台湾の洪申翰労働部長は9月21、22日、中国・南京で開かれるアジア太平洋経済協力(APEC)人材開発担当大臣会合(HRDMM)に出席する予定だ。実現すれば、頼清徳政権発足後、閣僚級の政務官として初めて中国を訪れることになる。
この一報が伝わると、各方面で洪氏の身の安全や国家安全保障上のリスクをめぐる議論が相次いだが、当の本人はいたって落ち着いた様子だ。記者団から相次いで質問を受けても、外交部や大陸委員会の助言に従って対応するとした上で、「我々はこの件を心配していない」と述べるにとどめた。
実際、2026年にはすでに複数の台湾当局者がAPECの枠組みで中国を訪れており、江文若・経済部次長や前行政院経貿談判弁公室総交渉代表の楊珍妮氏らがその例だ。
しかし、これまで中国を訪れた当局者と比べ、かつて民進党立法院党団の幹部を務めた洪氏は政治色が強く、台湾が「正常な国家」になることを望むと公に表明したこともある。民進党の前線を担ってきた洪氏は、なぜリスクを引き受けてまで自ら中国の地を踏むのか。
頼清徳総統(写真)の政権下では、2026年にすでに複数の当局者がAPECの枠組みで中国を訪れており、江文若・経済部次長や前行政院経貿談判弁公室総交渉代表の楊珍妮氏らがその例だ。(資料写真/柯承惠撮影)
洪申翰氏、かつてチベット人権団体と「団結して中国に対抗」 両岸が別々に誕生日を祝うのが「二国論」と発言 洪氏は環境保護団体出身で、これまでの政治活動は環境、エネルギー、労働者の権利に集中しており、統一・独立をめぐる問題に自ら踏み込むことは少なかった。中国から「頑迷な台湾独立分子」として名指しされたこともない。
ただし、「頑迷な台湾独立分子」リストに名を連ねる時代力量の陳椒華・元立法委員は、洪氏の古くからの盟友だ。二人は街頭活動から立法院まで、ともに環境関連政策を推進してきた。
2020年、洪氏は民進党の比例代表立法委員となった。国会では政策論述の能力に優れ、与野党の攻防でも臆せず発言する姿勢を見せ、当時の民進党立法院党団総召集人だった柯建銘氏の信任を得て党団副幹事長に就任し、民進党の前線を担う一人となった。両岸関係の問題に直面しても、避けることはなかった。
洪氏は両岸関係をめぐる主張を看板に政界入りした人物ではないものの、中国から見て単なる「技術官僚」というわけでもない。
2020年12月、世界人権デーを前に、洪氏は「台湾国会チベット連線」などの人権団体とともに立法院前で記者会見を開き、「人権の頑固分子よ、団結して中国に対抗しよう」と声を上げた。当時、洪氏は世界の人権を前進させるために、まず対抗すべきなのは中国共産党政権だと明言していた。
2024年の国慶節を前に、馬英九・前総統は頼清徳総統が「新二国論」を打ち出したと批判し、これを理由に国慶式典への出席を拒否した。
さらに、「互いにきちんと誕生日を祝っている」という行動上の事実こそが「二国論」だと言い切った。
洪申翰氏は環境保護団体出身で、2020年に民進党の比例代表立法委員に就任し、民進党の前線を担う一人となった。写真は2020年、「台湾国会チベット連線」と記者会見を開いた洪氏。(資料写真/盧逸峰撮影)
民進党内で一時「彼は何をしに行くのか」の声も 頼清徳氏が洪申翰氏の訪中を了承 かつて「二国論」を臆せず語っていた洪氏が、今度は労働部長として中国の地を踏むことになる。
実のところ、南京は洪氏が検討していた唯一の中国での日程ではなかった。第48回技能五輪国際大会が9月22日から27日にかけて上海で開催される予定で、時期は南京で開かれるAPEC人材開発担当大臣会合とちょうど重なっていた。
労働部内の関係者によると、歴代の労働部長がこの大会に自ら足を運び、台湾代表選手を応援してきた経緯を踏まえ、洪氏も当初は前例に倣って上海行きを真剣に検討しており、当時は「そこまで大きな危険はないだろう」と考えていたという。
ただ、洪氏の上海行き構想が持ち上がった際、総統府・行政院内部が当初から何の懸念も抱いていなかったわけではない。
民進党内の関係者によれば、一時は「彼は何をしに行くのか」と疑問視する声もあったという。
一方、洪氏が前例に従って出席することには「職業・技能教育を重視し、選手を支援する」という正当な理由があり、大会そのものの政治的な敏感度も比較的低かった。
数回の協議を経て、総統府・行政院首脳陣の態度は次第に軟化し、頼清徳総統も洪氏の訪中を了承した。
