台湾の林佳龍外交部長(外相)は10月5日、米南西部アリゾナ州で、台湾にとって米国で14カ所目となる駐フェニックス弁事処の開設式に出席し、12日間にわたる米州3カ国歴訪を終えた。同日、台湾の蔡英文前総統もスタンフォード大学のシンポジウムに招かれ、台湾から約12時間のフライトを経て米西海岸のカリフォルニア州サンフランシスコに到着した。台湾の兪大㵢・駐米代表が同行する中、数百人の現地台湾系住民から熱烈な歓迎を受け、総統退任後初となる訪米日程をスタートさせた。
蔡氏が2024年5月の総統退任後、前総統として公に海外を訪問するのは今回で6度目となる。このうち4回は欧州で、チェコ、フランス、ベルギー、リトアニア、デンマーク、英国、ドイツ、イタリアを訪れてきた。
一方、北大西洋を挟んだ北米では、2024年11月下旬にカナダを短期間訪問したものの、米国本土に足を踏み入れたのは2026年10月の今回が初めてだ。総統在任中には米国を経由・訪問する機会が10回以上あったが、今回は首都ワシントンのある東海岸には足を運ばず、西海岸に約1週間滞在するにとどまる。
台湾メディア『風傳媒(ストームメディア)』がこれまで報じてきたように、蔡氏が退任後、欧州を中心に外交活動を続けてきた理由の一つには、訪米する場合、現職の頼清徳総統の対米戦略や米国側との関係を考慮する必要があったことがある。
頼氏は総統就任後、2024年11月末から12月初旬にかけて米ハワイとグアムを経由したのみで、現在まで米国本土でのトランジットは実現していない。関係者によると、蔡氏も頼氏への配慮から、米国側から寄せられてきたさまざまな招待を辞退してきたという。
それにもかかわらず、今回、蔡氏は頼氏より先に米国本土を訪問した。蔡氏はもう頼氏への配慮を必要としなくなったのか。それとも、今回の訪米には別の目的があるのか。
林佳龍外交部長(右)が、台湾にとって米国で14カ所目となる駐フェニックス弁事処の開設式に出席して帰台した後、蔡英文前総統が入れ替わるように訪米した。その背景には、台湾と米国双方による綿密な調整があった。(AP通信)
台湾と米国は早くから調整 米中首脳会談後に蔡氏、林氏が相次ぎ訪米 林氏と蔡氏が相次いで米国を訪問する直前の9月下旬、中国の習近平国家主席は米ワシントンに招かれ、トランプ米大統領と2026年で2度目となる米中首脳会談を行った。
台湾高官の訪米には通常、台湾と米国の関係機関による数カ月にわたる事前調整が必要となる。今回の米中首脳会談の日程についても、トランプ氏は2026年5月中旬の北京訪問時にすでに公に予告していた。つまり、林氏と蔡氏が米中首脳会談の直後に訪米したのは、台湾と米国双方が早くから日程を調整していた結果だ。
それから4カ月余りがたち、ワシントンで行われた2度目の米中首脳会談後、中国国営新華社は、習氏が「米国側が台湾独立に反対する立場を堅持することを望む」と表明したと伝えた。
一方、トランプ氏はメディアから台湾問題について問われても深入りせず、「今はすべてが順調で、良い方向に進んでいる。習氏は私の考えをよく理解している」と述べるにとどめた。
外交実務に詳しい関係者は、台湾国内には以前から、台湾と米国の関係が後退するのではないか、トランプ氏が台湾を切り捨てるのではないかと懸念する声があると指摘する。
台湾の外相と前総統がこの時期に相次いで訪米したのは、台湾と米国双方が従来の慣例を維持することによって、「台湾と米国の関係に変化はない」と外部に示す狙いがあるという。
「大きな突破はないが、後退もない。これも一種の保証だ」と関係者は語った。
トランプ米大統領(右)と中国の習近平国家主席(左)は9月、ワシントンで2026年2度目の米中首脳会談を行った。今後も複数回の会談が見込まれる中、台湾には台米関係の基盤を維持し、情勢の安定を図ることが求められている。(AP通信)
140億ドル規模の対台武器売却は進展見えず 蔡氏と林氏の訪米で「基本盤」維持 もっとも、マルコ・ルビオ米国務長官らトランプ政権の高官は米中首脳会談後、米国の対台湾政策に変更はないと繰り返し強調しているものの、トランプ氏自身の発言には台湾側の不安を招くものもある。
トランプ氏は5月に北京で習氏と会談した後、台湾と米国の関係における重要な基盤の一つとされる「六つの保証(Six Assurances)」について問われると、「1982年は非常に昔のことだ」と述べた。
一方、トランプ政権は2025年12月、過去最大規模となる総額111億ドル超の台湾向け武器売却案を承認したものの、別の総額約140億ドル規模の台湾向け武器売却案については、その後も目立った進展は伝えられていない。
外交関係者は、この約140億ドル規模の武器売却案と、頼氏による米国本土でのトランジットが、現在の台湾と米国の関係を測る上で最も象徴的な議題だと指摘する。
