台湾と中国大陸の対立は、近年、日本で「台湾有事」として盛んに議論されている。その対立の遠因の一つが、1947年2月28日に台湾で発生した「二・二八事件」にあると言える。特に台湾の現在の民主進歩党(民進党)政権とそれを支持する人たちにとって、中国大陸に対する嫌悪感の発端となっている。
二・二八事件とは何か。日本ではおそらく聞きなれない事件だろうが、台湾社会にいまだに深い影を落とす重大事件であり、日本植民地統治から第二次世界大戦後に中華民国に接収された台湾にとって、戦後最大の事件だ。
当時、台湾を接収した中華民国の中国国民党(国民党)政権に対して、台湾ではインフレや差別待遇などを原因として、不満が高まっていた。こうした中で、台北市で取締官がタバコ売りの女性を取り調べたことをきっかけに、市民と国民党政権との衝突が発生した。また、そこに中国共産党のスパイも参入したとされている。当時、中国大陸にあった国民党政権は、軍隊を派遣して事態を鎮圧した。
この事件は、「本省人」(戦前からの台湾住民とその子孫)と「外省人」(戦後に台湾に渡ってきた中国大陸出身者とその子孫)の間に亀裂をもたらし、国民党政権は事件について語ることを長年タブーとした(注1)。
この事件がなぜ「台湾有事」の遠因なのか。国民党政権は、中国大陸に生まれ、日中戦争後の中国共産党との内戦(国共内戦)に敗れ、1949年に台湾に撤退してきた。「本省人」の一部は、二・二八事件を契機として、国民党政権を、台湾に圧政をもたらした外来政権だと位置付け、打倒の対象として嫌悪した。中国共産党と対立するのは国民党政権であり、この時代、中国大陸を敵対勢力とは考えていなかった。
しかし、国民党主導の民主化が進み、1988年に台湾生まれの「本省人」である国民党の李登輝氏が1988年に総統に就任すると、国民党を倒す理由が薄れる。この時期、中国大陸で経済発展が進み、各面で国力が強まった。中国は、台湾独立を志向するとみなした李登輝政権に対して、圧力をかけるようなる。こうした中で、国民党を嫌悪していた人たちの嫌悪対象は、中国大陸あるいは中国共産党に移っていく。
二・二八事件は、国民党による権威主義体制、戒厳令の下で、語ることがタブーとされ、真相は明らかにされないままだった。しかし、民主化が進み、二・二八事件を公開で語ることができるようになり、李登輝総統時代から民進党へと政権交代が実現するのに伴って、事件が持つ意義が変化していく。つまり、「移行期正義」(注2)という概念の下に、国民党を指弾する材料になっていてく。それが、中国との関係の変化と絡み合っていく。 (関連記事: 台湾祝日“二二八”とは? 二二八記念日の由来と死者数:80年前の語られざる秘密 | 関連記事をもっと読む )
その過程は、政治的状況、社会的雰囲気が変わり、政権が交代し、タブーとして蓋を閉じられていたものが開放された時、それが新しい権力者によってどのように政治利用されるかを、象徴的に物語っている。歴史において繰り返されて来た状況が、ここでも繰り返されている。そして、それまでタブーだったものが、現在において別の意味でのタブーとなっている。つまり、新しい権力者による解釈に挑戦することは非常に困難であり、実際に挑戦者はほとんどいない。
台湾の現代史を振り返るに当たり、二・二八事件を避けて通ることはできない。台湾史研究者である故戴国煇氏は、1988年出版の岩波新書『台湾 人間・歴史・心性』の中で、「弾圧されて死傷したのは万にものぼるといわれるが、正確な数字は今もって明らかでない。(中略)二・二八事件を語ることも、研究することもタブーだったために、その実態と真相は今なおいっこうに判然としない」と述べている。
同書が出版されて四十年近く経とうとする今日、「事件は国民党による『本省人』エリートの計画的抹殺」「二・二八虐殺は、中国人による台湾人に対する虐殺行為」などの評価で事件を語ろうとすることは珍しくない。その一方で、「(事件の)根本的な原因は、かつて日本軍に鎮圧された台湾共産党と、中国本土の中国共産党が、国共内戦によって台湾人の不満を利用して国民政府を打倒しようとしたことにある」(注3)と、国共内戦の一環と見なす見方もある。
犠牲者数については、李登輝政権下の1992年に中華民国行政院の「研究二・二八事件小組」のメンバーの1人で、人口学者である陳寛政氏が算出した推計値、1万8000人から2万8000人が引用されることが多いようだ(なお、この数値は報告書には書き込まれていない)。このほかに、政府の公式見解ではないものの、事件で死亡または失踪したことで国家賠償を獲得した人数を基礎として、1000人前後と推測する学説も存在する。水面下では、主に「本省人」を中心に、「闇でひそかに葬られたものも含めると、10万人は下らない」などと、根拠不明の数字をまことしやかに語る者もいる。
つまり、正確な犠牲者数は、未だに確定されていない。さまざまな解釈や推測が飛び交う中で、事件の実態や真相が明らかになっておらず、タブー視する空気は消えず、事件に対する科学的な研究や討論が可能になったとは言えない。