「何もかもを極限まで遮断するわけにはいかない」と、民進党内の関係者は語る。
両岸関係が緊張する中でも、政府はリスクが比較的コントロール可能な場を探し、双方が接触・交流できる可能性を見極める必要がある。技能五輪国際大会は政治性の比較的低い場を提供しており、党内の一部関係者の目には「最も安全なテスト」と映っていたという。
第48回技能五輪国際大会は中国・上海で開催される予定で、洪申翰氏は当初、前例に倣って現地を訪れ、台湾代表選手を応援することを検討していた。写真は第47回大会で金メダル1個、銀メダル1個、優秀賞3件を獲得した台湾代表選手。(資料写真/労働力発展署北分署提供)
国台弁が「一つの中国原則」を主張 洪申翰氏、上海行きを取りやめ ところが、洪氏の上海行き構想が事前に報じられると、北京は動いた。
8月19日、中国国務院台湾事務弁公室(国台弁)の朱鳳蓮報道官は、台湾側関係者の大会参加について、「一つの中国原則」と覚書の規定に基づいて処理すると公に表明した。
関係者によると、国台弁の「一つの中国原則」という一言が、民進党政権の当初の構想を狂わせたという。
労働部内では、技能五輪国際大会には年齢制限があり、多くの選手にとって一生に一度しか立てない舞台となる可能性があること、国内での準備や模擬試合から本番出場まで、すべての段階に多大な労力が注がれていることを考慮した。
洪氏の訪中によって政治問題が生じれば、本来選手のものであるはずの舞台を奪いかねないとの懸念があった。
「もし他の国であれば、それほど大きな問題にはならなかっただろう」と労働部関係者は語る。
そうなれば、本来主役であるべき台湾代表選手が、両岸の政治的な話題に埋もれてしまうことになる。
洪申翰氏が上海訪問を検討しているとの情報が事前に伝わると、中国国務院台湾事務弁公室(国台弁、写真)は先に動き、朱鳳蓮報道官が「一つの中国原則」を打ち出した。(資料写真/中央社)
APECの枠組みで訪中 洪申翰氏は「台胞証」を使用せず 民進党内の関係者によると、洪氏が上海を訪れるとなれば、「台胞証」を申請し、使用するかどうかという問題に直面することになる。
とりわけ中国の関連する出入境規定は9月15日に施行され、中国公民が輸出管理規定に違反した場合、出境を禁止される可能性がある。大陸委員会もかねてより、「台胞証」を取得すれば、中国側から「中国公民」とみなされると警告してきた。
関係者によれば、省庁横断的な検討の過程で、大陸委員会は洪氏について、APECの枠組みで中国を訪れればよく、大会単独の名義で訪問するべきではないと提案していたという。
最終的に、上海の技能五輪国際大会には労働力発展署長が代表団を率いて出席することとなり、洪氏はAPECの既存の枠組みに沿って南京の人材開発担当大臣会合に出席することが決まった。
中国が近ごろ出入境規定を厳格化する中、台胞証の所持者についても北京側は「中国公民」とみなす立場を取っているとして、大陸委員会は洪申翰氏にAPECの枠組みでの訪中にとどめるよう提案した。写真は邱垂正・大陸委員会主任委員。(資料写真/柯承惠撮影)
中国、2026年APEC開催に向け規範順守を約束 台湾は友好国と連携し不利益な扱いを警戒 台湾メディア『風傳媒(ストームメディア)』が把握したところによると、洪氏の今回の訪中は、9月21、22日に南京で開かれる「人材開発担当大臣会合」への参加のみにとどまる。
高速鉄道でわずか1時間の距離にある上海へ移動し、9月22日から27日に開かれる「第48回技能五輪国際大会」に出席することはない。
その理由は、台湾側と北京側の共通認識に基づき、APECの枠組みの下ですべての規定と慣例に従い、入出境は「団体で入り、団体で出る」形を取り、滞在中はAPEC関連会議にのみ参加し、現地でそれ以外の活動は行わないことになっているためだ。
関係者によると、台湾がAPECに加盟して以来、2026年は中国が開催を担う3回目の年となる。台湾当局者が中国で開かれる会議に出席した前例もあり、北京側とも「台胞証による入境は絶対に受け入れない」という共通認識があるという。
また、中国は2026年APECの開催を目指す過程で、APEC関連規範を順守し、すべての出席者の身の安全を確保すると約束していた。一方で、参加者には中国の現地法規を順守するよう求めている。
