米国のメディア批評誌『コロンビア・ジャーナリズム・レビュー(CJR)』はこのほど、「2050年のジャーナリズム予測」と題した特集号を発表した。現在のニュース産業に見られる種々の異変から、25年後のメディアの姿を推測しようという試みだ。
ベッツィ・モライス(Betsy Morais)編集長が警告するように、たとえ天気を変えることはできなくとも、少なくとも私たちは「天候に合った服」を選び、メディア・リテラシーという武装を整えるべきだ。そうして初めて、新時代のメディア環境に対峙できる。
この特集は主に米国の変化に着目したものだが、激しい競争、急速な変化、そして情報の断片化に直面している台湾(そして日本)にとっても、決して対岸の火事ではない。大洋の向こう側からの観察と省察は、25年後の天気予報というよりも、私たちが日々直面している日常そのものと言えるだろう。
境界の溶解 インフルエンサーか、記者か
同特集には10本以上の詳細な記事やポッドキャスト対談が含まれており、紹介すべきメディア現象は多岐にわたるが、紙幅の都合上、要点を絞って紹介したい。
ニューヨーク市立大学(CUNY)クレイグ・ニューマーク・ジャーナリズム大学院の「ジャーナリズム保護イニシアチブ」創設ディレクター、ジョエル・サイモン(Joel Simon)氏は、長年「ゴシップ製造機」とみなされ、パパラッチと報道の自由、プライバシーと名誉毀損の境界線を歩いてきた「元祖インフルエンサー」、ペレス・ヒルトン(Perez Hilton)氏に焦点を当てている。
ヒルトン氏は現在、女優ブレイク・ライブリーと俳優ジャスティン・バルドーニの確執(映画『It Ends With Us』の撮影現場でのセクハラや報復を巡る訴訟)に関連し、裁判所から資料提出を求められている。ライブリー側の弁護団は、ヒルトン氏がこの騒動に関する情報や通信記録を持っているとみて、ニューヨークの裁判所を通じて召喚状を送付。SNSのバックエンドデータ、通信履歴、メール、通話記録の開示を求めた。
ヒルトン氏はこの訴訟の当事者ではないが、彼の抗弁はジョエル・サイモン氏に深い問いを投げかけた。ゴシップと毒舌で名を馳せたデジタルクリエイターは、『ニューヨーク・タイムズ』の記者と同等の憲法上の保護を受ける資格があるのか? もし法的な境界線において、インフルエンサーと記者の区別が完全に消滅すれば、伝統的なジャーナリズムが長年享受してきた職業上の特権――取材源の秘匿権や取材の保障など――は、その定義の氾濫によって希薄化し、あるいは撤回される恐れがある。
「信頼」の変質 機関から個人へ、そして「闇の資金」
こうした身分の曖昧化は、多くのメディア関係者にとって不可避な進化の方向性と見なされている。
例えば、26歳のアーロン・パーナス(Aaron Parnas)氏は、TikTokやSubstack上で、伝統的な編集・取材規範から完全に逸脱した独自の「ニュースのルール」を構築している。彼が抱えるオーディエンスの規模は、多くの地方メディアを凌駕するほどだ。しかし、この「消費者への直接発信(D2C)」モデルの背後には、深刻な「ダークマネー(出所不明の政治資金)」の懸念が潜んでいる。
パーナス氏は特殊な例ではなく、未来のニュースの常態かもしれない。そこでは、事実の伝達は厳格な検証プロセスに依存せず、クリエイターと受容者の間の「寄生的な信頼関係」によって決定される。
この「組織への信頼」から「個人崇拝」への転換は、伝統的なニュースのゲートキーパー(門番)たちの集団的な退場を意味し、代わってアルゴリズムと感情が駆動する情報の乱戦が幕を開けることになる。
AIという「媒体」の侵食 クリックの代償として差し出すもの
インフルエンサーと記者の境界線が曖昧になる一方で、コンテンツ生産におけるテクノロジーの役割も「単なるツール」から「支配者」へと質的な転換を遂げている。テキサス工科大学(Texas Tech)英文学部のルーシー・シラー(Lucy Schiller)氏と、グローバル・ニュース・プラットフォーム『Semafor』のジーナ・チュア(Gina Chua)執行編集長は、ニュースサイトが「AIウィジェット(小道具)」に乗っ取られつつある現実を暴き出した。
シラー氏は、一見すると読者の生活に関連があるように見せかけたAI生成情報を、「地域密着型の撒き餌(Locally Sourced Chum)」と表現する。彼女の指摘によれば、これらのAIコンテンツの真の目的は、公共的価値の伝達ではない。読者の行動データを獲得するための精巧な「誘い」に過ぎないのだ。
その結果、ニュース消費は「隠されたデータ交換」のプロセスへと変貌する。読者はAIが編集した無料の情報を得る代償として、個人の主権下にあるデジタル・フットプリント(足跡)を全て差し出すことになる。
