CRISPR-Cas9をはじめとする遺伝子編集技術の急速な進歩により、世界のバイオテクノロジーは大きな転換点を迎えている。中央研究院院士で台湾大学医学部教授の陳培哲氏は台湾メディア『新新聞』の単独インタビューで、遺伝子編集が「異種臓器移植」の臨床応用という新たな段階に入ったと指摘した。
陳氏は、この分野における米中両大国の先行状況を分析するとともに、日本、韓国、中国、台湾のバイオ産業の現状を比較した。台湾が基礎研究を軽視し、半導体産業への一極集中とバイオ分野の「投機的な風潮」による人材流出を放置すれば、10年後には臓器移植の面で中国に頼らざるを得なくなる恐れがあると警鐘を鳴らしている。
遺伝子編集がもたらす医療革命 「豚の臓器」を移植可能に 陳氏によれば、世界各国は深刻な移植用臓器の不足に直面している。この課題を解決するため、科学界ではノーベル賞級の技術である遺伝子編集を用い、豚の臓器を人体に移植できる「救命の選択肢」に変えようとする研究が進んでいる。
かつては、豚の臓器をそのまま人体に移植しても、激しい免疫拒絶反応によって、わずか1時間ほどで機能不全に陥っていた。現在は、豚の受精卵に遺伝子編集を施すことで、この問題を根本から変えつつある。
第一に、人体の免疫反応を引き起こす豚の20〜30個の重要遺伝子を破壊する「ノックアウト」が行われる。第二に、人体の免疫システムとの適合性を高めるため、約30個のヒト遺伝子を組み込む「ノックイン」が行われる。第三に、豚のゲノムに潜む内在性レトロウイルス、例えば豚内在性レトロウイルス(PERV)を遺伝子編集で不活化・除去し、移植の安全性を高める。
こうして遺伝子工学によって改変され、一部にヒトの遺伝子を持つ豚は、もはや従来の意味での豚とは言えない。陳氏は冗談交じりに、これは一見すると少し不気味にも聞こえるが、まさに「神が人を創る」ような技術だと語る。
体細胞レベルの移植、次世代の遺伝子には影響しない こうした画期的な技術に対しては、倫理面や遺伝に関する疑問も生じる。遺伝子編集された豚の臓器を移植された患者が結婚して子どもをもうけた場合、編集された遺伝子が次世代に受け継がれるのではないか、という懸念である。
これについて陳氏は、科学的には明確に否定できると説明する。異種臓器移植は、生殖細胞系列を改変するものではなく、移植された臓器という体細胞レベルにとどまる医療行為である。編集された遺伝子は移植された特定の臓器内に限られ、患者の受精卵に入り込むことはない。そのため、次世代の遺伝に影響を与えることはないという。
種の壁を越えた後の安全リスクと「防御医学」 遺伝への懸念は整理できる一方で、陳氏はさらに深い科学的課題を指摘する。それは、種の壁を越えた後に生じる生物安全上のリスクである。
陳氏は、「もし人間の体内に豚の臓器が入るなら、本来は種と種の間を隔てていた『種の壁』が破られることになる。将来、アフリカ豚熱のように、本来は人間に感染しない豚特有のウイルスが、移植患者の体内で感染を引き起こす可能性はないのか」と問題提起する。
移植用の豚の腎臓は遺伝子編集されている。(写真/AP) つまり、異種移植の成功は単に外科手術の成功を意味するだけではない。医学界は今後、「人間の体内にある豚由来の感染源」に対応する、新しい予防・治療医学を発展させなければならない。
一方で、この新たなリスクは、バイオ産業にとって大きな新市場にもなり得る。陳氏によれば、通常の豚に使われるワクチンや予防薬は、100台湾ドル 程度、日本円で数百円にすぎない。しかし、それが「人体内の豚臓器」を守るための医療に応用されれば、価値は大きく跳ね上がる。