台湾側は友好国と連携し、政治的な前提条件を設けたり、不利益な扱いをしたりしないよう、引き続き北京側にメッセージを伝えている。
事情に詳しい関係者によると、現時点で中国側は既存の規範を順守することについて前向きな反応を示しており、これも総統府・行政院が洪氏の訪中を了承した重要な前提の一つになっているという。
中国は2026年APECの開催を目指す過程で、APEC関連規範を順守することをすでに約束していた。写真は中国の習近平国家主席。(資料写真/AP通信)
英雄か、それとも捨て駒か 洪申翰氏「最近、食事に誘われることが増えた」 台湾と中国の双方が互いに情勢を見極めている状況でもあり、それゆえ民進党内にはなお不安を拭えない人もいる。
関係者によると、洪氏と親しい党内の友人は内々に懸念を示し、国家安全保障当局にもこの訪問を改めて評価するよう働きかけたという。
洪氏は9月1日、公開の取材対応を終えてその場を立ち去ろうとした際、そばにいた記者から「頑張ってください」と声をかけられた。
洪氏は足を止め、笑みを浮かべながら数秒考えた後、「最近、食事に誘われることが増えた」と悠然と答えたという。
関係者によると、民進党内でも洪氏を冗談交じりにからかい、「歯を食いしばって、どんなデザートにも手を出すな」と言う者もいたという。
半分冗談めかしたこの忠告からも、中国の地に足を踏み入れることに対し、民進党関係者が完全には警戒を解けずにいる様子がうかがえる。
一方、別の民進党関係者はこの南京行きを「良い一手」だと評する。 台湾側がすでに率先して善意を示した以上、ある意味で「行っても行かなくても好都合」だという。
洪氏が無事に南京入りし、会議に最後まで参加できれば、両岸関係が緊張していても、APECの多国間枠組みの下では双方が接触できることを意味し、将来、台湾当局者が中国で開かれる国際会議に参加する余地を残すことになる。
反対に、北京側が阻止に出れば、その国際的な評判に影響を及ぼすことになる。
洪申翰氏本人は訪中に伴うリスクを理由にひるむ様子を見せていない一方、党内の親しい友人らは強い懸念を示し、国家安全保障当局に今回の訪問を改めて評価するよう働きかけたという。(資料写真/中央社)
街頭から政府へ 洪申翰氏「立場が変われば発想も変わる」 周囲が冷や汗をかく一方、洪氏本人にひるむ様子はない。 洪氏と親しい民進党内の関係者は、「彼はもちろん行く度胸がある。何も恐れることはない」と見ている。
関係者によれば、洪氏は労働部長としてAPEC人材開発担当大臣会合に出席することに抵抗はなく、政治的リスクを理由に後ずさりすることもなかったという。
民進党内の関係者は、市民団体や立法委員だった時期に最前線で動いていた頃と比べ、洪氏は部長就任後、一段と慎重に振る舞うようになり、各種の決定について対外的な説明はぎりぎりまで控えるようになったとみている。
この関係者によれば、洪氏は部長の座に就いて以来、多くの物事が労働部だけの判断では決められないことを実感するようになったという。
改革の進捗が期待通りに進まない場面では、洪氏が内々に「私がどうすればいいか分からないはずがないだろう」とこぼすこともあるという。しかし、他省庁にまたがる政策が絡む場合は、行政院や関係省庁との調整を待たなければならず、「立場が変われば発想も変える必要がある」という。
実際、洪氏が労働部を引き継いだのは、前任の何佩珊部長が労働力発展署の職場いじめ問題を受けて辞任して間もない時期で、部内の雰囲気は敏感な状態にあった。
洪氏は休日に会議を開いたことで、公務員の時間外労働をめぐる疑問の声が上がったこともある。それ以降、洪氏は部下の残業について特に気を配るようになった。
ある民進党立法委員によれば、洪氏と何度か食事の約束をしても、洪氏はいつも最後に現れるという。一般の職員に休息時間を犠牲にさせたくないため、自分自身が「残業する」ことを選んでいるからだ。
民進党内の関係者はまた、洪氏は部長として一つの決定を下せば、その影響が自らの省庁だけにとどまらないことを理解している一方、いざという時には「背負うべきものから逃げない」人物だとも語る。
これまで政策の推進や省庁横断的な調整に直面した際も、洪氏は物事を自ら引き受け、外へ押し付けようとはしなかった。
今回、肩にのしかかる重荷が一度の中国訪問に変わっても、洪氏は例外ではなかった。