こうした中で、台湾の歴史研究者である張若彤氏は、当時の公文書や報道記事を読み込み、統計数値や戸籍資料などを精査すると共に、被害者遺族の話を聞くことを通じて事件の全貌を把握し、実態を究明することに取り組んできた。
張氏の挑戦は、二・二八事件をめぐる台湾社会での悪循環を止めるため、一石を投じたものだと言える。しかし、張氏の論述に対して、これまで従来からの二・二八事件研究者による目立った反論はないという。なぜこの事件を正面から論じられないのか、大きな疑問が残る。
張若彤氏の著書『究竟228 林茂生之死與戰後臺灣反日力量的覆滅』が2021年、『原來228 湯德章之死與臺灣戰後特務派系政治的成形』が2022年、そして『如是228 張七郎之死與臺灣戰後反共體制的建構』が2025年に出版された。「228」三部作が完成したことで、張氏の研究も新たなステージを迎えようとしている。 (関連記事: 台湾祝日“二二八”とは? 二二八記念日の由来と死者数:80年前の語られざる秘密 | 関連記事をもっと読む )
そして、2026年の『我聞228──廖進平之死與台灣歷年平反運動之得失』(2006年2月末出版予定)は、初めて研究の重心を過去30年にわたる名誉回復運動に置いた。つまり、すなわち政治的力がいかにして歴史的コンセンサスを形成してきたのかという過程に焦点を当てた。
日本では取り上げられたことのない張氏の研究成果を紹介し、二・二八事件が台湾でどう政治利用されてきたのかを考察することは、歴史的事件の政治利用に対する研究の一つのケースとなるだろう。もちろん、張氏の研究は学術的に今後の検証、批判が待たれるが、二・二八事件を理解しようとする際に何が問題となるのかを示唆している。
「台湾有事」に関する議論は、2025年11月の国会答弁における高市早苗首相の発言によってさらに白熱化した。その台湾と中国大陸の間、台湾海峡両岸の対立において、台湾側の対中感情の根底にあるものの重要な要素の一つが、二・二八事件である。事件をめぐる複雑な心情が台湾内部の対立を招き、ひいては両岸関係、いわゆる「台湾有事」をさらに複雑なものとしている。そのため、二・二八事件の真相の探求は重要性を高めている。
張若彤氏に話を聞いた。
張若彤(Zhang Ruo-Tong):1977年生まれ、台湾・桃園出身。国立台北大学法律学系卒業、同修士課程修了。近年は二・二八事件の研究に従事。著書に『究竟228 林茂生之死與戰後臺灣反日力量的覆滅』(2021年/講台文化)、『原來228 湯德章之死與臺灣戰後特務派系政治的成形』(2022年/同)、『如是228 張七郎之死與臺灣戰後反共體制的建構』(2025年/同)などがある。
Q:「二・二八事件」に関心を持つようになったきっかけは。
A:台湾鉄道・福隆駅(現在の新北市)に近い虎仔山の脇にある草嶺古道の入り口近くに、「汪同志烏家殉難紀念碑」(汪烏家同志殉死記念碑)と彫られた保存状態の良くない石碑があった。日付が二・二八事件翌日の1947年3月1日だったので、事件との関連性に思い至った。
台湾鉄道・八堵駅(現在の新北市)の左側に、二・二八事件の罹難職員記念碑がある。「軍人たちが突然トラックで八堵駅に乗り付けて殺戮を始め、一部の人を拉致し、多くの人が行方不明になった」という「八堵駅事件」を記念するものだ。この事件で合計17人が犠牲となった。
調べたところ、汪烏家の事件こそが八堵駅事件の原因だった。1947年3月1日、基隆要塞の軍人が福隆駅に向かった。当時、二・二八事件はすでに始まっており、「外省人」が襲撃される事態も頻発していた。「外省人」である国民党政権の軍人と衝突したのは、「本省人」である駅の荷運び人夫だった。衝突で軍人が1人亡くなったが、その人物が汪烏家であった可能性が高い。 (関連記事: 台湾祝日“二二八”とは? 二二八記念日の由来と死者数:80年前の語られざる秘密 | 関連記事をもっと読む )
殉難記念碑があるということは、汪烏家は亡くなったと見て間違いない。3月1日当時、台湾省行政長官兼警備総司令だった陳儀は、二・二八事件勃発直後に「外省人」を殺害した者の責任を追及せず、速やかに場を収めようとした。当時、台湾全域で動員できる兵力は5000人未満しかなく、反乱が発生しても対応できないため、政治交渉で解決を図るしか術がなかった。しかし、軍人の間では、「仲間が殺されたのに、長官は殺害した側を追及しない。ならば自分たちで追及しよう」という空気が生まれた。
当初、40~50人の荷運び人夫と一般の乗客が、約10人の軍人を襲った。うち亡くなったのは汪烏家1人で、殺害されたか事故で溺死したかは論議がある。いずれにせよ、「本省人」が多い時は、「外省人」の軍人を迫害する。しかし、中国大陸にあった国民党政権の中央政府は、台湾に1万人以上の「整編21師」を派遣した。この派遣軍が到着すると、強弱の立場は瞬時に逆転し、軍人が報復を始める。
