米国のドナルド・トランプ大統領が中国の習近平国家主席と電話会談を行う1週間前の9月12日、米国在台協会(AIT)と米国務省が相次いで「第二次世界大戦の関連文書はいずれも台湾の最終的な政治地位を決定していない」と初めて明言した。この発言は台湾内で大きな波紋を呼び、さらに民進党の徐国勇秘書長が「台湾には光復節(日本の敗戦後の返還を祝う日)は存在しない」と発言したことで、政界全体に論争が広がった。なぜ米国はこのタイミングで「台湾の地位未定論」を持ち出したのか。
9月12日夜、国内のネットメディアが最初に報じたのは、AIT報道官のインタビューだった。報道官は、中国が《カイロ宣言》《ポツダム宣言》《サンフランシスコ平和条約》など二戦期の文書を恣意的に解釈し、台湾への圧力の根拠にしているが「それは誤りであり、これらの文書は台湾の最終的な地位を決定していない」と明言。その後、駐美記者が米国務省に照会したところ「AITの伝えた内容が正確だ」との返答を得た。だが外部の注目を浴びなかったのは、米国が「明言」する前に、台湾外交部が密かに関連文書を公式サイトから削除していた事実である。
米国在台協会(AIT)が示した「台湾地位未定論」は、台湾社会で大きな議論を呼んだ。(写真/柯承惠撮影)
馬英九政権期の「台湾地位」文書 林佳龍氏就任後に撤回 馬英九政権下の2014年、外交部は「台湾の国際法上の地位」という文書を公式サイトに掲載。この文書は《カイロ宣言》《ポツダム宣言》《日本降伏文書》を根拠に「台湾は中華民国に返還された」と明記していた。蔡英文政権下の2019年には「歴史資料」として移設されたが、外交部の公式立場としては維持されてきた。
賴清徳政権となった2025年5月、外交部は習近平氏がロシアメディアに寄稿し「二戦文書が中国の台湾主権を確認した」と主張したことに反論する声明を発表。この声明でも従来同様、《カイロ宣言》を基礎に台湾主権は中華民国に帰属するとの立場を強調していた。
ところが、AIT・国務省が「台湾地位未定」を公式に述べる2か月前の7月、外交部長の林佳龍氏は国際法学会フォーラムの演説で「戦後の国際法上の効力を持つ文書は《サンフランシスコ平和条約》であり、《カイロ宣言》《ポツダム宣言》といった政治的声明に取って代わった」と発言。さらにその直前の5月、外交部は公式サイトから「台湾の国際法地位」文書と、同月に発表した声明までも削除していた。
馬英九(左)政権時代、外交部は公式サイトに「台湾の国際法上の地位」を掲載していたが、蔡英文(右)政権下で「歴史専門区」に移された。(写真/AP)
リコールの混乱の裏で進められた「台湾地位」見直し 外交部長の林佳龍氏が公に語ることは、すなわち外交部の公式立場を意味する。だが注目されるのは、5月8日時点で《カイロ宣言》《ポツダム宣言》を「国際法上の効力を持つ文書」と明言していた外交部が、わずか2か月も経たぬうちに論調を一変させたことだ。その後は両宣言を「政治的声明」にとどまると位置付け、《サンフランシスコ平和条約》こそが唯一、台湾に関する国際法上の効力を有する文書だと主張し始めたのである。
実はその時期、台湾社会はリコール運動によって各地で混乱していた。台北市の外交部本庁舎では、林氏が4〜5月にかけて複数回にわたり専門家や学者を招き、非公開の会合を重ねていた。出席者には学界時代の知人も含まれ、議題はまさに「台湾の国際法上の地位」をどう表現するか。最終的に林氏は、従来の文書や声明を公式サイトから撤回する方針を決断した。
大規模なリコール運動が進む中、林佳龍氏 は外交部で数度にわたり非公開会議を開き、台湾の国際法上の地位に関する論述を議論した。(写真/柯承惠撮影)
中国の「法戦」加速 旧来の論調は中共に利用される危険 外交関係者によれば、林氏は外交部長就任当初から台湾の国際法上の論調を見直す意向を持っていた。背景には、彼自身の問題意識に加え、民間や専門家、さらには退任した大法官らからも「党国時代の古い論述を改め、現状に即した表現にすべきだ」という声が相次いでいたという。
実際、撤回前の「台湾の国際法地位」文書は全文で3,800字余り、その大半を《カイロ宣言》《ポツダム宣言》《日本降伏文書》に費やし、「台湾は中華民国に返還された」と記していた。さらに、かつての外交部長・葉公超氏による「台湾は中国領土の一部」との発言まで引用していた。だがこの論調は、むしろ中国共産党の主張に「接続」される危うさを抱えていた。すなわち「台湾は中華民国に返還されたが、中華民国は滅亡し、正統は中華人民共和国に継承された」というロジックに組み込まれてしまう可能性があった。
