「ロビーは歩けないほどだったが、今は別のホテルのようだ」
山梨県富士河口湖町にあるリゾートホテルでは、かつて宿泊客の9割を中国人が占めており、毎年春節(旧正月)の時期になるとロビーは人で溢れかえり、チェックインに1時間以上待つのが常だった。同ホテルの運営責任者はメディアの取材に対し、「以前はロビーを歩くのも困難なほどだったが、今はまるで別のホテルになったかのようだ」と吐露した。昨年12月から今年2月までの3カ月間だけで、売上は数千万円減少したという。
大阪市中心部にある大型ホテルの現状はさらに深刻だ。昨年の春節期間中、中国人個人客によって約1,000室が満室となっていたが、同時期の予約数はわずか150室にとどまり、85%の激減となった。
この事態の引き金となったのは、日本の首相・高市早苗氏が2025年11月に国会で行った「台湾有事」に関する答弁である。中国外務省は直ちに日本への渡航自粛を呼びかける通知を出し、航空各社は日本路線を大幅に削減、旅行会社もツアーの募集を停止した。日本政府観光局(JNTO)のデータによると、2025年12月の訪日中国客数は前年同月比45.3%減となり、2026年1月には同60.7%減と急落した。
この日中間の地政学的リスクがもたらした観光業への後遺症は、単なる数字の増減にとどまらず、「観光外交」の本質を映し出す鏡となっている。
1兆8000億円の損失 数字の裏にある経済的打撃
野村総合研究所(NRI)のエグゼクティブ・エコノミスト・木内登英氏の試算によると、中国人客の渡航自粛が1年間続いた場合、日本の名目GDPは約1兆7900億円減少し、GDPの0.29%を押し下げる要因となる。さらに中国がレアアースの輸出規制を発動した場合、損失は4兆4300億円に膨らみ、GDPを0.73%押し下げると指摘している。
具体的に見ると、2025年第3四半期(7~9月)における訪日中国客の消費額は約5,901億円に達し、インバウンド(訪日外国人客)消費全体の27.7%を占めた。香港からの旅行者を加えれば、その割合は3分の1に達する。これらの資金は百貨店、ドラッグストア、飲食店、ホテル、交通機関はもちろんのこと、清掃業者やバス運転手、土産物店に至るまで、広範で緻密なサプライチェーンを潤してきた。
この消費の連鎖が断ち切られたことで、影響は多方面で表面化しつつある。
銀座三越、心斎橋大丸 百貨店の免税売上高が全面減
日本の四大百貨店(三越伊勢丹、高島屋、大丸松坂屋、阪急阪神百貨店)の2025年12月の免税売上高は、軒並み前年割れとなった。三越銀座店の免税売上高は前年同月比20.1%減、大丸心斎橋店は全館売上が6.4%減、阪急うめだ本店も6.7%の減収を記録した。
かつて百貨店の免税売上に占める中国人客の割合は、大丸松坂屋の2019年度データで最高85%に達していたが、現在は約66%まで低下している。高島屋もコロナ禍前の77%から56%に低下した。これらの数字は、百貨店業界における「脱中国化」が以前から静かに進行していたことを示しており、今回は政治的要因によってそのペースが加速されたに過ぎない。
三越伊勢丹ホールディングスの反応は比較的冷静である。「免税売上高に占める中国人客の割合はそれほど高くないため、この数字自体を悲観視していない」としている。一方、高島屋の社長・村田善郎氏は、東南アジアに展開する海外店舗のVIP顧客ネットワークを活用し、シンガポールなどの常連客を日本へ「送客」する方針を明らかにしている。
最大の被害者「中国人経営の民泊」
正規のホテル業者が受けた打撃は、想像よりも限定的だ。京都・嵐山のある旅館業者は日本経済新聞の取材に対し、「前日にキャンセルが出ても、すぐに新しい予約が入るため全く影響はない」と語った。京都商工会議所が2月に実施した調査でも、観光業者の67%が春節期間中「ほぼ影響はなかった」と回答しており、他国の観光客や国内旅行者が空室を埋めた形となっている。