しかし、当の荷運び人夫と一般の乗客は逃げてしまっている。軍人は、駅員が意図的に列車を停車させ、群衆が軍人を殴打しやすくしたうえ、さらに荷役労働者をかばい、名簿を引き渡さなかったと考えた。そのため、おそらく、殺人には加担していない、たまたま宿直で居合わせた職員たちを、軍人は報復の対象としてしまった。八堵駅事件も含め、二・二八事件は、恨みが恨みを呼び、報復が報復を生むという、悲劇の連鎖だった。
Q:二・二八事件で国民党政府軍が台湾住民を殺害したことが、今日の「本省人」と「外省人」の対立の根底にあるとの解釈が支配的だが。
A:中国近現代史や国際情勢の角度も踏まえて考察すれば、今日の台湾で一般的とされる解釈と異なる景色が見えてくる。強弱が逆転する時、前政権の協力者の多くは新政権とも協力する。政権協力者の寝返りは、台湾も含め珍しいものではない。
二・二八事件当時、台湾の日本植民地時代の対日協力者の多くが、国民党政府支持へと寝返った。大日本帝国も反共国家だったので、自己合理化も比較的に容易だった。一方、日本植民地下の反共政策で弾圧された人たちも、三民主義青年団に加わるなどして国民党政府支持のグループに流れ込んできた。彼らは、国民党政府に寝返って1年ほどすると、主に日本が敗戦後に台湾に大量に残した資産を巡って、互いに衝突するようになった。
当時、寝返った者のほとんどが「本省人」で、日本資産のありかを熟知していた彼らが、まず接収した。そして、正式に接収する陳儀らが中国大陸から台湾にやって来ると、事前に接収した資産の処理が始まったが、そこで上部と下部が結託して悪事を働く事態が多発した。誰が横領した、詐取したなどの非難合戦が発生し、それが政治闘争へと発展し、混乱を極めた。日本資産の利益帰属は、互いに殺害し合ったことよりも、より根源的な要因である。
Q:現段階では、「陳儀らの汚職と腐敗がひどかった」というのが、二・二八事件の原因と目されている。
A:当時の新聞報道を見れば分かるが、相手方こそ汚職塗れで不正に手を染めていると、異なるグループが誹謗中傷し合う関係にあった。一時は陳儀らが局面を制したかに見えたが、陳儀は事件発生から間もない3月22日、事件の責任を取って解任される。最終的には勝ったのは特務機構だった。 (関連記事: 台湾祝日“二二八”とは? 二二八記念日の由来と死者数:80年前の語られざる秘密 | 関連記事をもっと読む )
陳儀の更迭後、1949年に国民党政権の中央政府が中国大陸から全面撤収して来るまでの数年間、特務機構の協力者は、政府内の重要な職位に広く配置されていた。二・二八事件の中で、特務機構は多くの暗殺や水面下の取引に関わった。二・二八暴動に参与した大部分の者は生かされ、多くが特務機構の協力者となった。
中国大陸にあった当時の国民党中央政府は、二・二八事件を重大な事件だとは考えておらず、最大の関心事は共産党の問題だった。事件で暗殺されたり、行方不明になったりした人の多くは、第三者によって共産党員だと告発・通報され人たちだ。共産党員ではないのに、私怨によって誣告された者も少なくない。
秩序の混乱に乗じてライバルや政敵を告発し、その政敵が行方不明になった後に「陳儀の仕業」と称する者もいた。本来なら、事実に基づいて一つ一つ検証しなければならない。しかし、個々の案件が複雑さを極め、事実と異なる通説が台湾住民に広く深く浸透している今日、事件の真相を説明することは極めて困難な状態になっている。
Q:当時、社会が混乱を極めた原因は何だったのか。
A:一つは、戦争状態だった点だ。戦争状態下で司法が正常に機能しない。司法とは理性であり、証拠なくして罪に問うことはできないが、戦争状態となるとそうはいかない。当時、共産党のスパイをどう処遇したか。「生きている共産党員は、死んだ共産党員より使い勝手がいい」という言い方がある。
戦争状態下で、相手方の重要人物を利用できれば、より効果的に相手方の組織を壊滅できる。当時、犯罪捜査の段階で一度ふるいにかける。もし、その人物に当局と協力する意思があれば、刑事罰の追求対象から外れる。一方、共産党員か否か分からないグレーゾーンの有力者が銃殺されている。
民進党は、2016年に蔡英文政権が発足した後、「移行期の正義」を掲げる「促進転型正義委員会(促転会)」(注4)という政府機関を設置した。台湾の場合、「移行期の正義」とは、国民党による権威主義統治時代に政府により行われた不当な行為を指している。その法的根拠となった条例(注5)に、「権威主義統治時期(注6)における自由民主的憲政秩序に反する不法行為およびその結果については、本条例に基づき、その移行期正義に関する処理事項を企画・推進するものとする」と書かれている。
ここだけに限定すれば必ずしも間違いではないが、当時が戦時の非常事態下にあり、敵側の組織化された力の瓦解があらゆる事柄に優先されていたことを見落としている。
「自由民主憲政」がまがりなりにも実施されている現在の基準に照らし合わせて、二・二八事件も含む戦時の事件を論じるのはナンセンスだ。しかも、事件発生時、中華民国憲法はまだ施行されていない(注7)。それを、現在の憲政体制の基準を用いて論じることは不合理だ。
