「シンガポール・ウォッシング(Singapore Washing)」とは、国際犯罪組織が成熟させてきた手口で、シンガポールの金融機関やファミリーオフィス制度、法規の抜け穴を利用し、不正資金に表向きの正当性を付与する仕組みを指す。企業もこの枠組みを使って“正規の看板”を掲げることができる。表面上はクリーンな資金、健全な事業、慈善活動のイメージ——しかし実際には、背後で搾取・詐欺・人身売買を覆い隠すための装置である。この戦略が最も露わになったのが、カンボジアの太子グループ(プリンス・ホールディング・グループ )の事例だ。
太子グループの台頭と世界的詐欺ネットワーク 創業者の陳志氏は中国・福建の出身で、その後カンボジアに帰化し、同国の政財界で存在感を高めた。近年、同グループは不動産や資産運用を“外衣”として、東南アジア発で四大陸にまたがる詐欺ネットワークを構築してきた。
米司法省は10月中旬、陳氏を起訴 。巨大な多国籍オンライン詐欺組織を主導したとして追及し、ビットコイン資産150億ドル(約2兆2,700億円)超を押収した。英国政府も、ロンドンで陳氏名義の不動産19件(豪邸やオフィスビルを含む)を凍結している。
もっとも、この帝国の“合法化ハブ”はカンボジアでも英国・米国でもなく、シンガポールに置かれていた。ワシントン・ポストの調査 やブルームバーグの報道 によれば、太子グループはシンガポールの商法と法制度を梃子に、資金の漂白メカニズムを丸ごと組み上げていた。こうして不正資金は一見正規の金融取引に紛れ込み、企業評価や法の隙間を通って国際金融システムに流入。資産保全と法的“覆い”を得るに至った。
シンガポールの金融制度がカンボジアのプリンスグループにどう利用されたかを検証したとする『ワシントン・ポスト』の特集ページ。(スクリーンショット/ワシントン・ポスト公式サイト)
シンガポールはいかに「漂白ハブ」となったか シンガポールの役割は資金の通り道にとどまらない。太子グループは現地で高級コワーキングスペースを借り上げた段階から、周到なイメージ戦略を敷いていた。場所は一般的なビルの8階。ビリヤード台、カラオケ、シガーバーまで備え、表向きは企業交流スペースだが、実態は十数社の登記住所——マネーロンダリングや資金源隠しに使われる“受け皿”だった。これらの会社やファミリーオフィスは、シンガポールの「 13X 」税制優遇プログラムを通じ減税資格を得て、資金の違法性をさらに覆い隠した。
13X税制プラン
現地で「13U」として知られる本制度は、シンガポール金融管理局が単一家族オフィス向けに用意した基金の税優遇スキーム。少なくとも5,000万シンガポールドル(約58億5,000万円)を運用する基金が対象で、要件を満たせばキャピタルゲインや一部投資収益の課税が免除される。シンガポールを拠点に専門人材を雇用し、国内で一定の支出を行うことが条件で、高所得世帯の資産をシンガポールで管理・投資する誘因を高める狙いがある。
資料:シンガポール金融管理局(MAS)
その一つが資産運用会社DW Capital Holdings(DWC)で、2018年設立、運用資産は6,000万シンガポールドル(約70億2,000万円)超。同社CFOの陳秀玲(Karen Chen Xiuling)氏は、米国の制裁対象に指定された3人のシンガポール人の一人だ。シンガポール『聯合早報(Lianhe Zaobao)』によれば、陳氏は同時にシンガポール取引所上場のライブ配信プラットフォーム17LIVEの独立取締役でもあったが、米国の制裁公表後に辞任を発表。同社も彼女および関連企業との取引はないと説明した。
こうした「切り離し」は珍しくない。弁護士によると、仮に国内法に抵触しない取引でも、米国金融システムとの接点があればコンプライアンス上のリスクは残る。このため銀行が関連口座を自主凍結したり、融資の前倒し返済を求めたりすることがある。高度に結び付いた国際金融の下では、「連座リスク(guilty by association)」が企業・機関にとって最大級の不確定要因になっている。
法律事務所から取締役会まで 現地機関の「支援」と距離取り 資金・税務面に加えて、太子グループはシンガポールで「専門性の外観」を整える体制も構築していた。『ワシントン・ポスト』の調査によれば、同グループは長期にわたり現地法律事務所Duane, Morris & Selvam LLPを代理人に起用し、報道対応や法的威嚇を担わせていた。同事務所は太子グループと連名で、自由アジア電台の報道に反論する声明を出したほか、今年半ばにはハーバード大学客員研究員のJacob Sims氏に法的通知を送り提訴を示唆。Sims氏は太子グループと東南アジアの詐欺拠点の関係を追ってきた研究者の一人だ。同事務所は後に、太子グループの代理から既に外れていると説明したが、終了時期は明らかにしていない。
企業の包装の裏にあるのは、徹底的に「産業化」された搾取のチェーンである。米検察によれば、陳志氏のグループはカンボジア、ミャンマー、ラオスなどに大規模詐欺拠点を設置し、各国から誘い出した被害者に詐欺業務を強要。SNSで偽の恋愛関係を築かせ、投資や暗号資産の詐欺へと誘導する。命令に従わなければ体罰や絶食、電撃などの虐待が待つ。もはや散発的犯行ではなく、精密分業で効率化された地下産業だ。
この仕組みを支えるのは、政商ネットワークの「傘」だけではない。国際金融の中に存在する合法的な抜け穴の活用も鍵だ。カンボジアで陳氏は「Neak Oknha(ネアック・オクニャ、公的称号で“公爵”に相当)」の称号を得た有力実業家で、内務省やフン・セン親子の顧問を歴任。パラオでの島嶼投資案件、英米での資産運用など、同グループが各国で権力と資源を動員してきた様相が浮かぶ。そこにシンガポールの金融安定性と比較的寛容な制度が加わり、違法収益の円滑な循環が可能になっていた。
プリンスグループの陳志氏(左)とカンボジア前首相の洪森氏(右)。(写真/Prince Bank Plc.公式Facebook)
制度リスクは未解消 シンガポール・ウォッシングが常態化する懸念 米英が連携して制裁・訴追に踏み切ったのを受け、ようやくシンガポールとタイ当局が調査に着手。シンガポール金融管理局(MAS)はDWCなどを対象に調査を開始し、国内法違反の有無を厳正に見極めるとした。同時にタイ司法省も、太子グループの現地での資金洗浄や共同詐欺関与の疑いを調査し、外交ルートで資産回収を目指す考えを示した。
カンボジア太子グループの一件は、シンガポール制度に対する国際的な「ストレステスト」である。制度的リスクに向き合い国際的防波堤を強化できるのか、それとも犯罪組織に「漂白の玄関口」として使われ続けるのか、世界が注視している。
もっとも、シンガポールが国際制裁案件に巻き込まれるのは今回が初めてではない。近年も郭啓勝氏、陳偉銘氏らが北朝鮮関連の不正取引や資金洗浄で米国に手配され、国内で起訴・処分に至った例がある。『聯合早報』は、こうした案件がシンガポールの国際的信用を実害レベルで損ないうると指摘し、制度上の脆弱性に対する厳正な対応を当局に促している。