第一に、日本国内で中国人が経営する民泊施設だ。近畿地方のあるホテル経営者はメディアに対し、これらの民泊は客層がほぼ中国人に限定されており、決済も中国の電子決済サービスで行われるため、資金が日本の実体経済に流入していないと指摘している。中国客が途絶えれば、売上は即座にゼロとなる。大阪市西成区で民泊を営む林伝龍氏はブルームバーグの取材に対し、「不動産や旅行業の知人は皆、頭を抱えている」と窮状を訴えた。林氏が運営する約80軒の民泊では、年末までに600組、1,000人以上の予約がキャンセルされたという。
第二に、中国国内の旅行会社である。日本側が契約や違約金の規定を厳格に適用しているため、中国の業者は日本のホテルに多額の違約金を支払わざるを得ず、この外交問題における最も直接的な経済的犠牲者となっている。
京都のホテル価格急落「過去に例のない値下げ」
京都市内のホテルでは「過去に例のない値下げ」が起きている。かつて1泊1万2,000円から1万4,000円で販売していたホテルが、現在は8,000円から9,000円まで価格を下げている。あるホテル従業員は日本テレビの報道番組『news zero』で、「本音を言えばもっと高く売りたいが、今は国内客を獲得するために価格を下げざるを得ない。これほどの値下げ幅は過去に経験がなく、非常に悔しい」と本音を漏らした。
他のホテルからはさらに悲痛な声が上がる。「価格競争が激化し、下げざるを得ない」「1泊3,000円台まで引き下げた」「昨年の今頃は満室だったが、今年はまだ空きがある」といった具合だ。
関西テレビの現地調査「売上が減少した店舗はわずか1割」
ホテルの値下げは深刻に映るが、観光現場の状況は本当にそこまで悲惨なのだろうか。
関西テレビの報道番組『newsランナー』が2025年12月5日に放送した特集が、興味深い実態を浮き彫りにしている。記者・秦令欧奈氏が大阪の心斎橋と京都で計20店舗を直接取材し、中国客減少の影響を調査した結果、売上が顕著に落ち込み大きな打撃を受けたと回答したのはわずか2店舗で、全体の1割にとどまったのだ。
心斎橋にあるたこ焼き店の店員は「中国客は半分以下に減ったが、韓国人観光客が増えたため大きな打撃ではない」と語る。人気おにぎり専門店「おにぎりごりちゃん」の代表・谷川翼氏も、「常に満席で、現時点で売上に影響は出ていない。ただし、中国客に特化したマーケティングを展開している飲食店は、今後苦境に立たされるだろう」と分析する。京都の老舗あぶらとり紙専門店「よーじや」の広報・東紗良氏は、中国客には一度に数万円を使う「爆買い」の傾向があったと認めつつも、「紅葉シーズンで国内旅行者が増えたため、売上はむしろプラス成長になっている」と明かした。
もちろん、全ての業者が無傷というわけではない。京都の着物レンタル店の経営者は、以前は客の半数を中国人が占めていたとし、「1カ月で約300万円の減収だ。明日どうすればいいのか分からない」と苦笑交じりに語った。
同番組で解説を務めた京都大学大学院の教授・藤井聡氏は、「20店舗中9割が『影響なし』と答えた事実は、これまでがオーバーツーリズム(観光公害)の状態にあったことを示している。中国客が来なくなったことで、これまで入店できなかった客が席を埋めたため、売上が変わらないのは当然だ」と鋭く指摘している。
つまり、中国客の減少は関西の観光を「崩壊」させるどころか、皮肉にもオーバーツーリズムが深刻な人気エリアでは需要が供給を大きく上回っており、一部の客層が抜けてもすぐに別の客層が穴を埋めるという事実を明らかにした。本当に深刻な打撃を受けたのは、客層を中国市場に「全振り」していた特定の業者だけである。
福岡・太宰府の春節は閑散「声はいいが、顔出しはNG。今は異常な時期」