軍法裁判は行政権、法律裁判は司法権だ。ところが、当時の判決を行政機関が否定したのだ。これは、いったいどのような根拠に基づくのだろうか。憲法の規定で、一人だけその行為が許される。総統だ。総統には、特赦、赦免の権限が付与されている。当然、権限行使には政治責任が伴い、国民の監督を受けねばならない。 (関連記事: 台湾祝日“二二八”とは? 二二八記念日の由来と死者数:80年前の語られざる秘密 | 関連記事をもっと読む )
しかし、民進党政権の総統は、赦免や特赦をやってみせたいが、国民からの監督は受けたくない。そこで、「促進転型正義委員会」を設置し、非公開の会議を通じて過去の判決をひっくり返した。これは間違いだ。
かつての「二・二八基金会」(注8)、「促進転型正義委員会」、そして今日の「権利回復基金会」(注9)などは、いずれもあまりにも大きく、しかも監督を受けない権力を行使してきた。特に「権利回復基金会」は、公開のプロセスを経ずに400億~500億台湾元(約2000億~2500億円)に達する賠償額を、過去に法に基づいて没収され、現在では天文学的な価値にまで達した不動産を、「返還」という形で自由に認定することができた。その権利回復基金会の責任者(董事長)の張文貞氏(注10)は、後に司法院長に指名されたことがある人物だ。
二・二八事件や「白色テロ」(注11)での被害者に対しては、政府から補償金が支払われている。しかしこの「権利回復基金会」は、すでに補償金が支払われていたすべての人々(最高額は600万台湾元)に対して、再び2回目の補償を実施した。このことは多くの人が知らない。
台湾の戒厳令時代(注12)、共産党スパイ容疑など反乱罪で判決を受けた場合、財産が没収された。当時の判決が取り消されて無効となった現在、判決自体が存在しないこととなる。そうなると、受刑者が受けた刑罰はどうなるのか。身体に対する刑罰、死刑や懲役、禁固刑などは、金銭で補償した。
しかし、没収された財産については当初、手つかずのままだった。「権利回復基金会」はその返還に関する処理事務の役割を担った。返還の当否や正当性については、複雑な問題なのでここでは論評しない。立法院で可決された法令である以上、一定レベルの民意の基盤も存在するだろうから、その点は尊重する。
しかし、没収した財産の返還作業に、天文学的な金銭的利益が伴う事実は指摘しておく。正当な返還であれば、当然実施されるべきだ。しかし、返還は社会の監督を受けなければならない。だが、「権利回復基金会」は完全に非公開で、さらにどの被害者を根拠として返還が行われたのかについても、外部に対して一切説明していない(注13)。
同基金会は、全額国家の資金で運営されている組織であり、法律に従い会議の記録や重大な決定事項を公開する義務がある。しかし、これまでのところ、補償の妥当性や計算の基準、補償の内容などが全く分からない。ここで使われるのは血税なのにだ。
Q:なぜ公開しないのか。
A:それこそ、張文貞氏に問うべき問題だ。法律の規定に従うなら、公開しなければならない。過去に公開されたすべての会議記録は、議案を非常に簡略に列挙しただけに過ぎず、その結論部分には、「洽悉(了解)」と書かれただけの代物だった。会議のプロセスや決議の内容への具体的な言及は一切ない。この基金会の権限は、二・二八事件の処理にかかわる従来のいくつかの基金会などの中で最も大きく、関わる領域が最も大きい。しかし、最も監督を受けていないのもこの基金会だ。 (関連記事: 台湾祝日“二二八”とは? 二二八記念日の由来と死者数:80年前の語られざる秘密 | 関連記事をもっと読む )
Q:具体的な案件はあるか。
A:劉伝明(または劉明)という人物の案件が指標になる。劉氏は当時、台湾で炭鉱を経営する鉱業の有力者だった。反乱罪で裁判を受け、懲役10年の刑に服し、財産も没収された。その財産を返還するとなれば、天文学的な数字になるだろう。しかも、一部の土地は国有地になっている。
その土地が現在使用されていないのであれば、現物返還も可能だろう。だが、これまでに何人かの手を経ている物件の場合、現物返還ができない。その場合は、現金で返還することになるが、これをどう計算するのか。一部の犠牲者や被害者の没収財産の返還は始まっているが、公開されているのはトータルの返還金額だけで、その明細・詳細については公表されていない。
さらに疑問を抱かせるのは、近年公開された政府文書によれば、劉傳明本人が二・二八事件期間に政府側へ寝返り、任命された「別働隊」副隊長であり、特務活動と深い関係があったという点である。こうした事情を明らかにしないまま、当時の判決を急いで覆そうとするのは、あまりにも稚拙だと言わざるを得ない(注14)。
Q:以前から、二・二八事件の犠牲者数の水増しが指摘されていた。
A:真相究明に際しては、事実に即した論述が不可欠だ。しかし、複雑な要因が絡み合い、様々な原因から監督の目が届きにくいのが現状だ。
