台湾の元文化部長である龍應台氏は、『風傳媒』のインタビューで「欧米や日韓の子どもたちは幼い頃から“平和教育”を受け、対立をどう解決するかを学んでいる」と指摘した。一方で、中国語圏ではこの教育がほぼ欠落していると語る。特に台湾では「平和」という言葉が「降伏」と同義に扱われている現状に危機感を示し、「台湾は宝島であるべきなのに、なぜ戦艦になってしまったのか」と疑問を投げかけた。
龍氏は9月15日付『聯合報』に寄稿した「なぜ今、平和を語るのか」という特集記事の中で、平和は屈服ではなく「未来を自ら選ぶこと」であると強調。台湾は「第一列島線の最前線に立つハリネズミ」として犠牲になる必要はなく、平和を中国に委ねるべきでもないと主張した。台湾自身が主体的に「平和への道筋」を設計すべきだという立場を示している。
さらに、龍應台文化基金会は9月20日に台北で「2025台北国際平和持続フォーラム」を開催予定で、海外の活動家7人や台湾の学者、実務者を招き「なぜ平和のために努力するのか」を議論する場を設ける。
なぜ平和教育が欠かせないのか 龍氏は「脅威を感じない社会では、平和について考えることもない」と語る。基金会が初めて戦争をテーマに議論したのは2017年だったが、当時は社会の関心も薄く、「遠い問題」とみなされていた。だが数年後、戦争は身近で最も熱い議題となり、情勢は急速に緊迫している。
欧米では「平和学」が大学・専門家の研究分野として存在し、「平和教育」が一般市民、特に子どもたち向けに導入されている。幼稚園から始まる国もあり、日本や韓国でも重視されている。しかし、中国語圏の教育現場にはその要素がほとんど欠けていると龍氏は指摘する。
龍氏 によれば、平和教育は段階的に行われるべきものだ。例えば、子ども同士のいじめにどう向き合うか、教師の不公平な対応をどう受け止めるか、といった日常の中の対立から学ぶ。欧米の学校では立体地図を作り、子どもたちに「国」として役割を与え、対立を分析し、交渉や対話を体験させる教育も行われているという。
「なぜ台湾の教育にはこの重要な内容が欠けているのか」と龍氏は問いかける。職場の人間関係はもちろん、男女関係においてもそうだ。台湾社会では「恐怖の恋人」事件が繰り返されているが、その背景には対立をどう処理するかを学ぶ機会が極めて少ない教育環境があると警鐘を鳴らした。
龍應台氏は、西洋では平和教育が幼少期から始まっており、かつて侵略と被侵略の関係にあったドイツとポーランドでも青少年交流プログラムが始められたと語った。写真はポーランド・アウシュビッツ強制収容所。(写真/AP通信)
「平和」が「降伏」と同一視される現実 龍應台氏は、かつてドイツに滞在していた頃、小学校のクラスがポーランドに旅行し、現地の同世代の子どもたちと交流していたことを思い出す。第二次世界大戦後、ドイツとポーランド、あるいはフランスなど戦争当事国は大規模な青少年交流を開始し、次世代が幼い頃から「かつての敵国」の子どもと親しくなり、相互理解を深める機会を持つようにした。こうした取り組みは日本や韓国でも見られるが、「中国語圏だけが欠けている」と龍氏は強調する。
西洋の平和教育では、個人間の対立の解消方法、上下関係での不公平な扱いへの対応、自らの意見を主張しつつ他者を説得し、差異を尊重する技術が重視される。大学レベルになると、地域社会の衝突解決もテーマとなる。例えば湾岸に大型ホテルを建設する計画に環境団体が反対する場合、どのように交渉すべきかが議論される。また、就職を控える大学生には、職場でのいじめや上司との意見の衝突をどう処理するかといった教育も行われる。平和学は、子どもの人間関係から社会の職場、そして最終的には国家間の対立まで、あらゆるレベルで必要とされる学びなのだ。
龍氏は「台湾が『世界で最も危険な場所』と呼ばれながら、教育制度にも学術界にも平和教育が存在しないのは不可解だ」と語る。経済、文化、外交、社会、さらには軍事を含め、民主制度をいかに守るかを総合的に研究する発想が欠けていると指摘する。
また、自身が台南で8年間暮らした経験を振り返り、農民や漁民、先住民と交流する中で「善良な人々は誰も戦争を望んでいない」と確信したという。それでも台湾社会では「平和」という言葉が「政治的に正しくない」とみなされ、口にすることすらためらう風潮がある。その結果、今回の大規模なリコールの結果を見ても、社会の実態とネット上の世論には大きな隔たりがあると述べた。
龍應台氏は「平和」という言葉がすでに政治的に不正確とされ、大規模リコールの結果からも社会の実情とネット世論の大きな乖離が見て取れると指摘した。(写真/劉偉宏撮影)