舞台を九州に移す。テレビ西日本(TNC)の記者が福岡県の太宰府天満宮を取材したところ、参道は相変わらずの人出だったが、店舗側の見解は一致していた。「台湾人や韓国人は見かけるが、中国大陸からの観光客は全くいない」という。ある傘専門店は、以前はクルーズ船で訪れる中国客が多かったが、最近ではクルーズ船の乗客も韓国人が大半を占めるようになったと話す。
別の中国人観光客はより達観しており、「国家の政策問題について、私たち一般市民は自分の生活に専念するだけだ」と語った。その一方で、「日中関係」という言葉を聞いた途端、無言で背を向けて立ち去る観光客もいた。
最も痛ましい光景は、福岡市内で中国からの団体客を専門に扱う旅行会社に見られた。「日中友好旅行社」の代表・高尾淑江氏がめくった2月の予約台帳は、ほぼ白紙状態だった。「これを見てほしい。本当に仕事がない。苦しい。仕事がなければ収入もない。大変困惑している」。このような状態が約3カ月続いているという。知人の旅行会社でアルバイトをしながらどうにか食いつなぎ、最近ようやく4月の新規予約を獲得した。「これまで以上に丁寧に旅程を作り、4月以降は団体旅行が回復してほしい」と胸をなでおろした。
同じ嵐の中で、なぜ無傷の者と倒産寸前の者がいるのか
関西テレビが取材した20店舗中9割が「影響なし」と答え、京都商工会議所の調査でも67%が「ほぼ無風」と回答した。しかし、富士河口湖のホテルは売上が「壊滅的」であり、福岡の旅行会社は3カ月間予約ゼロ、大阪の民泊業者は1,000人分の予約が蒸発した。
同じ「中国客激減」という状況下で、なぜこれほどまでに影響の格差が生じるのか。その答えは、以下の5つの構造的要因に隠されている。
第一に、客層の「濃度」が脆弱性を決める
富士河口湖のホテルは客の9割が中国人であり、福岡の日中友好旅行社は100%中国団体客に依存していた。彼らにとって、中国客は「唯一の市場」であった。対照的に、大阪・心斎橋のたこ焼き店や京都の「よーじや」にとって、中国客は多様な外国人客の一部に過ぎず、不足分は直ちに韓国や東南アジア、欧米からの観光客で補われた。これがリスク分散と一極集中の決定的な違いである。
第二に、「団体客」と「個人客」は全く異なるセグメントである
中国政府の渡航自粛令が最も直接的な打撃を与えたのは団体旅行だ。旅行会社は集客停止を命じられ、航空会社は減便し、違約金は中国業者が負担した。しかし、2025年時点で団体旅行は訪日中国客の約11%に過ぎず、9割は個人旅行(FIT)である。個人客はツアーに参加する必要がなく、旅行会社を介さずに航空券さえ買えば出発できる。政策は旅行会社を統制できても、個人の意志までは止められない。
第三に、消費エコシステムの「閉鎖性」がカギとなる
在日中国人が経営する民泊は、客層がほぼ中国人に限られ、決済もWeChat Pay(微信支付)やAlipay(支付宝)で行われるため、資金が日本の銀行システムにすら入らない。これは完全な閉鎖回路であり、中国側の蛇口が閉まれば、パイプ全体が干上がる。対照的に、正規のホテルはBooking.comやAgodaなどの国際的なプラットフォームを通じて予約を受けるため、客層は必然的に多様化する。前日に中国客がキャンセルしても、その夜にはオーストラリアの家族連れが予約を入れる可能性がある。
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第四に、地理的条件が「代替需要の弾力性」を左右する
京都、大阪、東京といった一級の観光都市は、もともと世界中の旅行者の目的地であり、中国客が減っても他国の観光客がすぐに穴を埋める。しかし、富士河口湖や愛知県蒲郡市など、主に中国の旅行会社の「送客」に依存してきた地方の観光地は、自力で他国の観光客を惹きつける訴求力に乏しく、代替需要は自然には発生しない。
第五に、業態自体の「代替可能性」が異なる