旧来の論述は中国に隙を与える恐れがあるとして、外交部長林佳龍氏 は台湾の国際法上の位置付けに関する方針を調整する意向を持っている。(写真/林佳龍Facebook)
林佳龍氏の新論調 頼清徳総統も事前に了承 これに対し林氏が打ち出した新たな論調は、《サンフランシスコ平和条約》を拠り所とし、《カイロ宣言》や《ポツダム宣言》の重視を排した。さらにポイントとなるのは「台湾は1980年代半ば以降、民主化と総統直接選挙を経て、政府機関はすべて台湾住民によって選出されており、中華民国政府は台湾を代表する唯一の合法政府である」と強調した点である。これは米国をはじめ国際社会の立場、すなわち「台湾の未来は台湾人民自身が決める」という国連憲章の民族自決の精神と一致している。
林氏は7月7日の国際法学会フォーラムで演説し、この新論調を公式に打ち出したが、その前に専門家や関係方面と綿密に調整を済ませていた。外交関係者によれば、林氏は頼清徳総統とも密に意見交換を行い、正式発表前に報告を済ませていたという。頼総統はこの新論調を了承し、大きな問題はないとの判断を示していた。
林佳龍(左)氏 が台湾の国際法上の地位に関する新たな論述を提案し、事前に賴清徳(右)総統へ報告していた。(写真/柯承惠撮影)
AITが突如「台湾地位未定論」表明 外交筋「極めて重大な進展」 林佳龍氏が提示した新たな論調は、米国の立場と歩調を合わせる「軌道修正」といえるものだった。しかし、米国在台協会(AIT)や国務省がなぜこのタイミングで、従来の曖昧な態度を改めて「第二次世界大戦時の文書は台湾の最終的な地位を決めていない」と明言したのか──外交関係者の間でも戸惑いが広がった。ある関係者は「これまで米国は台湾問題について“不言自明”として曖昧に扱ってきた。それを国務省がAITを通じてはっきりと打ち出したのは、大きな進展だ」と語る。
注目されるのは、2025年1月20日にトランプ氏が大統領に復帰して以降、台湾政策は揺れ動きながらも、国務省は次々と新しい立場を表明している点だ。国務省は5月に各国との二国間関係ページを公式サイトから削除する前、2月に「台湾ファクトシート」を更新し、「台湾独立を支持しない」との文言を削除。その上で「台湾が国際機関に有意義に参加することを支持する、適切な場合は正式加盟を含む」と明記し、さらに「両岸の分岐は平和的に、双方の人々が受け入れ可能な方法で解決すべきであり、威圧はあってはならない」との記述を新たに加えていた。
また同じ2月、国務省は米中関係の解説ページも修正し、「中国は国連や地域フォーラムを含む国際機関や標準設定機構を操作・歪曲し、世界規模で中共の目標を推進しようとしている」と指摘。3月7日には、国連総会第2758号決議について「台湾との実質的な交流を制限するものではなく、中国の解釈は台湾孤立化を狙う広範な圧力の一環だ」と表明。さらにその後、米国代表が国連安保理の非公式会合で初めて「中国は2758号決議を悪用し、台湾を孤立させようとしている」と公に言及した。
トランプ政権の対台湾政策は揺れ動いたが、米国務省は折に触れて新たな姿勢を示してきた。(写真/AP)
米国が声を上げた理由 「中国の法律戦が行き過ぎた」 外交・安全保障関係者によれば、今回のAITによる「台湾地位未定論」明言の裏には、中国の強硬姿勢があるという。AITの声明は「中国による誤った法的主張は、台湾を国際社会から孤立させ、他国の主権的な選択を制約する大規模な取り組みの一部だ」と明記。国安筋は「必ずしも時期を狙ったわけではない。だが中国の法律戦が度を越し、既存の国際秩序を揺るがす段階に達したため、米国としても沈黙できなくなった」と解説する。
実際、中国政府は「歴史の節目」を利用して台湾を自国の領土と位置づける動きを強めている。6月24日、中国国務院新聞弁公室は記者会見を開き、共産党中央宣伝部の胡和平副部長が「2025年は中国人民抗日戦争および世界反ファシズム戦争勝利80周年にあたり、盛大な記念行事を10件実施する」と発表。その中には、9月3日の「抗戦勝利80周年軍事パレード」、10月25日の「台湾光復80周年記念大会」も含まれていた。さらに2日後、中国の傅聡国連代表は「国連憲章署名80周年記念会」で「中国は憲章に最初に署名した国だ」と強調し、国際社会への影響力拡大を図った。
中国の国連代表・傅聡氏は「中国は国連憲章に最初に署名した国だ」と発言した。(写真/AP)