臓器移植を受けた患者にとって、体内の豚臓器を感染から守る専用の薬剤や治療プロセスは、数十万円 、あるいはそれ以上の価値を持つ可能性がある。こうした「防御医学」の開発に成功すれば、バイオ産業にとって大きな成長分野になると陳氏はみる。
宗教的障壁への技術的解答 「遺伝子編集羊」も選択肢に 異種移植は、科学や安全性だけでなく、宗教的な課題にも直面する。イスラム教やユダヤ教などでは、教義上、豚との接触を厳しく禁じている。敬虔な信者の中には、命に関わる状況であっても、豚の臓器を受け入れない人もいる。
陳氏は、「将来的には豚だけに限る必要はない。『遺伝子編集羊』や『遺伝子編集牛』を開発することもできる」と指摘する。これは、異なる宗教や文化的背景を持つ患者に対し、カスタマイズされた異種移植の選択肢を提供するものだ。先端技術が人文的配慮や市場の多様性に対応し得ることを示している。
世界のバイオ競争 米中が主導する構図 世界の先端医療や新薬の臨床試験について、陳氏は現在、米国が約30%、中国が約30%を占め、残る40%を欧州や日本などが分け合う構図になっていると説明する。この競争の中で、近隣諸国の実力と戦略はそれぞれ異なる特徴を持つ。
国際的なバイオ競争において急速に追い上げる中国 まず、異種臓器移植の臨床応用では、米国と中国が主導している。この高度な先端技術は現在、両国がそれぞれ異なる領域で先行している。
米国がリードしているのは腎臓と心臓の分野である。ハーバード大学医学部の関連病院であるマサチューセッツ総合病院(MGH)は、世界初となる遺伝子編集豚の腎臓移植を実施した。米食品医薬品局(FDA)は当初、患者が6カ月を超えて生存することを一つの基準としていたが、実際の臨床患者はすでに8カ月を超えており、予想を上回る結果を示している。
陳氏はまた、以前国際社会で伝えられた「中露首脳が臓器移植について話し合った」とする情報についても、実際に議論されていたのは「遺伝子編集豚による異種移植」という大国間で競われる先端科学であり、世間で語られたような政治的な噂ではないと説明した。
日本の課題 基礎研究は強いが商業化に壁 日本の医学・生物学の基礎研究の実力は疑いようがない。しかし陳氏は、日本には大きな矛盾があると指摘する。世界を変えるような重要な医薬品の発見が日本から生まれているにもかかわらず、日本国内から巨額の売上を生む「ブロックバスター医薬品」がほとんど育っていないという点だ。
陳氏は、コレステロール低下薬の「スタチン」や、近年のがん治療を大きく変えたPD-1を標的とする免疫チェックポイント阻害薬を例に挙げる。いずれも日本人科学者が先駆的に発見・発明したものだが、その後の臨床試験や大きな商業的利益は、ほぼ欧米の大手多国籍製薬企業の手に渡った。
コレステロール低下薬の鍵となる「スタチン」。(写真/永信薬品公式サイトより) 陳氏は、この背景には日本の大学に根強く残る「講座制」があると分析する。高度に階層化された制度の下では、講座教授が強い権限を持つ。若手研究者が革新的なアイデアを持っていても、独立して臨床試験を進めるための資源を得ることは難しい。そのため、日本の研究成果が「実験室」 から「臨床・商業化」 へ進む過程には、大きな溝が存在しているという。
この問題は、日本が国を挙げて進めてきた政策にも表れている。日本は過去十数年にわたり、「人工多能性幹細胞(iPS細胞)」の研究に巨額の資金を投じてきた。しかし現時点で、米FDAの承認を受けて市場に出た治療法は一つもない。一方、米中が主導する「遺伝子編集臓器移植」は、短期間でFDAが求める条件を満たし、臨床試験の段階に入っている。
