台湾の頼清徳総統は、第13代検事総長に最高検察署の徐錫祥(シュ・シシャン)主任検事を指名した。立法院(国会に相当)での人事同意投票を前に、2026年4月8日に開催された公聴会において、受邀した台湾高等検察署の陳宏達(チェン・ホンダ)主任検事が、徐氏について「不適格である」と直言。与野党議員の面前で総統の指名に異議を唱えるという、異例の事態となった。
検察内部の身内である徐氏に対し、事実上の「背後から撃つ」形となった今回の批判を受け、立法院の同意投票の行方に注目が集まっている。なぜ陳氏は、公の場で「検察の嫌われ役」を買って出て、検察組織に対する「自爆テロ」とも言える発言に踏み切ったのか、その背景を探る。
検察界きっての「物言う検事」陳宏達とは何者か 検察体系に公然と異を唱える陳宏達氏 とは、どのような経歴の持ち主なのか。現在67歳の陳氏は、輔仁大学法学部を卒業し、同大学院で修士号を取得。国立台湾海洋大学海洋法律研究所の博士候補生でもある。司法官訓練所第26期の出身で、現台湾法務部長(法相に相当)の鄭銘謙(テイ・メイケン)氏とは同期にあたる。
第13代検事総長に指名された法務部次長の徐錫祥氏(写真)。与野党の対立を背景に、人事同意権の行使には不透明感が漂う。(写真/顔麟宇撮影) 鄭氏が訓練所修了後に屏東地検署へ配属されたのに対し、陳氏は嘉義地検署へ配属された。当時の慣例では、配属先は訓練所での成績によって決定されたため、ベテラン検察官の間では「陳氏の成績は鄭氏よりも優秀であり、それゆえに当時の主要な配属先であった嘉義への配属を勝ち取った」というのが定説となっている。
厳格な師の下で培われた「不屈の精神」 陳氏が配属された当時の嘉義地検署を率いていたのは、屏東から異動してきた張春栄(ジャン・チュンロン)検察長だった。張氏は、屏東地検署の新庁舎建設時、業者の手抜き工事を監視するために連日現場を厳しくチェックし、主任検事に対してもコンクリート打ちの際などに現場で立ち会うよう命じるほど徹底した人物だった。
その厳格さは捜査の指揮においても同様であり、張氏の下で働く検事たちは、片時も油断を許されない緊張感の中で職務に当たっていたという。このような厳しい環境下での経験が、今日の陳氏の妥協を許さない姿勢を形作ったといえるだろう。
法務部長・鄭銘謙氏(中央)と同期の陳宏達氏。初回の配属先から推測すると、当時の成績は鄭氏を上回っていた可能性が高い。(写真/蔡親傑撮影)
名将・蕭順水の下で磨かれた手腕と「コネ」を拒む潔癖さ 陳氏の故郷は新北市新店区にあり、職務の異動は北上する形で進んだ。検察官としての第2の舞台は桃園地検署である。当時の検察長は、警察官および刑事組長出身で、捜査のプロとして知られた蕭順水(シャオ・シュンシュイ)氏だった。その手法は変幻自在でユニークを極め、「名将の下に弱卒なし」の言葉通り、蕭氏の下からは第24期の邢泰釗(シン・タイジャオ)検事総長や、朱家琦(シュ・ジャチー)高雄高分検検察長といったそうそうたる顔ぶれが輩出されている。
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桃園地検署時代を知る検察官は、あるエピソードを回想する。当時、交際関係が複雑だと噂されていたある検察官がいた。蕭氏は陳氏の能力と本性を見極めるため、その検察官が担当していた案件を陳氏に引き継がせるよう命じた。
引き継ぎの際、その検察官は陳氏に対し、案件だけでなく桃園におけるあらゆる「有力者とのコネ」を譲り渡すと暗示。これに絶句した陳氏は、即座に「必要なのは案件だけであり、人脈(コネ)は一切不要だ」と突っぱねたという。
陳氏の2番目の赴任先となった桃園地検。当時の検事正・蕭順水氏の下で捜査にあたった。(写真/顔麟宇撮影)
台北地検のエリート部隊で「豚小屋」発言 馬英九をも動かした硬骨漢 主任検事への昇進前、陳氏が検察官として最後に在籍したのは台北地検署だった。当時の検察長は、後に検事総長まで上り詰める盧仁発(ロ・ジンハツ)氏。盧氏は李登輝総統(当時)からの法務部長(法相)就任要請を「検察の気概を守るため」として断ったことで知られる高潔な人物である。
厳謹かつ鋭い捜査手腕で評価の高かった陳氏を、盧氏は将来の幹部候補として嘱望。重大な汚職や経済犯罪を扱う「天下第一」のエリート部隊、台北地検「忠組」の検察官に抜擢した。しかし、配属後まもなく陳氏は台北地検を揺るがす行動に出る。
