米国のトランプ大統領は19日、予告なしに「H-1B就労ビザの申請料を10万ドル(約1,480万円)に引き上げる」と発表し、21日から即日施行すると宣言した。この突然の政策は米国企業や数十万の外国人労働者に大きな混乱と不安を引き起こし、週末には世界規模で「帰国ラッシュ」が発生した。しかし20日、ホワイトハウスの報道官は「10万ドルは一度きりの費用で、毎年発生するものではない。対象も新規申請者のみ」と説明し、鎮静化を図った。
企業が「限時返美令」を展開
アマゾン、グーグルの親会社アルファベット、マイクロソフトなど米テクノロジー大手は、トランプ大統領がH-1Bビザに対して10万ドル(約1,480万円)の申請料を課すと発表した直後、従業員に緊急通知を出した。米紙ウォール·ストリート·ジャーナルが入手した内部文書によれば、各社はH-1B保持者に「一時的に米国を離れるな」と警告。すでに出張や休暇で国外にいる従業員には「20日中に帰国しなければ、21日施行の新規則で入国できなくなる恐れがある」と通達した。
これらの企業は数千人規模のH-1B保持者を雇用しており、米国土安全保障省の最新統計によれば、マイクロソフトとアマゾンだけで合計1万5,000件超の承認実績がある。そのため「1人あたり10万ドル」という巨額負担が現実化するのではないかと危機感が広がった。
週末、人事部門は総動員され、社員の現在地を確認し、必要に応じて米国便の手配まで進めた。移民弁護士事務所にも問い合わせが殺到し、電話やメールがパンク状態になったが、弁護士ですら「制度があまりに曖昧で明確な回答が出せない」と困惑している。
「予兆は一切なく、突然の発表だった」と語るのは、移民法に詳しいフィッシャー・フィリップス法律事務所のパートナー、シャノン・R・スティーブンソン氏だ。新方針が出た直後から、医療から製造業に至る幅広い顧客の問い合わせに追われているといい、「これは壊滅的影響をもたらす」と断言した。
その影響は世界各地の移動にも波及した。SNSには「会議中に呼び出されて空港へ直行した」「アブダビ経由で入国手続きを試みた」「予定していた旅行を泣く泣くキャンセルした」といった声が次々と投稿された。
エリクソン移民法律グループの弁護士ハイバ・アンヴァー氏によれば、顧客の一人は国際水域のクルーズ船上にいて足止めを余儀なくされ、別の顧客は短期間で米国便を確保できずに苦慮した。「絶望のあまり、グアムやハワイ行きの便を探し、そこから米国入りを試みる人までいた」と明かす。
前ドアダッシュ人材責任者で、現在は幹部採用コンサルタントを務めるノーラン・チャーチ氏も「狂気の争奪戦だった」と表現する。チャットグループでは各社幹部が徹夜で連絡を取り合い、家族の分断を防ごうと必死だったという。ある人事担当者は「HR1人あたり数十人のH-1B社員を追跡せよ」と指示され、「猛烈なメッセージ攻勢」で位置を確認し、海外にいる従業員を「何としてでも」米国に戻すことを誓ったという。
ホワイトハウスが慌てて火消し 「方針転換」の真相は
拡大する混乱に直面し、ホワイトハウスは20日になって急きょ説明に乗り出した。報道官のカロライン・リビット氏はSNS「X」で、「10万ドル(約1,480万円)の申請料は新規申請者だけが対象であり、すでにH-1Bビザを保有して海外にいる人が再入国する際には課されない」と明言した。
リビット氏は「H-1B保持者は従来通り自由に出入国できる」と強調。米国市民・移民局(USCIS)のジョセフ・エドロウ局長も20日、内部向けメモを発出し、移民局員に「判断はホワイトハウスの説明と一致させるように」と指示した。
だが、これは前日の商務長官ハワード・ルートニック氏の発言と明らかに食い違う。ルートニック氏はトランプ大統領の隣で「新規だけでなく更新も対象」と述べ、「企業はこの人材に毎年10万ドル(約1,480万円)を払う価値があるか、それとも米国人を雇うべきかを決めることになる」と語っていた。この言葉こそが、最初の恐慌を引き起こした要因だった。
