台湾は地政学的に重要な位置にあるため、中国との対立を背景に、戦争リスクが常に付きまとう。2025年7月に実施された「漢光演習」と「社会防衛レジリエンス演習」を統合した動きは、政府が危機に対する認識を高めている証ともいえる。しかしながら、日米からの軍事支援や兵器の備蓄といった目に見える部分ばかりに注目が集まる一方で、実際に戦争が勃発した際、台湾の医療体制が島内全体の住民をどれほど救えるのかについては、ほとんど議論されていない。
6月19日に立法院の社会福利及び衛生環境委員会で開かれた公聴会「台湾レジリエンス医療整備計画」では、医薬品、制度、人材、法規制、地域医療の5分野において、戦時下での台湾医療の脆弱さが専門家によって指摘された。平時には世界トップレベルとも称される台湾の医療だが、もし戦争が起これば、その土台は一気に崩壊しかねないという。医師でもある頼清徳総統は、この現実をどこまで認識しているのだろうか。

専門家は台湾の戦時医療における致命的な脆弱性を指摘している。写真は2025年実施の城鎮レジリエンス演習。(写真/張曜麟撮影)
薬品供給の6割が中国頼み 「命綱」は敵の手中に
戦時における医療崩壊の第一の懸念は、薬品供給チェーンの脆弱性だ。台湾の医薬品原料の約8割は輸入に依存しており、そのうち6割は中国から調達されている。もしも軍事衝突や航路の封鎖、経済制裁が発生すれば、最初に打撃を受けるのはこの医薬品供給である。台湾製薬工業同業公会の理事・王惠弘氏は、「今や中国からの命令ひとつで、台湾における複数の薬品の生産ラインが停止しかねない」と警鐘を鳴らす。
学名薬協会の会長・陳誼芬氏も、台湾国内には多くの学名薬が存在するものの、その製造に使う原料は国外調達に依存しており、地元での合成や代替生産の体制が極めて乏しいと説明する。さらに、基礎的な医薬品ですら在庫が1カ月未満という品目もあるという。薬剤師公会の顧問・葉明功氏は、「戦時に求められるのは“量”よりも“即応性”だ」と述べ、例えばモルヒネのような麻酔薬でさえ、複数の人員を介した管理が必要で即時使用が難しくなると指摘。そのうえで、政府に対し「使い捨てペン型鎮痛薬」の導入や、空輸が遮断された事態を想定した配布システムの構築を求めている。

台湾の医薬品原料の8割以上が輸入に依存しており、そのうち6割を中国に頼っている現状は、医薬品サプライチェーンの脆弱性を特に際立たせている。(写真/顏麟宇撮影)
小規模薬局ばかりで「大波」に耐えられない 求められる国策レベルの薬局
台湾医療の2つ目の致命的な弱点は、製薬業界の構造にある。台湾には150社以上の製薬企業があるが、大半が中小規模で、生産能力や研究開発力に乏しいのが現状だ。台湾製薬工業同業公会の理事長・黃榮男氏は、「台湾の薬局はまるで小さな漁船。大波が来れば全て転覆する」と警告を発する。特に、学名薬においては薬証の重複が多く、結果的に生産量が分散し、全体の効率が下がっていると指摘する。
台湾医薬品法規学会の理事長・康照洲氏も、同一薬品を複数の企業が競って生産する一方で、新薬の研究開発に取り組む企業は少ないと話す。価格競争に巻き込まれた結果、低価格・低利益の薬品しか市場に残らず、技術力の高い戦略的な薬の開発はほとんど進んでいないという。現在の生産ラインは柔軟性にも欠け、たとえ原料が揃っていても、急な増産には対応できない。こうした状況を打開するため、多くの専門家が「統合基金」の設立を提案し、薬局の合併再編を促進。戦時に必要な薬品を安定的に供給できる「国家レベルの薬局」の設置が急務だとしている。

多くの学者が、政府に対し統合基金を設立し、薬局を合併・再構築することで、重要な戦備医薬品を生産できる「国レベルの薬局」を構築するよう提案している。イメージ写真。(写真/蘇仲泓撮影)
健保が「弱点」になる可能性 戦時対応の柔軟性に課題
意外なことに、台湾が誇る全民健康保険(健保)も、戦時には医療体制の足を引っ張るリスクがある。現在の健保制度は「総額管理」によって医療費を抑制しているが、戦争や大規模災害時の急激な需要変化には対応が難しい。医薬公会全国連合会の常務理事・黄啓嘉氏は、「健保は平時のコスト管理には有効だが、緊急時には柔軟性を欠く」と指摘する。実際、多くの薬品で原料価格が高騰しているにもかかわらず、健保給付価格が据え置かれており、企業が市場から撤退する「赤字ドミノ」が起きている。
また、抗生物質や止血剤、鎮痛薬、注射薬といった戦時に必要不可欠な医薬品は、需要が一気に増加する可能性が高いが、健保には即時の価格調整や調達メカニズムがないのが現状だ。健保署には強力なデータベースがあり、薬の在庫状況や流通経路を把握する力はあるものの、その情報を予測分析と連携させて戦時に活用する体制は整っていない。公聴会では「戦時健保迅速対応チーム」の設置や、シナリオ別の供給体制構築が求められた。