それは重大事件の捜査ではなく、劣悪な執務環境への抗議だった。陳氏はオフィスが狭く混雑している現状を新聞に投書し、それが「豚小屋のようなオフィス」という見出しで大々的に報じられたのである。報道後、当時の法務部長だった馬英九氏と盧検察長が現場視察に訪れた。
視察の際、馬氏は忠組のオフィスを隅々まで確認し、「まだマシ(還好)だ、それほどでもない」とつぶやいて去っていった。周囲の官僚たちは「これで陳氏は痛い目を見るだろう(不利益な扱いを受けるだろう)」と噂し合ったが、陳氏はその後も検察長から呼び出されることもなく、淡々と忠組での捜査を続けた。陳氏は何ら臆することなく、その後もメディアへの投書を通じて自身の見解を発表し続け、「検察界の警鐘を鳴らすカラス 」として、自らの論考をまとめた『正義のための奮闘』を出版するに至った。
台北地検への着任後、オフィス環境の劣悪さをメディアに投書し、当時の法務部長だった馬英九氏の視察を招いた陳氏。(写真/柯承恵撮影)
世間を震撼させた大事件の数々 「検察の顔」として広報の頂点へ 一審の検事時代、陳氏の名は法曹界の知る人ぞ知る存在に過ぎなかった。しかし、主任検事に昇進し「検察の広報官」に就任すると、その名は台湾全土、さらには海外にまで知れ渡ることになる。
当時、台北地検は社会を揺るがす大事件を次々と手がけていた。政界に激震が走った「興票案(国民党の資金流用疑惑)」、二転三転する展開がドラマさながらだった「璩美鳳(キョ・ビホ)盗撮ビデオ事件」など、検察の動向は常に注目の的だった。その後、陳氏は最高検察署「特別捜査組(特捜組)」の広報官に就任。当時の黄世銘検事総長が指揮した高等法院判事らによる集団汚職事件や、林益世(リン・イーシー)元行政院秘書長による汚職事件など、連日のようにトップニュースを飾る事件の会見場に立ち、メディアの猛烈な取材に対応し続けた。
一部では「検察史上最高の広報官」「最強のイメージ戦略家」とも評されたが、陳氏自身は「私はただ、事実を説明し、伝えるべき情報を整理するコミュニケーション担当に過ぎない」と控えめに語る。多忙を極める中、西門町の老舗店「鴨肉扁」や、中山堂近くの食堂で食事を済ませる陳氏の姿は、多くの市民に目撃された。テレビでおなじみの「検察の顔」に気づいた店主たちが、「お疲れ様!」とサービスしようとすると、陳氏は丁重に断り、自ら進んで支払いを済ませた。市民からの「熱烈」ともいえる支持に、陳氏は内心深く感動していたという。
台北地検のスポークスマン時代、興票事件や璩美鳳氏の盗撮事件、裁判官汚職などの重大事件が相次ぐ中、最前線でメディア対応にあたった陳氏(写真)。(写真/盧逸峰撮影)
「上司に嫌われる勇気」 検察の良心が認めた真実 立法院の公聴会において、陳氏は徐錫祥(シュ・シシャン)氏について、国家安全局副局長から法務部政務次長を経て検事総長候補に上り詰めた昇進スピードの速さを指摘。「『天下り』や『政治的恩賞』との疑念を招きかねない」と断じた。さらに、政務官から司法の独立を守るべき検事総長へと即座に転身することで、「党政との癒着を断ち切り、法律と証拠のみに責任を負えるのか」と疑問を投げかけた。検察内部に詳しい関係者は、「台中地検検察長を歴任した陳氏は、地方の検察事情に配慮しつつも、核心を突く批判を行った」と評価する。
この公聴会での発言は、検察内部に衝撃を与えた。「核爆弾級の衝撃だ」という声がある一方で、「最高検察署での出世を諦めたのか」と危ぶむ声も上がった。しかし、多くの若手検事たちは、上司に嫌われることを恐れず、1万8000字に及ぶ書面資料を添えて正論を吐いた陳氏の勇気に敬意を表している。陳水扁元総統の汚職事件を起訴し、「検察の良心」と称される陳瑞仁(チェン・ルイレン)元検事(司法官訓練所第23期)も、同期や後輩たちの反応を前に、「陳宏達が言ったことは、すべて正しい」と太鼓判を押した。
陳宏達氏は本紙『風傳媒』の取材に対し、「徐錫祥氏個人とは親交もあり、彼自身は素晴らしい人物だ。しかし、今回の件は『私情を交えず、事理に基づき判断する』という立場だ」と語る。もし徐氏に台湾高等検察署検察長の経歴があり、着実な実績があったなら、あるいは検察官協会や「剣青検改(中堅・若手検事の改革団体)」の信任投票で支持を得ていたなら、異議は唱えなかったという。「かつて立法院の大法官公聴会に招かれた際は出席しなかったが、現在の検察に対する公信力(社会的信頼)の低下を憂い、あえてこの場に立ち、言うべきことを言わせてもらった」と、陳氏はその決意を語った。