韓国の強み 朴正熙時代からの「多角化戦略」 日本の制度的な壁や、台湾の特定産業への偏りと対照的に、韓国は国家の産業戦略で高い成熟度を示している。陳氏は、韓国が朴正熙時代から「多角化」路線を重視し、自動車、重工業、半導体、生物医学を並行して育成してきたと指摘する。
現在、韓国はバイオ医薬品の開発・製造受託(CDMO)分野で、サムスンバイオロジックスなどの大手企業が世界市場で強い存在感を持つ。さらに、臨床研究の質も大きく向上している。
陳氏は、国際的な権威ある医学誌に掲載された最新研究を例に挙げる。韓国の医学界は、心血管疾患予防のために低密度リポタンパク質コレステロール(LDL)を55mg/dL以下に下げるべきかというテーマについて、極めて精緻で説得力のある臨床研究を行った。その厳密さと革新性は、米国を上回るほどだという。
これは、韓国が単なるバイオ医薬品の受託製造にとどまらず、世界の臨床研究を主導する視野を持ち始めていることを示している。
台湾への警鐘 「オランダ病」が生む空洞化危機 さらに深刻なのは、台湾のバイオ医療産業の内部に広がる投機的な空気だ。陳氏は、「台湾のいわゆるバイオサイエンス産業の多くは、実際には話題づくりや投機的な宣伝に終始している。本当に成果を出せるのは、規模が小さく、国際競争力も限られた二、三の小企業にすぎない」と厳しく批判する。
陳氏は台湾大学を例に挙げる。何年も前、陳氏は遺伝子編集豚の技術を導入し、台湾の優れた農学部、獣医学部、医学部を結びつけて、分野横断型の研究開発を進めるよう提案した。しかし台湾の研究開発はあまりに遅く、長年かけても「一つか二つの遺伝子を編集しただけ」で、米中と競うには遠く及ばなかったという。
台湾大学は資金と人材の不足により研究を十分に進められず、産業界も半導体産業が人材と資金を吸い上げる構造の中で、バイオ分野に腰を据えて取り組む企業が現れなかった。陳氏は、「半導体を除けば、今の台湾には何が残っているのか見えない」と嘆く。
10年後、臓器移植は中国頼みになるのか 「バイオテクノロジーの発展に近道はない。将来、移植できる臓器は、脳と毛細血管を除けば、ほぼすべて交換可能になる」。陳氏はそう語り、台湾の産官学がこのまま視野の狭いまま進歩を怠れば、10年後には台湾の臓器移植患者が中国で治療を受けざるを得なくなる恐れがあると警告する。
陳氏によれば、米国の遺伝子編集移植手術は費用が高額で、一般の人々には手が届きにくい。一方、中国はその頃には技術面で先行し、臨床経験も成熟している可能性が高い。さらに、台湾の患者を引きつけるために、「台湾同胞向け特別プログラム」を打ち出す可能性もある。
それは台湾の医学界にとっても、国家安全保障にとっても、深刻な後退であり、皮肉な結果だと陳氏はみる。
基礎研究に立ち返り、医療センターが主導を 厳しい環境の中でも、陳氏をはじめとする少数の科学者は、それぞれの現場で研究を続け、台湾に実質的な貢献を残そうとしている。
陳氏は、台湾を代表する医療グループ、例えば台湾大学病院や長庚医療体系などが、長期的な視野を持つべきだと強調する。これらの医療センターが主体的に「遺伝子編集豚による異種移植」のような高い技術的壁を持つプロジェクトを引き受け、統合していく必要があるという。
どこか一つの医療センターが、第一世代の技術、例えば移植臓器を1年から数年維持できる技術を実用化し、その後も改良を続けられれば、臓器移植のボトルネックを一気に突破できる。そうなれば、台湾、さらにはアジアを代表する強力な医療拠点になる可能性もある。
陳氏は、台湾のバイオ医療界は、短期間で成果を求める幻想や半導体への過度な依存から離れ、基礎科学に立ち返るべきだと訴える。それこそが、今後の世界的なバイオ競争の中で、台湾に生き残る道を残すための条件だという。