二・二八基金会が取りまとめた報告書『二・二八事件真相與転型正義報告』(2021年)は、「促転会」が任務を終えるに当たってまとめられた総括報告の一部分で、全体の中には二・二八事件と「白色テロ」の部分も含まれている。しかし、「促転会」は「白色テロ」の報告だけをまとめ、二・二八事件の報告は「二・二八基金会」に任せ、経費も出した。
しかし、「二・二八基金会」がここで持ち出した犠牲者(死者と行方不明者)の数字は、非常に問題がある。まず、犠牲者数について、それぞれの言い分が大きく食い違っている。ある者は数百といい、ある者は1000人程度だという。さらに1万、3万、5万と諸説ある。十万人説もある。
2016年に蔡英文が総統に当選し、民進党が与党に返り咲いた後、呉乃徳氏(注15)ら民進党側の学者らが、本音を語り出した。呉乃徳氏は、「二・二八事件の死者数は約1000人だ」と語った。その上で、「こう考えるのは自分だけではない。林献堂(注16)の日記にも書かれている」と言った。
二・二八事件の犠牲者や被害者に対する名誉回復運動は、すでに20年以上続けられており、補償請求の受理期間を何度も延長してきた。今日までに申請があって、確定した総数は約800件だ。私も、二・二八事件の遺族の一人で二・二八基金会前執行長の廖継斌氏(注17)と共に資料などを読み込んだが、歴年のすべての研究成果やオーラルヒストリーの記録を含め、最大限に見積もったとしても、現段階での結論は1100件には達していない。 (関連記事: 台湾祝日“二二八”とは? 二二八記念日の由来と死者数:80年前の語られざる秘密 | 関連記事をもっと読む )
数年前、私とは政治的な立場を異にする若い学者が、統計学の立場から当時の資料を用いて推計し、「二・二八基金会」主催の学術研究討論会で論文を発表した。その中で、「約1300人」と発表された時のことだ。その数字が発表された途端、会場は発表者に対する非難にあふれた。壇上の参加者も「当時の外電報道が3月4日以前に三、四千人が死んだ」と報じているのに、なぜ1300人しかいないと言うのだ」と非難した。結局、この論文は検討会の論文集には収録されなかった。
私は2024年にイベントを開催し、台湾大学学長を経験し、中央研究院院士でもある計量経済学者の管中閔氏を招いて本論文を評論してもらったが、管氏は当該論文を高く評価した。
学術とは一つの前提のもと、推計や推測を行う。だから、仮説の間違いや推計方法の問題点を指摘するのはかまわない。しかし、研究者の動機を疑い、「国民党を弁護している」などと批判し始めると、学術研究とは呼べない。何より犠牲者に失礼だ。
しかし、これが台湾における二・二八研究を取り巻く空気なのだ。現段階で私たちが確認可能な資料に基づき確定できるのは、1000人前後という数字だ。もちろん、将来新しい証拠や資料が出てきた場合、この数字は変わるかもしれない。研究には科学的な態度と共に、開放的な姿勢が必要だ。
では、1万人などという犠牲者数はどこから出て来たものか。実際に補償請求のあった人数の10倍以上だ。このうち、1万人説を唱える報告書は、「二・二八基金會」前董事長の薛化元氏(注18)らが共同で書いたものだ。薛氏は台湾史研究において非常に重要な学者であり、犠牲者が1万人というその結論はウィキペディアにも引用されており、そのため一般の人々はこれが学術界の通説だと誤解している。
しかし、この結論はあまりにも誇張されており、事実からかけ離れている。薛化元氏は、公的な政府側資料で確認できた犠牲者の数は少なく見積もっても8000人から1万2000人だと結論付けている。では、「公的資料」というものに、個人の回顧録は含まれるのか。戸籍資料はどうなのだろうか。
Q:公的資料に回顧録は含まれない。戸籍資料は公的資料だ。
A:そうだ。しかし薛化元氏の名の下で発表された論文の中では、かつての政府関係者が事後に書いた回顧録の文章も、政府の公的資料に無理やり組み込んでいる。しかも、戸籍資料については、「しかし本研究における政府系資料には、戸籍資料は含まない」と、わざわざ明記している。結果、彼が論文の中で述べる数字は、極めて疑わしいものとなっている。
薛化元氏らが主張するところの8000人から1万2000人のうち、一つは、国民党政権の元監察委員(監察院は公務員・国家機関の不正に対する弾劾権・糾挙権を持つ中華民国の政府機関。監察委員はその構成メンバー)で、後に中国共産党に寝返った人物、何漢文が書いた「台湾二・二八義起見聞記略」(『湖南文史資料選輯』第四輯/1963年6月)に由来している。そのような人物が逃亡先の共産党に気に入られるため書いたものであるため、当然ながら事実を差し置いて蒋介石(元総統。二・二八事件発生当時の国民党政権トップ)の悪行を書き連ねる内容になる。 (関連記事: 台湾祝日“二二八”とは? 二二八記念日の由来と死者数:80年前の語られざる秘密 | 関連記事をもっと読む )
