に趙氏への怒りや不満が実際に存在するのも事実だと明かした。
国民党のある要人は、国民党執行部が趙少康氏(左)による沈伯洋氏(右)へのインタビューを問題視しない姿勢を示す一方、党内には趙氏への強い怒りや不満が実際に存在すると明かした。(TVBS提供)
8日間で2度のインタビュー 国民党陣営で反発、趙少康氏は問題視せず この国民党の要人によると、県市長選はすでに正念場に入っており、国民党執行部や選挙対策組織には、候補者の選挙情勢を最優先し、必要であれば不満を抑える対応も求められるという。
しかし、それによって国民党の支持者が一連の経緯を問題視しなくなるわけではない。
同氏は、最も大きな影響を受けている蒋氏が、それでも姿勢を低くして趙氏に歩み寄り、趙氏の番組への出演を喜んでいるように振る舞わざるを得ない姿を見て、国民党支持層では蒋氏への同情が広がる一方、趙氏への反発も収まっていないと指摘する。
趙氏が「国民党執行部の立場はどうなのか」と問いかけたことについても、この人物は、党内からの批判を意に介さない強気な姿勢の表れだとみている。
趙氏が8日間で2度にわたり沈氏にインタビューしたことをめぐっては、趙氏に近く、事情を知る人物が「意図的に組んだものではなく、まったくの偶然だった」と説明する。
中広でのインタビューと、TVBSの番組「少康戦情室」で行われた台湾の6直轄市の候補者インタビューは、それぞれ別に日程が調整され、前後の関係はなかったという。
沈氏がTVBSの番組に出演した後、その反響の大きさを見た趙氏が中広での出演を新たに設定したとの見方についても、事実ではないとしている。
沈氏の趙氏のラジオ番組への出演は、「少康戦情室」でのインタビューより前にすでに決まっていた。ただ、TVBSでの出演日と中広側が調整していた日程が偶然近くなったため、8日間で2度にわたって沈氏を出演させ、意図的に「洋流」を後押ししたように受け取られたという。
趙氏自身は、一連の対応に問題はなかったと考えており、外部にこれ以上説明するつもりもないという。
ただ、この趙氏に近い人物によると、党内の一部から思いがけず批判を浴びたことに対し、趙氏は怒りと同時にやるせなさも感じているという。
国民党のある要人は、蒋万安市長が姿勢を低くして趙少康氏に歩み寄る様子を見た党の支持者からは、蒋氏への同情が広がる一方、趙氏への反発がさらに強まっていると指摘した。写真はイメージ。(陳昱凱撮影)
趙少康氏の沈氏インタビュー 国民党陣営は施明徳氏の「倒扁」と重ねる 一方、選挙支援の経験が豊富な国民党の元幹部は、趙氏が自身を批判した国民党寄りのコメンテーターに対し、「私はそんなに偉大なのか。1回のインタビューで、それほど大きな影響を与えられるのか」と反論したことについて、こう語る。
「影響は本当に大きい。蒋氏の選挙情勢に影響を与えたのも事実だ」
この元幹部は、趙氏は単なるメディア関係者でも一般の国民党員でもないと指摘する。
趙氏はかつて国民党を代表して副総統選に出馬し、「戦闘藍」を率いるほか、国民党陣営でも特にメディアへの発信力が強い政治家の一人だ。
この元幹部は、沈氏について、2025年に国民党の立法委員らを対象として展開された大規模なリコール運動を推進した人物として、国民党内に今なお強い反発が残っていると指摘する。
そうした沈氏が、国民党関係者に先んじて趙氏の番組に登場し、自らの主張を広く訴える機会を得れば、政治的な波紋が広がることは予想できたはずだという。
この元幹部は、2006年の陳水扁総統(当時)の退陣を求めた「赤シャツ運動(紅衫軍)」を例に挙げる。
当時、陳氏をめぐる汚職疑惑を受け、多数の市民が街頭に集まり、陳氏の退陣を求めた。
仮にこの運動を国民党の政治家が呼びかけていたならば、広範な中間層や民進党寄りの穏健層まで巻き込めただろうか。民進党側から「政党間の争い」と位置づけられ、広がりを欠いた可能性が高いと、この人物はみている。
この元幹部は、同じ構図が現在の沈氏にも当てはまるとみる。
「洋流」はもともと民進党支持層を中心に生まれた動きだったが、趙氏が「意図せず」施明徳氏と似た役割を果たしたことで、民進党寄りの穏健層や中間層、さらには国民党寄りの穏健層の一部にまで、「国民党陣営でも屈指の発信力を持つ趙氏も沈氏を一定程度評価している」との印象を与えたという。