全民健康保険(健保)は、重大な災害状況下において、資源調達の足かせとなる可能性がある。(写真/洪煜勛撮影)
薬の「法規制」が命取りに 迅速な輸入・代替ができない現実
4つ目の欠陥は、台湾の医薬品法規そのものが緊急時に適応できない点にある。台湾医薬品法規学会の康照洲氏によれば、米国や日本で承認された薬であっても、台湾に輸入する際には再審査が必要で、許認可までに3〜4年かかるケースもある。この遅さが、戦時や公衆衛生危機の場面で「制度的欠薬」を引き起こす原因になるという。
現在の法制度では、たとえ代替薬があっても「戦時特例条項」が存在せず、緊急輸入が法的に認められない恐れがある。康氏と黃榮男氏は、平時と戦時で審査基準を切り替える「デュアル・トラック審査制」の導入を提唱。国際的に認可された薬品については「準承認」扱いで迅速に導入できるようにするべきだと強調する。
加えて、政府は原料薬や戦略的医薬品に関して、国家備蓄制度を整備する必要がある。特に戦時に枯渇しやすく代替のきかない薬については、原料と製品の一定量を平時から確保し、必要に応じて検査工程や許認可手続きの簡素化を行うことで、供給中断時にも最低限の医療サービスを維持できる体制が求められている。

台湾の医薬品法規の遅れが新たな医薬品の導入を妨げ、即座の対応ができない状況を生んでいる。(写真/顏麟宇撮影)
診所が機能不全なら病院も崩壊 「前線医療」の再定義を
台湾医療における5つ目の致命的な弱点は、地域診所の機能不全が病院の崩壊を招くリスクだ。林口長庚病院の救急外科医・鄭啓桐氏は、全台湾で外傷救急の訓練を受けた医師は400人未満しかおらず、戦争が発生すれば外傷患者が急増し、現行体制では到底対応しきれないと警鐘を鳴らす。そのため彼は、医師免許の更新基準に「災害医療」の単位取得を義務化し、訓練体制を整備すべきだと提言する。
また、北榮総病院の陽光耀氏は「戦時の医療とは、手術室でのオペではなく、地下鉄構内で止血し破片を取り出すこと」と現場での初期対応力の重要性を強調する。台湾には1万を超える地域診所が存在するが、病院が爆撃されたり道路が遮断されたりした際には、これらの診所が最前線となる。北医の洪冠予副校長は「医療がその場で完結する体制」を構築すべきだとして、診所に対する備蓄、設備、外傷対応力の向上といった「戦時マニュアル」の策定を政府に求めている。

台湾全体で外傷救急訓練を受けた医師は400人に満たず、災害発生時に対応が困難となる。写真は防衛レジリエンス実地演習で、前進外科チームによる救急医療施設の拡充の様子。(写真/柯承惠撮影)
備え始まる国家医療レジリエンス 前線・後方の連携体制構築へ
台湾政府はすでに「レジリエンス国家医薬整備計画」を策定し、2024年からの4年間で人材育成、地域病院の設備更新、医薬品の供給安定化などに取り組む。衛生福利部の林靜儀次長は、食薬署が医薬品供給チェーン全体を再評価し、交通障害や原料中断への対応を強化していると説明する。
さらに国防部の軍医局も前線支援体制を構築しており、金門・馬祖などの前線基地では、薬品と医療器材の分散備蓄を実施済み。ブドウ糖注射液など86品目に及ぶ緊急医療物資について、36の民間業者と戦時生産契約を締結しており、供給の即応体制を整えている。

衛靜儀衛生福利部次長(左)は、食品薬物管理署が医薬品サプライチェーンを全面的に評価し、可能な限り影響を軽減するよう努めていると述べた。(写真/顏麟宇撮影)
「爆弾が落ちる前に」備えよ 医療戦備は「必要な無駄」で支えるもの
政府の対応が後方支援に偏っているとの指摘もある。台湾医薬品法規学会の康照洲氏は、「爆弾が落ちてから訓練を始めても遅い」と強調し、全島規模での医療演習が欠如していることに懸念を示す。法制度と産業構造の改革なしには、台湾が誇る医療データや人材をもってしても戦時には耐えられないと指摘する。
元健保局総経理・張鴻仁氏も、「戦争とはミサイルだけでなく、薬や防疫こそが最後の防衛線だ」と語る。戦時には“必要な無駄”を受け入れるべきだとして、最低3ヶ月分の「重要医薬品備蓄リスト」の策定を提案。平時に不足しがちな薬と、戦時に特に需要が高まる薬を分けて備える「二重備蓄」の必要性を強調した。