ホワイトハウスのテイラー・ロジャーズ報道官は「トランプ大統領は米国労働者を最優先にする。これは企業による制度の濫用を防ぎ、賃金の下落を抑える常識的な措置だ」と擁護した。
H-1Bビザとは
H-1Bビザは非移民ビザの一種で、米国の企業が学士号以上の学位を持つ外国人を「専門職」として一定期間雇用することを認める制度である。対象となる分野は科学、工学、IT、金融、医療など幅広い。とりわけシリコンバレーのテック企業にとっては、世界中から優秀なエンジニアや研究者、プログラマーを採用するための主要な手段であり、会計事務所や医療関連の専門職でも広く活用されている。2024年には米国で約40万件の申請が承認され、その大半は更新分であった。申請者の国籍別ではインド出身者が最大の比率を占めている。
広がる不信感と余波
ホワイトハウスが火消しを試みても、突然の方針転換による混乱とダメージは残った。誰も次に何が発表されるか分からない状況で、企業は緊急対応を余儀なくされ、従業員の予定も大きく狂った。JPモルガンやゴールドマン・サックスなどの金融大手も、H-1B保持者に対して「当面の海外渡航は慎重に」と通達した。
匿名を条件に取材に応じたインド出身のH-1B保持者は「ひとまず安心したが、母が心臓疾患を抱えるため本当は帰国したい。でも帰国すれば二度と米国に戻れないかもしれない」と打ち明け、家族とキャリアの板挟みに苦悩している。
米国の損失、カナダの好機
国際的な反響も広がっている。インド外務省は声明で「家庭に深刻な混乱をもたらしかねず、人道的な影響を伴う」と強く懸念を表明。さらに「米印の人材交流は技術発展や経済成長に大きく寄与してきた」と訴えた。
一方、隣国カナダは追い風を期待している。新興企業支援機関「Yコンビネーター」のギャリー・タンCEOは「トランプ氏の決定は米国スタートアップへの大打撃であり、バンクーバーやトロントのような海外拠点への贈り物だ」とXに投稿した。
カナダ商業会議所のゴールディ・ハイダー会頭も「必要不可欠な人材獲得に力を入れるべきだ」と強調。さらにトロントの投資会社Ninepoint Partnersのマネージングディレクター、アレックス・タプスコット氏は「米国の損失はカナダの利益になり得る」と語った。
シリコンバレーに漂う動揺
ブルームバーグ通信は、ホワイトハウス関係者が「10万ドル(約1,480万円)の費用は新規申請にのみ適用され、更新や既存のビザ保持者には影響しない」と繰り返し強調しているにもかかわらず、トランプ政権の政策の不安定さと不透明さが企業界全体に不信感を広げていると指摘した。
アマゾンはH-1B保持者だけでなく、その配偶者や扶養家族にあたるH-4ビザ保持者にも注意を促し、「しばらくは米国内にとどまるべきだ」と通達した。
世界四大会計事務所のひとつ、アーンスト・アンド・ヤングは従業員に対し「ビザの種類を問わず、可能な限り国際旅行を控えるように」と要請。小売大手ウォルマートも同様のメモを配布し、「極度の慎重さから出した指示だ」と説明した。いずれの企業も、行政命令の真意や運用方法が明確になる前に海外に出れば、予期せぬリスクに巻き込まれる恐れがあると警戒している。
ある匿名のグーグル社員はブルームバーグに対し、「ホワイトハウスの発表が二転三転するため、家族を訪ねる予定だった東京行きをキャンセルした」と語った。また、ニューヨークの金融業に勤めるアジア出身のエリカ・L氏は、約10年間築いてきた生活基盤を突然揺るがされる事態に強い不安を抱いているとし、「もし最初からこうなると分かっていれば、ヨーロッパかアジアへ移ることを検討していたかもしれない」と吐露した。