沈氏が従来の支持基盤を越えて支持を広げようとしている中で、趙氏が結果的にその流れを後押しした形になったとの見方だ。
国民党側では、党の重鎮である趙少康氏が沈伯洋氏へのインタビューを先に行ったことについて、2006年に民進党の施明徳・元主席(中央)が率いた陳水扁総統(当時)の退陣を求める「赤シャツ運動(紅衫軍)」になぞらえる見方も出ている。(資料写真、AP通信)
国民党陣営「沈氏の出演日程を調整できたはず」と不満 国民党の選挙支援に関わる別の人物も、趙氏の対応に疑問を呈する。
趙氏が「メディア関係者として公平でなければならない」とする考え方自体は理解できるとしたうえで、国民党の重鎮としての立場にも配慮することは可能だったのではないかという。
この人物は、趙氏ほど選挙戦で豊富な経験を持つ人物であれば、蒋氏が番組に出演できない段階で沈氏を先に出演させれば、民進党支持層を中心とするネット上の論調によって、蒋氏が「逃げている」「検証を避けている」と受け止められかねないことは分かっていたはずだと指摘する。
一方の沈氏は、国民党陣営にとって象徴的な政治討論番組に出演し、「戦闘藍」を率いる趙氏からも一定の評価を受けた。
これによって、「洋流」が民進党の従来の支持基盤を越えて広がっているとの印象を与える可能性があったという。
趙氏がこうした選挙戦上の意味を理解していなかったはずはなく、それでも蒋氏に不利になり得る状況をそのままにしたことに、疑問が残るというのがこの人物の主張だ。
この選挙関係者は、趙氏が本当に国民党の選挙情勢に配慮するのであれば、出演に応じた沈氏側に対し、蒋氏が事情によりインタビューに応じられないため、公平を期して両氏の日程が合う時期まで調整すると伝えることもできたはずだと強調する。
10月中旬から下旬にかけて、まず蒋氏、その後に沈氏を出演させる形であれば、メディアとしての公平性にも反せず、同じ国民党の候補者にも配慮できた。そうすれば支持者からこれほど強い不満が出ることもなかっただろうという。
国民党の選挙支援に関わる人物は、豊富な選挙経験を持つ趙少康氏なら、沈伯洋氏(前列右)を先に出演させれば、「洋流」が民進党の従来の支持基盤を越えて広がっているとの印象を与えかねないことは分かっていたはずだと指摘。なぜ蒋万安市長(左から2人目)に不利になり得る状況をそのままにしたのかと疑問を呈した。(中央通信社)
番組視聴率低下と大手術 趙少康氏の心境に変化 関係者によると、沈氏陣営は、国民党寄りとされるメディアから出演の機会を得たことを歓迎し、番組側にも相応の協力姿勢を示したという。
8日間で行われた2度のインタビューは趙氏の番組に大きな注目を集め、関係するメディア側にも一定のメリットがあったとされる。この点では、蒋氏の陣営は沈氏側に及ばなかったとの見方もある。
国民党の事情に詳しい人物は、かつての趙氏であれば国民党陣営の立場を強く意識し、国民党支持者が中心となる視聴者やリスナーとの対立を避けていたはずだと話す。
その結果、「少康戦情室」の視聴率は一時大きく落ち込み、現在も完全には回復していないといい、趙氏の心境にも明らかな変化が生じたという。
この人物によると、趙氏が蒋氏を含む国民党候補を今も強く支持していることに疑いはない。
ただ趙氏自身は、これまで資金も労力も投じ、国民党のために負担の大きい仕事を数多く引き受けてきたにもかかわらず、それに見合う善意ある対応を受けてこなかったと感じているという。
「何の感情も抱いていないはずはない」と、この人物は話す。
今回の選挙では、趙氏はあくまでメディア関係者としての本分に戻り、政治的な影響を最優先には考えなかったにすぎず、「候補者は本来、自らの選挙戦に責任を持つべきだ」と考えているという。
さらに、この関係者によると、趙氏は大きな手術を受けた後、人生観にも変化がみられるという。
以前はテスラの電気自動車に乗っていたが、健康を回復した後、「人生は短く、何が起きるか分からない」と感じるようになり、高級車を購入して人生を楽しむようになったとも聞いているという。
今回、沈氏へのインタビューを組んだことにも、政党間の立場や政治的な陣営意識に以前ほど縛られなくなった趙氏の心境の変化が表れているのではないかと、この人物はみている。