たこ焼き、おにぎり、あぶらとり紙といった商品は国籍を問わず、誰が来ても購入する。しかし、着物レンタル体験店の客層は中国の女性客に極度に集中している(SNSの「小紅書(RED)」での「京都着物写真」ブームが産業全体を牽引していた)。この層が消失すれば、他国の観光客の需要だけでは到底カバーしきれない。
この「日本渡航制限」は、一つのストレステストのようなものである。平時はどの業者も利益を上げているように見えるが、その実、企業の体力には雲泥の差がある。客層が多様で、国際的な予約プラットフォームを活用し、一級観光地に位置する業者はほぼ痛手を負っていない。一方、中国市場に深く依存し、団体客に頼り、閉鎖的な決済エコシステムの中でビジネスを展開していた業者は、一夜にして全ての売上を失った。
本質的な問いはただ一つ。「あなたのビジネスモデルは、一つの市場が突然消失しても持ちこたえられるか」ということだ。
「観光公害」の予想外の緩和?京都住民の複雑な心境
中国客の減少は、別の側面にも変化をもたらしている。
記者が京都市営地下鉄を利用した際、「以前は至る所で中国語が聞こえたが、今は全く聞こえない」ことに気づいた。かつて観光客で埋め尽くされていた木屋町通や嵐山の竹林も、現在は人出が明らかに減少している。代わりに目立つのは東南アジアや欧州からの観光客で、彼らの消費行動はより分散化し、滞在時間も長い傾向にある。
日本のSNS上では「観光公害が解消された」といった声が散見される。しかし、『東洋経済』の分析は、これが感情論に過ぎないと指摘している。2024年の日本国内の延べ旅行者数は5億4,000万人に達する一方、インバウンド客は3,687万人と、全体の6.4%未満に過ぎない。オーバーツーリズムの根本的な原因は、週末や連休における国内旅行者の集中であり、外国人客は年間を通じて分散して訪れるため、むしろ需要の平準化に貢献しているという。
それでも日本を訪れる中国人「真の日本ファン」が塗り替える観光地図
大きな波が引いた後でも、流れに逆らって訪日する中国人観光客の層は確実に存在している。
この潮流は、政治的摩擦が表面化する前からすでに形成されていた。2015年に42.9%を占めていた訪日中国客の団体旅行比率は、2025年第2四半期には11%まで低下し、9割が個人旅行となった。「小紅書」などのSNSで入念に情報収集を行い、温泉旅館での「1泊2食付き」の体験や、地方の祭りの熱気、あるいは路地裏に佇む隠れ家的なラーメン店を求めて足を運んでいる。
中国客の消費スタイルは現在、「ダウングレード(消費の格下げ)」を経験している。韓国では、2025年の中国人客数がコロナ前の9割まで回復したにもかかわらず、免税店の売上は低迷が続いている。高級ブランド店に代わり、低価格帯のディスカウントストアが中国客の新たな人気スポットとなっている。日本でも同様の現象が起きており、百貨店の化粧品カウンターが閑散とする一方で、ドラッグストアや量販店は堅調な客足を維持している。
台湾への示唆 観光が地政学的ツールとなる時
台湾の人々にとって、「中国客の断崖」は決して見知らぬ現象ではない。2016年に民進党政権が発足した後、前年に418万人に達していた訪台中国人数は激減し、墾丁、日月潭、阿里山といった中国客の定番観光ルートに甚大な打撃を与えた。日本が現在直面している事態は、台湾が10年近く前に経験した道のりそのものである。
この2つの事例が示す共通の教訓は明確だ。「観光産業の客層が単一市場に過度に集中していること自体が、システム上の重大なリスクである」ということだ。
そして、数字の背後でより注目すべき変化は、「政治状況に関わらず訪れる」若い中国人観光客の存在である。彼らが求める体験型・深掘り型の観光は、まさに台湾の観光産業が長期的に取り込もうとしてきた客層に他ならない。中国客が銀座の爆買いから東北地方の小さな町へ、団体ツアーから個人の深い体験へとシフトしている現象は、日本の物語であると同時に、東アジア全体の観光市場における構造転換の縮図でもあるのだ。