中国が仕掛ける「3つの80周年」 台米が直面する法戦・認知戦 台湾側はすでに、中国が下半期に「抗日戦争勝利80周年」「世界反ファシズム戦勝80周年」「台湾光復80周年」という「3つの80周年」を掲げ、新たな国際法戦と歴史認識戦を展開すると予測していた。狙いは「台湾は中国の不可分の一部」とする政治宣伝を世界に浸透させ、中国の歴史的主張を強化することにある。民進党は6月末の中常会で「下半期の中国対台湾工作」をテーマに討議し、広報部長の呉崢氏は「中国は“3つの80年”を軸に、中華民国の痕跡を歴史から消し去り、中華人民共和国が戦後自然に台湾を接収したという物語を描こうとしている」と報告した。
興味深いのは、林佳龍外交部長が7月7日、国際法学会フォーラムで台湾の国際法上の地位に関する新たな論述を正式に表明した同じ日に、中国が下半期最初の記念行事を始動した点だ。中共中央政治局常務委員で習近平国家主席の腹心とされる蔡奇氏が「全民族抗戦爆発88周年」式典を主宰したのである。その後、AITと米国務省が「第二次世界大戦の文書は台湾の最終的地位を決めていない」と公言し、中国の誤った叙述は台湾を国際社会から孤立させる試みだと明示したのは、9月22日の国連創設80周年首脳級会合、23日の国連総会一般討論を目前に控えたタイミングだった。
中国は「3つの80周年」を掲げ、国際的な法理戦や歴史論争を展開。「台湾は中国の不可分の一部」とする政治宣伝を強めた。2025年9月3日、習近平国家主席(中央)、プーチン露大統領(左)、金正恩朝鮮労働党総書記(右)が抗日戦勝80周年の軍事パレードに出席した。(写真/AP)
両岸対立は軍事だけではない 外交・国際機関でも攻防 解放軍が台湾周辺で軍事演習を繰り返し、航空機や艦艇による示威行動を強める一方、中国は「無煙の戦場」ともいえる外交や国際法の分野でも攻勢を仕掛けてきた。2016年、アフリカのガンビアが中国と国交を再開した際には「台湾は中国領土の不可分の一部」と明記。2024年1月には、太平洋島嶼国ナウルが台湾と断交し中国と国交を樹立、その際に初めて国連総会第2758号決議を外交転換の根拠に引用した。北京はこの決議を「台湾が中国に属する」とする法理的な裏付けとして国際的に売り込もうとしている。
第2758号決議はわずか150語の英文、205字の中文から成り、「蔣介石の代表」という表現はあるものの「中華民国」「台湾」という語は一切含まれていない。しかし中国国務院台湾事務弁公室は2022年の『台湾問題と新時代の中国統一事業』白書で、この決議を「台湾は中国に属する」とする主要な法的根拠の一つと位置づけた。白書はさらに1993年の白書を踏襲し、《開羅宣言》《ポツダム宣言》など戦時文書と並べて第2758号決議、WHA第25.1号決議、国連事務局覚書を引用している。
台湾もこれに対抗し、同年から国連で「中国による第2758号決議の歪曲を正すべきだ」と訴えることを主要アジェンダに据えた。2023年には米下院が「台湾団結法」を可決し、中国の解釈を封じようとしたのを皮切りに、各国議会が相次いで類似の決議を採択した。しかし中国はなおも第2758号決議を外交戦の武器に用い、台湾の非友邦国にも圧力を加え続けている。国安関係者は「国連総会の場でも、中国は自ら創作したストーリーを売り込むだろう」と警戒する。
2022年8月、中国は「台湾問題と新時代の中国統一事業」白書を発表。同年、台湾側は国連に対し、中国による第2758号決議の歪曲を是正するよう正式に訴えた。(写真/AP)
中国は第2758号決議を武器化 台湾は国内合意を欠いたまま 林佳龍氏は外交部長就任1年を迎えた5月21日、記者団との懇談で「中国の新たな法戦、第2758号決議への対応は、台湾にとって最大の課題だ」と語った。「中国は台湾海峡を内海化しようとしている。われわれは“世界に理を説く”しかない。最も苦しい局面にあるが、屈して法理上の口実を与えることは断じてない」と強調した。間もなく林氏は外交部ウェブサイトから従来の文書を削除し、新論述を正式に提示。以降2か月あまり、外交部は中国の主張を正面から論駁する新たな武器を手にした形となった。
現在では、台湾の論述は米国の「不言自明」とする立場に歩調を合わせ、米政府も「二戦時の文書は台湾の地位を決定していない」と公式に明言した。中国が仕掛ける「台湾孤立化」戦略に対抗し、米国は台海の航行の自由を訴え、国際会議でも現状維持を崩す動きを批判している。
だが一方で、台湾国内は足並みが揃っていない。外交部が「台湾人民が選出した立法代表」と位置づける立法院では、与野党が第2758号決議に関する3つの異なる決議案を提出したまま、協議入りから1年以上が経過しても二読に進めていないのだ。北京が「3つの80周年」を掲げ国際社会で攻勢をかける中、台湾が「世界に理を説く」前に、まず自国の足並みを揃えることが求められている。