何漢文はこの中で、「事件後に視察先の某所で2000人が死んだと聞いた」などと書いていると、薛化元氏らはその数値を何ら検証することなく、そのまま採用している。早期の二・二八研究は、犠牲者を一人ずつ確認するレベルの調査が行われていた。一人ずつ名簿と突き合わせる作業を経ることで、事実誤認や資料の間違いが指摘されてきた。だが、共産党に寝返った元役人が書き、共産党側の刊行物である『湖南文史資料選輯』に掲載された文章が、中華民国政府の公的な資料であるはずがない。薛化元氏らが作成した報告書の中で、およそ半分がこの文章を根拠としているのだ。
このほかに、全体の約4割がかつての「保密局」(国民政府軍事委員会調查統計局、「軍統」とも呼ばれる。のちに国防部情報局と法務部調查局に改組される)の南京ステーション(南京站)が外電報道から得た情報だ。その中に、事件当日に4000人が死んだ、などの報道があり、検証せずにそのまま算入している。薛化元氏らは、犠牲者は少なくとも8000人から1万2000人と称するが、上に挙げた二つの資料だけで8000人の枠がいっぱいになってしまう。
Q:そうだとすると、犠牲者の人数が大きく水増しされていると考えてよいのか。
A:例えば、事件当日4000人が死んだというデータがあり、もう一方で3月10日までに500人が死んだというデータがあったとする。もし、3月10日までに500人が犠牲になったのであれば、「事件当日4000人死亡」説は成り立たなくなる。その逆も成立しない。普通なら、どちらか説得力のある数字を選ぶだろうが、薛化元氏らの論文では、両者のいずれの説も採用し、その合計値を犠牲者数に算入している。
論文のいたるところに、同様の問題が含まれている。私や廖継斌氏から見れば、報告書は根拠不明な数字も含め、目の前に数字があれば何も考えずにすべて「公的資料」の数値と称して混入させているようにしか見えない。
薛化元氏らが「少なくとも8000人から1万2000人」と称する犠牲者数から、根拠に乏しいこのような数値を外してゆくと、最後には私たちの調査結果から出てきた約1000とほぼ同じ数字が出てくる。
Q:遺族の一人である廖継斌氏は、数字の水増しは真の犠牲者やその遺族に対する侮辱だ、と語っている。
A:二・二八事件から78年が過ぎた今日でも、犠牲者の遺族が事件を語るに際して強い感情に駆られるのは十分理解できるし、しかし、私たちの世代は、落ち着いて濁りや偏差のない目で史料を読み込むことで、あの年代の出来事を公平に評価する必要がある。
二・二八事件の犠牲者・被害者の名誉回復は、「二・二八事件処理および賠償条例」(注19)という法律に基づいている。条例は立法院で採択され、民意の基礎が備わっている。
第1に、この条例は冒頭部分で、歴史の傷を癒し、社会グループ(族群)間の融合を促進することが、最大の目標に掲げられている。第2に、何があっても史実に反してはならず、真の歴史を捻じ曲げてはならない、と書かれている。翻って前任董事長の薛化元氏、現任董事長の楊振隆氏、執行長の藍士博氏らは、条例で定められた彼らの使命を胸に、社会クループ間の融合を促進する努力をしているだろうか。史実と相反するような解釈を加えていないだろうか。この点には大きな疑問が残る。 (関連記事: 台湾祝日“二二八”とは? 二二八記念日の由来と死者数:80年前の語られざる秘密 | 関連記事をもっと読む )
彼らの論文は、「国家の暴力による犠牲者は研究の対象だが、民間の暴力による犠牲者は対象としない」ことを前提としている。二・二八事件において、「外省人」の被害は主に「本省人」の暴徒によるもので、国民党政権の軍隊など国家の暴力装置よるものではない。国家の暴力のみを語り、暴徒を不問に付し、さらには暴徒も一律で被害者とみなすということは、大部分の「外省人」の犠牲者について語らないという姿勢であり、納得できない。一方に偏った正義は、真の正義などではない。
「国家の暴力に限定する」という意思表示は、すなわち彼らが想定する狭義の「台湾人」(本省人のうち、『台湾人』を自称する閩南系漢族が主体)のみを犠牲者として認定しようとするものだ。その上で、8000人から1万2000人の「台湾人」が「中国人」に殺された、と主張するつもりなのだろう。
Q:著書や講演で以上のような観点を主張したことに対し、批判はなかったか。
A:もし、私たちの指摘に問題があれば、それを指摘し正せばよい。しかし、私たちが批判した薛化元氏本人から、今日に至るまで何の反論も反駁もない。
薛氏の取り巻きらによる非難めいたコメントはあるが、見当違いな誹謗中傷が多く、話にならない。私たちが対話を求めている相手は薛化元氏本人であり、その他の者ではない。今も薛氏本人からの反応、もしくは反論を待っている。
薛化元氏の論文は、もともと「移行期の正義」の報告の一環であり、「促転会」が終了した段階で報告を完成させなければならなかった。先にも述べた通り、二つの部分からなる報告のうち、「白色テロ」の部分は完成し、当時の蘇貞昌・行政院長(首相に相当)に提出されている。しかし、二・二八事件の部分の報告は未提出のままだ。