これはいわゆる「テクノロジーによる越権(Technological Overreach)」であり、技術信奉者が謳うような民主化ではない。むしろ、受け手であるオーディエンスの主権に対する略奪である。ニュースサイトのインターフェースがデータ収集機能を持つAIウィジェットに占領されたとき、ニュースそのものは世界を解釈する機能を失い、単なる「媒体(Medium)」へと成り下がる。その価値は、データが収集される一瞬にしか存在しなくなるのだ。
政治と真実の戦争 分散化する伝播と「真実の仲裁者」のジレンマ
ベテランジャーナリストのカイル・パレッタ(Kyle Paoletta)氏は、政治における「D2C(Direct-to-Consumer/消費者への直接訴求)」モデルへの反省を促す。政治家の言動や主張が、もはやメディアによるフィルタリングや検証を必要とせず、個人のチャンネルやクローズドなコミュニティ、あるいはAI生成コンテンツを通じて直接有権者に届くようになれば、伝統的なジャーナリズムの監視機能は完全に失効する。
こうした分散化された環境下では、政治情報の受け手は「真実と嘘が同等の流動性を持つ」時代へと放り込まれることになる。
もちろん、ファクトチェック機関や各種の「バイアス・モニター(偏向監視ツール)」は、こうした事態に対処するために生まれた。だが、ジャーナリストのアモス・バーシャド(Amos Barshad)氏は警鐘を鳴らす。
すべての報道に政治的なラベルを貼り、読者や視聴者を「偽情報」から救おうとする努力は、本質的に徒労に終わる可能性があるというのだ。なぜなら、偏向を監視するプロセス自体が、しばしば特定のイデオロギーに突き動かされているからだ。
いわゆるファクトチェックや偏向追跡は、ただでさえ混乱した言論空間に、新たな偏見のレイヤー(層)を追加しているに過ぎない。それは真理の探究ではなく、「誰が真実を裁定する権利を持つか」という権力ゲーム(パワーゲーム)であり、オーディエンスはラベリングと立場対立の泥沼に、より深く嵌まり込んでいく恐れがある。
「ニュース」から「コンテンツ」へ 生存戦略か、魂の喪失か
リズ・ケリー・ネルソン(Liz Kelly Nelson)氏は、「伝統的な記者」から「独立クリエイター経済」への転身という生存戦略について論じている。ここで問われるのは、権力の監視や複雑な課題の提示を重んじる「ニュース(News)」が、アテンション(注目)と「いいね!」、そして拡散を重視する「コンテンツ(Content)」へと格下げされたとき、不可逆的な核心的価値の流出が起きるという点だ。
報道の成否が社会的影響力ではなく、サブスクリプション登録者数や広告主の顔色によって決まるようになれば、ジャーナリズムが本来持っていた職業的尊厳と公共性は、トラフィック(アクセス数)の奔流の中で溶解してしまうだろう。
2050年の終末予言?
本特集の中で最も未来志向であり、かつ「天気予報」としての機能を果たしているのが、多くのメディア関係者がそれぞれの展望を語る「Visions of 2050(2050年のビジョン)」だろう。実のところ、25年後を待つまでもなく、記事冒頭で描かれる現在の米国のメディア環境は、すでに終末的な雰囲気に満ちている。
「ニュース業界は歴史上前例のない脆弱な時期にある。メディア従事者は企業の合併・買収の脅威に晒され、トランプ氏は報道の自由に対して直接的な攻撃を仕掛けている。TikTokやYouTubeのクリエイターたちは情報エコシステムを撹乱し、そこには当然、人工知能(AI)の影も落ちている。AIは既存のビジネスモデルを覆す恐れがあり、ニュース出版業そのものを消滅させる可能性すらある。変化は確かに恐ろしいが、記者に新たな機会をもたらす可能性もある。すべてのメディアが今、適応しようと必死だ」
『CJR』は、独立系メディアの創設者、『ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)』編集長、CNNのアンカー、『Wired』のグローバル編集長、『ニューヨーカー』のベテラン編集者、そして国際報道の第一線で活躍する記者たちに、今後25年のメディア変革について問いかけた。彼らの回答を以下に要約する。
「最終的には脳に埋め込まれたチップを通じてニュースを得るようになるだろう。だが、誰がそのニュースを提供するのか、それこそが議論すべき問題だ」
「地方メディアの倒産や、プライベート・エクイティ(未公開株投資会社)による地方ニュースの蚕食を目の当たりにしてきた。これこそが最大の危機だ。AIや、経営陣が記者にAIを使わせようとする動きも懸念材料だ。場合によっては、生身の記者や真実の報道を代替するために使われようとしている」
「『ニューヨーク・タイムズ』は存続する。『WSJ』も『ワシントン・ポスト』も残るだろう……だが、テレビブランドについては確信が持てない。テレビニュース網にとっては死活問題だ。完全に自由競争で、個人のキャスターが主導する動画領域において、3文字のネットワークブランド(ABC、CNN、CBSなど)が存在する意義がどこにあるのか、私にはよく分からない。彼らは自身の存在意義を真剣に問い直す必要がある」