事情を知る人物によると、趙少康氏(写真)は蒋万安市長を含む国民党候補を今も強く支持している。一方で、これまで資金や労力を投じて党を支えてきたにもかかわらず、十分に善意ある対応を受けられなかったと感じており、「何の感情も抱いていないはずはない」という。(資料写真、陳昱凱撮影)
「洋流」で台北に足止めの蒋万安氏 新北・基隆も楽観できず 国民党執行部にとって、趙氏を問題視する理由はなく、党規律による処分となればなおさら行き過ぎだ。
ただ、この一件が選挙戦にもたらした政治的な余波は、国民党陣営にとって無視できないものになっている。
国民党で選挙支援の要職にある人物によると、党の当初の戦略では、新北市と高雄市を重要な決戦地と位置づけていた。
台北市については安定して勝てるとの見方が強く、蒋氏は国民党内でも特に人気の高い政治家であるため、盧秀燕・台中市長と手分けして他の候補の応援に回れば、少なくとも台湾北部での波及効果によって、新北市の李四川氏の選挙戦を後押しできると考えられていた。
ところが「洋流」が、結果として国民党陣営内からの後押しも受ける形で、国民党が伝統的に強い台北市で勢いを増した。
不意を突かれた蒋氏は、情勢が厳しい他の県市を応援する余裕を失い、逆に国民党側が限られた資源を台北市に投入し、同市を確実に守る必要に迫られているという。
国民党内でも選挙に強いとみられてきた蒋氏さえ「洋流」に足止めされ、仮に大差をつけられず、さらには辛勝にとどまるようなら、「洋流」の影響が及ぶ新北市や基隆市についても、楽観できないとの見方だ。
退役軍人らを主要な支持基盤としてきた国民党の党内組織「黄復興」に属するある幹部は、趙氏の政治的な駆け引きや党内闘争の経験について、国民党陣営でも太刀打ちできる人物は多くないと批判する。
「趙氏が純粋に沈氏にインタビューしただけで、ほかに政治的な意図がないとは、到底信じられない」
さらに、趙氏の本当の狙いは、選挙後に鄭麗文・国民党主席の退陣を求める動きに向けた布石ではないかと強く疑っている。
国民党が台北市、新北市、桃園市、台中市の4直轄市で現在の政権を辛うじて維持できれば、鄭氏に批判的な党内勢力による退陣圧力も一定程度抑えられる可能性がある。
しかし、直轄市を一つでも失い、さらに彰化県、新竹県、宜蘭県など、現在国民党が首長ポストを握る県でも敗北が重なれば、鄭氏に批判的な党内勢力が一段と厳しい責任追及に動くとの見方を示した。
国民党の党内組織「黄復興」のある幹部は、趙少康氏(右)の真の狙いについて、選挙後に鄭麗文・国民党主席(左)の退陣を求める動きに向けた布石ではないかとの見方を示した。(資料写真、劉偉宏撮影)
敗北の責任は誰に 国民党、選挙後の「内戦」へそれぞれ布石 関係者によると、国民党執行部は中央委員による趙氏への非難や除名要求をめぐる騒ぎに対し、明確な立場を示して早期の収拾を図った。
一方、鄭氏を支持する勢力も、鄭氏に批判的な党内勢力が選挙前からすでに連携を進め、選挙後を見据えた動きを始めていることを把握しているという。
鄭氏に批判的な党内勢力は選挙後、蒋氏、盧氏、韓国瑜・立法院長ら国民党の有力者に圧力をかけ、県市長選で敗北した場合には鄭氏に責任を取らせ、退陣を求めるよう共闘を迫る構えだとされる。
その際には、「国民党が現在の親中路線を改め、対米関係を重視し、台湾防衛を前面に出す路線へ転じなければ、2028年総統選で勝機は残らない」と主張する見通しだという。
党内で鄭氏との関係が良好ではなく、政治理念も異なるとみられている趙氏について、鄭氏を支持するある人物は、その時が来れば、趙氏自身が積極的に動くにせよ、周囲から担ぎ出されるにせよ、必ず鄭氏の退陣を求める有力な勢力の一つになるだろうと認める。
ただ、鄭氏が自ら辞任する可能性は低いとみており、選挙敗北の責任を本格的に追及されるのであれば、「最後まで戦い、一つ一つ責任の所在を明らかにするまでだ」としている。
趙氏による沈氏へのインタビューをめぐって国民党内で起きた論争は、表面上は沈静化したように見えても、完全に収まったわけではない。
むしろ今回の一件は、選挙後に国民党内で表面化する可能性がある、より大きな権力闘争を先取りして映し出しているともいえる。