行政院長に提出すれば、そこで初めて立法院(議会に相当)による検査を受けることになる。民間による監督も可能になる。しかし、未提出のため、監督を受けることができない状態にある。
Q:行政院に提出されていないのに、論文は見ることができるのか。
A:「二・二八基金会」が『二・二八事件と轉型正義真相報告』という本を出版している。報告書としては、行政院に提出していない。なお、紙版の本とは別にCD版があり、すべての内容はCD版に収められている。報告の中で上げている8000から1万2000人の犠牲者数の根拠については、CD版に記載されているが、紙版の本にはそれがない。
Q:あなたは、「外省人」に当たる。その立場から、研究の公正さや動機を疑われることはないだろうか。
A:当然ある。残念なことに、「外省人」の犠牲者の遺族が追悼式典に参加しようとしたところ、台湾独立派の「本省人」の遺族から、「外省人は来るな」と排斥されたという話を聞いた。同じ犠牲者の遺族なのに、「外省人」ということで排斥される。私のような人間を排斥したがる者がいてもおかしくはない。
Q:「外省人」という、一種の「部外者」的な立場が研究に有利に働くことはないか。
A:「外省人」であるために排斥されることはあるが、このテーマにおいては、正常なことだとも思う。一方で、私たち部外者から見れば、「本省人」という立場が、かえって彼らの二・二八事件に対する理解の限界を作っているようにも見える。 (関連記事: 台湾祝日“二二八”とは? 二二八記念日の由来と死者数:80年前の語られざる秘密 | 関連記事をもっと読む )
私は以前、二・二八事件に関する学術シンポジウムに参加した時、関する早い時期から二・二八研究に取り組んでいた教授たちが、「当時、機密解除されたばかりのある資料を目にして驚嘆した」と語るのを聞いたことがある。というのも、この資料に準拠して研究を進めた場合、「台湾人は暴徒だった」という結論に落ち着くのだ。そこで彼らは、大量の口述記録を始めた。口述を取ることは素晴らしいことだ。口述であれ、政府のデータであれ、いずれも史料だ。
しかし、これは現在の台湾史研究における落とし穴だと思うのだ。あまりに偏った史観が研究者の視界を狭め、判断を歪めている。歴史家は、史料に偏見を抱いてはならない。政府の資料は信用できないが口述は信用できる、などといった姿勢は間違いだ。どの史料も、ほかの史料と比較するなどして複数の面から確認を行い、正常かつ合理的な基準に基づいて推測と考察を行う必要がある。
しかし、今日の台湾では「蒋介石は悪魔だ」などの感情論ばかりが先走り(注20)、正常な判断基準を超えた言説が幅を利かせている。その背景には、彼らの政治目的に合わせて史料を利用しようという思惑がある。だとすれば、口述記録を用いる研究者がいかに巧みに口述記録を活用したとしても、それが一種の物語であることを忘れてはならない。
Q:あなたの研究は、台湾での「本省人」と「外省人」の対立を緩和する一助になるだろうか。
A:政治的な動員を図る目的で、出身地などに代表される偏狭な意識を扇動し、無制限に拡大解釈することで、社会の分断を激化させ、自分に都合の良い動員を可能とする。二・二八事件の真相解明や研究においても、「本省人」の「大台湾主義」と呼ばれるイデオロギーに基づいて解釈しようとするグループが存在する。
「本省人」の中にも、さまざまな考え方や意識の人がいるにもかかわらず、政治動員に際しては、敵味方を明確に区別し、敵と見做した者と一線を画すことが求められる。しかし、実際の生活で、単純な二分法は百害あって一利なしだ。二・二八事件を研究するのは、敵味方を二分する社会にさせないための試みなのだ。
Q:今日の台湾社会は深刻に分裂しているように見えるが、これをどう見ているのか。
A:戦争が発生する原因は、政治が瓦解し、政治的手段で解決できなくなることにある。私たちは、語り合うことでお互いの距離を縮めることができ、友達付き合いができる。これが、政治的な問題解決の概念だ。戦争をせず、政治を通じて解決や打開を図るのだ。完全に決裂したり、道理を重んじなかったりという事態は、避けなければならないと思う。これは、私が二・二八事件を研究する動機であり、廖継斌氏に協力する理由でもある。
二・二八事件は、現在の民進党政権下の「二・二八基金会」が言っているような、「中国人による計画的な台湾人虐殺」などでは断じてない。このような歴史解釈は、事実に符合しないばかりでなく、私たちの将来に多くの禍根を残す。私たちは彼らの言説を強く批判している。 (関連記事: 台湾祝日“二二八”とは? 二二八記念日の由来と死者数:80年前の語られざる秘密 | 関連記事をもっと読む )
二・二八事件であれ、戦争や内戦であれ、いずれも秩序が失われた状態で発生している。軍や警察の能力が瓦解したとき、町中にヤクザ者や武装勢力が溢れる。人々の最も基本的な安全が保障されなくなった結果、そこでは弱肉強食の「ジャングルの法則」がルールとなり、強いものが弱いものを虐げ、多数のものが少数の者を抑圧する。政治的な手段が行き詰まると、ある者は暴力に訴えるようになる。そして弱肉強食の原則の下で、恨みが恨みを呼び、報復が報復を生む。