しかし、米国では11月上旬に中間選挙が控える。さらに11月中旬には中国・深圳でアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議、12月には米マイアミで20カ国・地域(G20)首脳会議が予定されており、トランプ氏と習氏が3度目、4度目の首脳会談を行う可能性もある。
このため、台湾と米国の関係を象徴する二つの案件については「短期的には大きな進展は見込みにくい」とされ、これも林氏と蔡氏がこの時期に訪米した重要な要因の一つだという。
関係者によると、林氏を含む台湾の歴代外交部長が米国を訪問した前例はあり、蔡氏の訪米についても米国側との調整が前提となる。こうした往来は、台湾と米国の関係における「基本盤」にあたる。
林氏と蔡氏の相次ぐ訪米には、その基本盤を維持する狙いがあるという。
ある台湾政府関係者は、台湾と米国が緊密な協力関係を維持し、各レベルで円滑に意思疎通していることこそ、現在の双方の関係だと強調する。
頼清徳総統(中央)は就任後、米ハワイとグアムを経由したのみで、米国本土にはまだ足を踏み入れていない。約140億ドル規模の台湾向け武器売却案と頼氏による米国本土でのトランジットは、今後の台米関係を測る重要な指標となっている。(AP通信)
蔡氏の米国本土訪問 頼総統も事前に把握し支持 蔡氏の今回の訪米には、台湾と米国の関係の「基本盤」を支える意味がある一方、退任後初めて米国を訪れた蔡氏自身にも伝えたいメッセージがあった。
2025年にドイツや英国など欧州各国、2024年にカナダで行った演説と比べると、今回、スタンフォード大学で開かれた「テクノロジーと国家安全保障シンポジウム」の開会あいさつでは、民主主義のレジリエンス(強靱性)に改めて言及したほか、ドローンなど国防技術をめぐる協力にも踏み込んだ。
さらに、台湾は米国などの友好国・パートナーにとって、国防サプライチェーン上、不可欠な存在だと強調した。
関係者によると、蔡氏は今回のサンフランシスコ訪問をめぐり、台湾外交部の上層部と日程を協議していたほか、フェニックスを訪れた林氏との間でも一定の意思疎通が図られていたという。
頼氏も蔡氏の訪米を事前に把握しており、支持していた。
ある関係者は、頼氏が以前、蕭美琴副総統の欧州訪問を実現するよう指示した際、外交は「チーム戦」であり、現職・前任を問わず正副元首はすべてチームの一員だとの考えを示していたと明かす。
注目されるのは、蔡氏がスタンフォード大学で演説したのと同じ時期、頼氏も台湾総統府で米連邦議会の上院、下院議員と会談しており、両者の発言には新興技術と国防安全保障という共通点がみられたことだ。
頼氏は、台湾が人工知能(AI)、無人機、宇宙技術などを導入し、国防技術のイノベーションを加速させることで非対称戦力の強化を進めていると説明した。
さらに、ドローンや対ドローンシステムの構築、AIを活用した軍事意思決定支援などの分野で、米国との国防協力をさらに深めたいとの考えを示した。
蔡英文前総統は訪米中、スタンフォード大学で演説した。一方、頼清徳総統も台湾総統府で米連邦議会上下両院の議員と会談し、両氏はいずれも新興技術と国防安全保障について言及した。両氏、そして台湾と米国の連携ぶりをうかがわせる。(蔡英文事務所提供)
米西海岸に滞在、政策決定の中心・東海岸には足を運ばず 頼総統への配慮も もっとも、蔡氏が頼氏や外交チームと一定の意思疎通を図っていたとはいえ、今回の訪米日程を詳しく見ると、その行程は比較的シンプルだ。
ナンシー・ペロシ米下院元議長との会談、スタンフォード大学のシンポジウム、フーバー研究所の行事への出席、シリコンバレーの台湾系スタートアップ関係者との交流、駐サンフランシスコ弁事処の国慶節関連行事への参加など、日程の大半はサンフランシスコ・ベイエリアに集中している。
関係者によると、米東海岸のシンクタンクや各種機関からも蔡氏への招待は少なくなかった。それでも西海岸を訪問先に選んだことからは、蔡氏が今回の訪米でも頼氏への配慮を続けていることがうかがえる。
総じてみれば、蔡氏の今回の米国本土訪問は、現在の国家安全保障政策を担う頼氏に配慮しながら、現政権による対米関係の安定化を支えるという前提のもと、外交の「チーム戦」で自身の役割を担ったものといえる。
大規模な台湾向け武器売却案や頼氏による米国本土でのトランジットといった重要案件がなお残る中、既存のルートを通じて往来を維持し、相互の信頼を保つ狙いがある。
トランプ氏と習氏による首脳会談が相次ぐ中でも、台湾と米国の関係の基本盤は揺らいでいない――。それが、林氏と蔡氏の相次ぐ訪米の背景にあるメッセージだ。