日本が「国難」級の少子化危機に直面するなか、東京都は硬膜外麻酔による無痛分娩の補助制度を打ち出した。女性の身体的苦痛を和らげ、絶望的な水準に落ち込む出生率に一筋の希望をもたらす狙いだ。『ウォール・ストリート・ジャーナル』は11日、これは単なる公衆衛生政策ではなく、伝統的な母性観への「穏やかな宣戦布告」であり、「激痛に耐えてこそ子どもと最も深い絆が結ばれる」という日本の母親に長年根付いた“呪縛”に挑む動きだと指摘した。
2023年に第二子の出産を控えていた西村萌子さんは恐怖心に包まれていた。2019年に長女を出産した際の、身を引き裂くような痛みと、産後の長く苦しい回復期間の記憶が忘れられなかったからだ。
「当時は日本の伝統的な考え方に少し縛られていました。『自然分娩の痛みを経験しなければ本当の母親ではない』という思い込みがあって、第一子では硬膜外麻酔を選びませんでした」と西村さんは振り返る。「今でも後悔しています。」
そこで第二子では選択を変え、無痛分娩で健康な男児を出産。産後の回復が驚くほど早かったという。「硬膜外麻酔分娩が当たり前になってほしい。」——その声は個人的な願いにとどまらず、東京都の焦りとも思わぬ形で共鳴した。
かつて経済奇跡を生んだ日本は、いま目覚ましい速度で高齢化が進む。政府統計によれば、2024年の新生児数は約68.6万人と、10年前の100万人超から崖のように減少。しかも同年の死亡数は出生数の2倍超に達する。2008年の人口ピーク以降、十数年で総人口は約400万人減り、約1億2400万人となった。
2023年の合計特殊出生率は1.2にとどまり、人口維持に必要な2.1を大きく下回る。これは冷たい統計であると同時に、国家の未来への警鐘だ。政府は長年、育児補助や税制減免などの「産みやすい環境」づくりを進めてきたが、効果は限定的だった。
こうした背景の下、東京都の無痛分娩補助は、斬新さと同時にどこか切実さを帯びて登場した。分娩時鎮痛の費用の一部を公費で負担し、新生児数の微増を狙うとともに、「無痛分娩」にまとわりつく文化的スティグマを少しずつ剝がしていく考えだ。
「根性論」が産室に入り込むとき
この政策が大きな関心を集めるのは、経済的誘因に加え、日本社会に根強い価値観に正面から挑むからだ。
日本産婦人科医会のデータでは、2024年に日本で硬膜外麻酔を用いた分娩は13.8%にとどまる。先進国としては異例の低さだ。対照的に、アメリカ疾病管理予防センター(CDC)の2022年データでは77%、フランスなど欧州諸国では80%超に達する。
東京で30年以上の経験を持ち、800人超の出産に立ち会ってきたベテラン助産師の斎藤久子さんは伝統派の立場だ。「私は自然が一番だと思っています。」とし、分娩の痛みが母子の絆を強めると信じる。「硬膜外麻酔を使った母親は、その後に赤ちゃんを抱いたり、あやしたりするのが難しいと感じることがあると思います。」と語り、「これは日本人には合わない医療手法だと思います。」と言い切る。
「痛み」と「母愛」を同一視するこの見方は、産室に持ち込まれた「根性論」の延長のようでもある。最も脆弱な時期に「良い母であることの証明」を背負わせる強い社会的圧力を生み、多くの女性を縛ってきた。
「日本の友人たちが無痛を選べない理由は、情報が不足からくる恐怖が大きい。背中に注射と聞くだけで怖くなる」広瀬由香さんは話す。彼女は2015年に日本で第一子を無痛なしで出産。2017年に英国で第二子を産んだ際、硬膜外麻酔への否定的見方がほとんどないことに気づき鎮痛を選択。昨年、日本で第三子を出産した際も迷わず同じ選択をした。
2021年、出産直前に無痛を検討しただけで夫から強く叱責されたという匿名の母親もいる。二度の流産を経た末、夫の反対を押し切って自らの選択を貫いた。