二・二八事件が私たちに残した最大の歴史的教訓は、秩序喪失の状態を二度と起こしてはならない、ということだ。
●注釈
(注1)「外省人」とは、戦後に台湾に渡ってきた中国大陸出身者とその子孫。本来は中国の各省で省外から来た人という意味で使われるが、本稿では台湾に限る。「本省人」とは、戦前からの台湾住民とその子孫。本来は中国の各省で同じ省の人という意味で使われるが、本稿では台湾に限る。
(注2)「移行期正義」とは、ある社会において発生した大規模な人権侵害に対して、その社会が向き合い対処する試みを指す。中国語は「転型正義」。
(注3)『ウィキペディア(Wikipedia)』「二・二八事件」
(注4)促進転型正義委員会」。略称は(促転会)。省庁クラスの政府の独立機関。2018年5月31日に設置され、2022年5月30日に解散した。解散後に業務は「行政院推動転型正義会報と人権と転型正義処」に引き継がれた。
(注5)2017年12月5日に制定された「促進転型正義条例」。
(注6)権威主義統治時期とは、1945年8月15日から1992年11月6日までを指す。
(注7)中華民国憲法の施行は中華民国政府が中国大陸にあった時代の1947年12月25日。二・二八事件の発生はそれより前の同年2月28日。
(注8)「二・二八基金会」の正式名称は「財団法人二・二八事件紀念基金会」。1995年4月7日に制定された「二・二八事件処理および補償条例」に基づき、同年12月に開設された。中華民国政府からの委託を受け事件処理を行う基金会だ。
(注9)「権利回復基金会」の正式名称は「財団法人威権統治時期国家不法行為被害者権利回復基金会」 (権威主義統治時期の国家の不当行為による被害者の権利を回復する基金会)。「威権統治時期国家不法行為被害者権利回復条例」に基づいて設置された。
(注10)張文貞氏は、2024年に頼清徳総統から司法院大法官(最高裁長官に相当)および司法院院長に指名された、民進党政権に近い法律家だ。この人事案は国民党と民衆党を合わせた野党が主導する立法院(議会)で承認されなかった。
(注11)「白色テロ」(白色恐怖)とは、二・二八事件以降の戒厳令下において、国民党政権が反体制派に対して行った政治的弾圧を指す。厳密にいえば「レッドパージ」のみを指す。
(注12)国民党政権は、台湾に1949年5月20日から1987年7月15日までの38年余り、戒厳令を施行した。戒厳令下では、政治活動や言論の自由は厳しく制限され、人権抑圧が行われた。なお、福建省所属の金門県と連江県の戒厳令は1956年から1991年。
(注13)「財団法人威権統治時期国家不法行為被害者権利回復基金会」の「公開資訊」(https://www.rrf.org.tw/subsidy_list)、「2025年12月26日 第2屆第11次董事及監察人會議記録」(https://www.rrf.org.tw/news/199)
(註14)林正慧「二・二八事件中粋保秘局」(2024年9月『台湾史研究』第21卷第3期,中央研究院台湾史研究所)
(注15)呉乃徳(1949年~)。中央研究院社会学研究所兼任研究員、台湾民間真相と和解促進会発起人、台湾政治学会初代会長。
(注16)林献堂(1881~1956年)。日本統治時代の台湾の民族運動指導者、実業家。台湾文化協会総理、台湾地方自治聯盟顧問、日本の貴族院議員、台湾省参議会議員などを歴任。
(注17)廖継斌(1951年~)。台湾大学法律学科卒業。米国マイアミ大学留学。2009~2016年、二・二八基金会執行長、2011年から二・二八国家紀念館館長を兼任。祖父の廖進平氏(1885~1947)は、二・二八事件発生後、憲兵に逮捕され殺害された。
(注18)薛化元(1959年~)。台湾大学歴史学博士。政治大学台湾史研究所・歴史学科教授、2016年9月~2025年7月に二・二八事件紀念基金会董事長(会長)。
(注19)「二・二八事件処理および賠償条例」は、1995年に制定された。その後、数回の改正を経ている。制定の目的は、二・二八事件の補償事務を処理すること、そして国民に事件の真相を理解させ、歴史の傷を癒やし、社会グループ(族群)間の融和を促進することだと明記されている。
(注20)頼清徳総統は2025年2月28日の二・二八事件78周年に当たって、「独裁者の蒋介石は大陸での戦局が敗退を続ける中で、台湾に来た時の統治を可能にするため、天にも届くほどの重大な罪行を犯した」「数え切れないほどの無実の人々が捕らえられ、台湾への影響ははかり知れない」などと語った。
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編集:梅木奈実

















