軍備が目的化する危うさ 龍氏は「軍備は平和を実現するための手段にすぎない」と強調する。軍事力は確かに重要だが、それだけが解決策ではなく、経済面での戦略、教育による意識醸成、文化的な交流拡大、さらには政府間で対立しても市民同士の交流による道を模索することなど、多角的な努力が必要だという。ところが台湾では、軍事が唯一の語彙となり、広範でオープンな議論の場が欠けていることに危機感を示した。
さらに龍氏は、平和の反対は単なる戦争やイデオロギー対立ではないと指摘する。環境や生態のレベルでも平和は追求されるべきであり、両岸関係を政治的闘争だけに矮小化してはならないという。
例としてエチオピアとエジプトの関係を挙げる。ナイル川上流のエチオピアが大型ダム建設を宣言すると、下流のエジプトはただちに「武力行使も辞さない」と反発した。農業や工業、経済発展に直結するこの問題は国連が火薬庫として警戒する事態となった。同様に、メコン川では中国が上流で多数のダムを建設し、下流諸国の生存を脅かしている。最近では中国がヤルツァンポ川で水利施設を建設すると発表し、下流のインドが強い警戒感を示している。水資源の配分という一見技術的な課題でさえ、重大な戦争の火種となり得るのだ。
エチオピアで建設された巨大ダムは、下流国エジプトの強い反発を招いている。(写真/AP通信)
平和の定義を広げるべきだ 龍應台氏は、歴史研究の知見として、古代ローマ帝国から中国の秦・漢以降の二千年にわたる王朝の交代を比較した学者の分析を紹介する。その結論は一貫しており、大規模な災害の発生はしばしば革命や政権崩壊を引き起こす要因となるという。特に干ばつは洪水と比べ、暴力的な革命や王朝転覆につながる可能性がほぼ倍に達するとの結果が出ている。最近出版された研究書でも、明朝の崩壊は当時の気候変動による資源不足や土地荒廃に起因していたと指摘されている。龍氏は、平和の議論において政治やイデオロギーだけでなく、環境への姿勢や資源管理のあり方を含めて考えるべきだと強調する。
台湾が直面している課題として、龍氏は2021年に起きた深刻な干ばつを例に挙げ、もし同様の事態が繰り返されれば社会の脆弱性が浮き彫りになると警鐘を鳴らす。また、食料問題も深刻で、台湾の食料自給率は2023年時点でカロリー換算30.3%と過去18年で最低水準に落ち込んでいる。特に大豆やトウモロコシは9割以上を輸入に依存しており、もし封鎖が起これば食料不足が深刻化するのは避けられない。龍氏は「平和を守るために武器だけを論じるべきではない」と語る。
龍氏 はまた、龍應台文化基金会が近年「平和」という観念を推進してきた背景に触れ、多くの台湾人が「共産主義下では生きたくない」という願いを抱いていることを指摘する。台湾社会は世界の中でも特異で貴重な存在であるにもかかわらず、平和や安全の定義が極端に狭いことに疑問を呈し、軍備のみを問題の核心とするのは誤りだと警告した。
龍應台氏は、台湾にはより深い研究と賢明な判断によって「平和の道筋」を設計する必要があると強調した。(写真/蔡親傑撮影)
台湾は「平和の道筋」を設計すべきだ 龍氏は、平和の道筋は深い研究と冷静な判断の上に設計されるべきだと語る。相手が極めて非合理的な場合、合理的な場合、それぞれに応じた戦略が必要であり、社会全体で幅広い議論を展開し、政府が情報を独占するのではなく国民と共有する必要があると訴える。国民は恐れて議論を避けてはならず、政府は準備を怠ってはならないという。
軍備のあり方、エネルギーや水資源、産業発展、文化交流や民間の善意など、多方面にわたる要素を総合的に検討し、「平和の道筋」として設計すべきだと主張する。しかし現実には、こうした議論を口にするだけで「中国寄り」とレッテルを貼られ、社会に恐怖が広がる。結果として、国民は無自覚のまま「戦艦」に乗せられてしまう。「台湾は宝島であるべきなのに、なぜ戦艦になってしまったのか」と龍氏は問いかける。
龍氏 はまた、協力の可能性に言及する。中研院が2022年に人類史上初のM87ブラックホールの画像を撮影できたのも、5つの国際チームの協力があったからこそだと例を挙げる。司法や犯罪対策、気候変動による温暖化、海面上昇、森林火災や河川汚染といった問題も、二国間や国際的な協力なしには解決できない。「武器に頼るだけでは意味がない」と断じた。
さらに龍氏は、平和を担う最大の責任は強者にあるが、弱者も黙っていてはいけないと述べる。たとえ相手が圧倒的で不条理であっても、暴力で対抗する道だけでなく、知恵で立ち向かう方法もあると強調した。
龍應台文化基金会は9月20日に「2025台北国際平和フォーラム」を開催し、龍氏は「なぜ今、平和を語らなければならないのか」というテーマで基調講演を行う予定である。