「真に成功する有名ブランドとは、オーディエンスを真に理解しているブランドだ。実行可能なビジネスプランを策定し、コンテンツのマネタイズ(収益化)術を知る必要がある。その能力がなければ、人々がお金を払ってでも欲しいと思うニュース製品を作ることは難しい。これはエンターテインメント製品とは全く異なるものだ。そして第三に、決して信頼を裏切らないことだ」
「私は根本的に、25年後も残るのは『人間が創作したニュース』だと信じている。文字であれ音声であれ映像であれ、人間によって作られ、人間に奉仕するニュースは存続し、現在よりも繁栄するだろう。なぜなら、オーディエンスはすでにネットに溢れる大量のAI生成コンテンツにうんざりしているからだ……人間主導の報道と執筆は復権する。私の考えは楽観的すぎるかもしれないが、真に『人的な報道』を重視するメディアは生き残り、繁栄し続けるはずだ」
「伝統的メディアは自身の衰退を十分に認識できていないと思う。彼らが延命できているのは、単に企業の介入があるからだ。資金力のある企業が投資しているが、彼らはいずれ飽きて、最終的にはニュース事業を切り離して売却するだろう」
「現在の問題の一つは、現実と事実に対する認識の共有が欠けていることだ。記者の定義を広げるべきかは分からないが、ジャーナリズムの範疇は広く、多くの人が影響力を発揮できる余地がある。インフルエンサーと呼ぶかどうかは別として。だが、誰かが調査報道をやらなければならない。誰かが現場取材をし、誰かが地方ニュースを報じなければならないのだ」
「創刊当初の『ニューヨーカー』は、十数本の記事とユーモア漫画、表紙だけの週刊誌だった。今では紙媒体に加え、ウェブサイト、SNS、動画、数え切れないポッドキャスト、毎日のオンライン報道と、可能性は無限に広がっている。鍵となるのは、私たちの価値観、使命感、目的意識を堅持し、次々と現れる新技術に飲み込まれないことだ。2050年にどうなっているかは分からないが、公平さ、正確さ、深み、面白さといった価値観が、常に私たちの仕事の核心であり続けることを願っている」
「調査報道は生き続けると思う。現在、ニュース編集室では反復的な作業がAIに置き換わっているが、これは悪いことではない。私も翻訳、要約、文字起こしにAIを使っている。このトレンドに抗う意味はない。だが、『ジャーナリズムがAIに取って代わられる』という言説は興味深い。なぜなら、AIはそのモデルを訓練するための正確な情報をどこから得るのか? ジャーナリズムの未来を考えるとき、私たちは依然として高品質で正確な情報を必要としており、その情報を得るには、やはりジャーナリスト自身のプロセスが必要なのだ」
「私たちは、パーソナライズされ、カスタマイズされたAIシステムから情報の大部分を得るようになるだろう。多くの異なる新しい方法やフォーマットで情報を受け取るかもしれない。私はテクノロジー業界を長く取材してきたが、今日支配的なプラットフォームが、10年後もその地位に留まっている可能性はほぼゼロだ」
「ジャーナリズムが存続することを願っているが、確信は持てない。もちろん、私たちが今日理解しているジャーナリズムの概念は、もはや存在しないかもしれない。多くの伝統的な概念は完全に消え去るだろう。人々は情報を必要としており、ニュースへの需要は依然として強い。不正を調査するという概念が消えることはないと思うが、その形式は現在とは全く異なるものになるかもしれない」
「2050年になっても、記者の『個人のスタイル』は残るだろう。感情を伝え、ニュースの優先順位を判断し、最適な切り口を見つける能力だ。一方で、データの集約や分析といった手作業は消滅する。また、単調なストレートニュースの報道スタイルや、AIを合理的に業務に取り入れることを拒む記者も消えるだろう。放送番組はオンデマンド・コンテンツに取って代わられる。メディアを文字・映像・音声に分類する大学のジャーナリズム課程もなくなり、代わりに、仕事のために多様な能力を求められる『ネットワーク・ジャーナリズム課程』が主流になるはずだ」
極地への旅支度
メディア同業者であれ、一人の受け手であれ、上記の現状観察や未来予測が脳裏をよぎったことはあるだろうか。様々な「天気予報」を見た後で、あなたはどんな服を着て出かけるか決めたろうか?
もし私に問うなら、真実、娯楽、人間関係、テクノロジー、AI、インターネット、政治、ニュース価値、インフルエンサー(KOL)、バーチャルな交流、自己投影……これら全てが一つに溶け合った現在において、極地への旅やエベレスト登山に挑むような準備が求められている。「どのダウンジャケットを着ればいいか」などというレベルの問題ではないのだ。
言い換えれば、メディア・リテラシーに関する公共的な思索と議論を、さらに一歩進めて深めるべき時が来ているのである。