この「やさしい戦争」は、長年続いた母性神話と、現代医療・女性の自己決定権のせめぎ合いでもある。日本産科麻酔学会および周産期医学会の会長、寺井勝雄医師は科学と共感の立場に立ち、この「痛み=愛」という観念を子供のころから聞いてきたと言うが、彼は反論する。「父親は分娩の痛みを経験していませんが、それでも子どもと深い絆を築いています。」
「痛みが母子の絆形成にどれほど重要か——私は全くそうは思いません。」と寺井医師。長年の“神話”の虚構性を端的に突いた。
「痛みなく産みたい」を阻む二重の壁――費用と麻酔医不足
文化的なプレッシャーに加え、現実的な障害も大きい。
まず費用の問題がある。日本では硬膜外麻酔が国民健康保険の給付対象外であることが多く、希望する産婦は自費で受け入れ可能な民間クリニックを探さなければならない。東京都の調査によると、このサービスの平均費用は約12万4,000円に上る。
この壁を突破しようと、東京都は2025年10月1日から新しい補助制度を導入する。首都圏の約119の指定医療機関で無痛分娩を受ける産婦に対し、最大10万円を助成する仕組みだ。全額をカバーするわけではないが、経済的負担は大きく軽減される。
この計画を担当する東京都の和田詩織さんはこう語る。「調査の結果、無痛分娩を望んでも費用の問題で諦めざるを得ない人が多いことがわかりました。」
次に、医療資源の偏在がある。硬膜外麻酔は専門の麻酔科医が行う侵襲的医療行為であり、都市部では医療資源が比較的豊富なため選択肢があるものの、地方では麻酔医の不足が深刻な壁となっている。
「東京のような大都市では、無痛分娩を希望するかどうかに応じて病院を選べますが、地方ではそうはいきません。たとえば北海道のような地域では、そもそも選択肢が存在しないのです。」元助産師で、現在はオンライン妊産婦相談サービスを運営する中島真美子さんは、地方と都市の格差の現実を指摘する。
産台の壁を壊した先に見えるもの
多くの専門家は慎重な見方を示す。政策によって女性が出産時の選択肢を持てるようになり、身体的・精神的な負担を軽減するという点では大きな前進だと認めつつも、少子化の根本的な解決策にはなり得ないとする。
この計画を担当する和田さんも、「出生率の低下は多面的な要因によるもので、単一の施策で解決できるものではない」と現実的な見解を示した。
神奈川人類サービス大学副教授であり、母親と助産師に分娩痛の情報を提供する「東武無痛カフェ」の共同創設者でもある田邊恵子さんは、さらに深い分析を行う。彼女によれば、日本における最大の障壁は「分娩の痛み」ではなく、母親が依然として育児の大部分を担っている現実にある。
政府は長年、父親の育児休暇取得を推進してきたが、「夫は外で働き、妻は家庭を守る」という伝統的な分業意識は根強い。母親たちは、育児の責任を一手に引き受けながら職場復帰を模索している。
「今の日本では、母親は“すべてを一人でこなした上でキャリアを維持する”という状況に追い込まれています。そんな中で、子どもを産みたいと思えるでしょうか? あり得ません。」と田邊さんは断言する。
彼女の言葉は核心を突く。もし分娩の痛みが現代医療で取り除ける「爆弾」だとすれば、育児の重圧こそが、すべての女性の前に立ちはだかる“ラスボス”なのだ。
静かなる革命のはじまり
東京都の無痛分娩補助は、この長い闘いの序章としての「やさしい鎮痛剤」である。直接的にベビーブームを生むわけではないが、極めて重要なメッセージを放っている。国家が女性の痛みに正面から向き合い、身体の自主権を認め始めたということだ。
産室から始まったこの「静かな革命」が、やがて社会全体に広がり、性別役割や家庭責任という硬直した構造を動かせるかどうか。その答えが、日本の未来を決定づけることになる。