2022年11月、当時のカンボジア首相フン・セン(Hun Sen)はASEAN首脳会議の議長として、参加各国の首脳——バイデン米大統領ら——に“カンボジア色”の濃い厚遇を用意した。地元職人による高級トゥールビヨン腕時計「Lotus Tourbillon」だ。
25粒の宝石が配され、ムーブメントとリューズには王冠型のエンブレム——カンボジア経済で影響力を誇るプリンス・ホールディング・グループ(Prince Holding Group)のマーク——が刻まれていた。バイデン氏はこの時計を、他の1,790ドル相当の贈答品とともに米国立公文書館に提出している。
『ブルームバーグ』は3日、華やかなこの“時計外交”が、プリンス・グループの会長・陳志がいかに世界の権力中枢に食い込んだかを象徴していると指摘。現年37歳の陳志は、合法的な実業家・慈善家という仮面を緻密に磨き上げ、各国要人や主要組織との関係構築に腐心してきた。プリンス・グループの事業版図は、パラオの砂浜から国際金融都市・香港まで広がり、個人資産もロンドン・シティのオフィスから、シンガポールや台北の最高級レジデンスに及ぶ。
だが、この“砂の上の帝国”は急速に瓦解する。2025年10月中旬、米英当局が電撃的に動き、陳志とその企業群を国際的な犯罪組織と認定。詐欺拠点の設置や強制労働、数十億ドル規模のマネロンが疑われるという。米財務省はプリンス・グループ傘下の実体・個人146件(陳志本人を含む)に制裁を発動し、検察は起訴状で150億ドル相当のビットコインを押収したと明らかにした。
この突然の詐欺立件は、過去十数年にわたり陳志らが世界でほぼ無傷で勢力を広げられた理由を白日の下にさらした。皮肉にも、シンガポールやカンボジアでは「若き成功者」としてメディアに持て囃され、昨年には組織犯罪との関係が報じられていたにもかかわらず、多くの国際企業がなお提携を維持していた。米英の「制裁ハンマー」が下るまで、その流れは止まらなかったのだ。
ハーバード大学アジアセンター客員研究員で越境犯罪が専門のジェイコブ・シムズ氏は、「プリンス・グループの肥大は、香港やシンガポールのような自由で開放的な金融システムを最大限に活用した結果とみるのが自然だ。国際社会の対応は、線を越えていないにせよ“共犯”の縁に迫っていた」と分析する。
プリンス・グループはサイト上でマネロンや違法行為を全面否認していたが、該当声明は現在削除済み。陳志は依然逃走中で、プリンス・グループはブルームバーグのコメント要請にも応じていない。
一方、シンガポール警察は10月31日、陳志らのマネロン・文書偽造事案で強制捜査に着手し、1億5,000万シンガポールドル(約1.15億米ドル)超の資産を押収。豪華ヨット、11台の高級車、大量の高級酒などの贅沢品を凍結し、「帝国」は根こそぎ解体へ向かっている。
「プリンス」の成り上がり:福建の少年からカンボジアの爵位へ
1987年、中国・福建省生まれ。すでに閉鎖されたシンガポールのファミリーオフィスのサイトは、陳志を「若きビジネスの鬼才」と称え、福州でのゲームセンター開業が出発点だと紹介していた。米財務省の資料によれば、のちに中国籍を離脱し、キプロス、バヌアツ、カンボジアの複数パスポートを保有する「グローバル市民」となる。
2011年、肥沃ではないが機会に満ちたカンボジアへ。まず不動産に投資し、のちにプリンス・グループを設立。エンタメ、金融、さらには航空会社まで手を広げた。潤沢な資金と巧みな立ち回りで権力中枢に食い込み、フン・セン前首相やフン・マネット現首相の顧問に。盤石の政治コネは、事業を滑走させる「護符」となった。
前述のASEAN首脳会議は、プリンス・グループの広報戦の代表作でもある。プリンス・グループ傘下の時計学校が製作したトゥールビヨンは、バイデン氏のほか、トルドー加首相、アルバニージー豪首相らの手にも渡った。記録では両首相とも後日、規定に沿って国庫へ納付している。
米検察の起訴状は、陳志らが「各国で政治的影響力を用い、詐欺事業を捜査から保護していた」と断じる。共犯者は中国の公安幹部に対し、その息子の「面倒を見る」見返りに、プリンス・グループ側同士の「無罪放免」を取り計らうよう働きかけた、とされる。別の名伏せの外国高官には数百万ドル相当の高級時計を贈り、外交パスポート取得を支援させた疑いも。陳志はこの「外交パス」を用い、2023年4月に米国へ堂々と入国したという。
要するに、国際舞台で映える豪奢なギフトは、単なるPR小道具ではなく、保護や特権を取り引きする「チップ」として機能していた——検察の物語は、そう語っている。
シンガポール、香港、ロンドン:詐欺帝国のグローバル金融マップ
プリンス・グループのネットワークと資産は主要金融センターに張り巡らされ、法治の厳格さで知られるシンガポールすら、重要な拠点の一つとなっていた。
陳志は2017年、シンガポールで総額4,000万シンガポールドル超に及ぶ不動産を次々取得。オーチャード近くの高級物件「Gramercy Park」の1,700万シンガポールドルのペントハウスに加え、デザイナーズ物件「Le Nouvel Ardmore」の1,620万シンガポールドルのスイートは、関係者によれば「ビジネス中枢」に改装。プライベートセラーやシティビューを備え、カラオケ室やシガーバーまで併設する私設クラブとして、取引や接待に使われていたという。
街中では「5555」の特注ナンバーを付けた黒のメルセデス・マイバッハで移動。チームはしばしば豪奢なパーティーを開き、セントーサ島に係留した全長53メートルのヨット「NONNI II」も会場となった。シンガポールを「庭」のように使っていた実態が浮かぶ。
2018年にはファミリーオフィス「DW Capital Holdings Pte」を設立し、6,000万シンガポールドル超の資産を運用と称した。財務責任者にはシンガポール国籍の陳秀玲(Karen Chen Xiuling)を起用(同氏は米国の制裁対象)。自動車ローン事業の「Skyline Investment Management」も立ち上げ、郊外には共有オフィスや、茶葉・ウイスキー・葉巻の保税倉庫まで確保。メキシコ大使のテキーラ試飲会を催したこともあった。米国の制裁が公表された当日も、同オフィスは月給5,500シンガポールドルの私設秘書を募集。陳志は既婚で子ども3人がシンガポールに居住しているとされる。
香港、ロンドン、台湾:資産「花開く」も各地で凍結の連鎖
英当局は制裁に歩調を合わせ、ロンドン金融街フェンチャーチ・ストリートのオフィス(評価額1億ポンド)を凍結。1,200万ポンドの高級住宅、新オックスフォード・ストリートやナイン・エルムズの計17戸の物件も対象となった。
台湾の取引記録では、プリンス・グループが2019年4~11月に台北市で約38億台湾元(約186億円)の高級住宅を取得。彭博が監督当局資料を集計したところ、陳志およびグループが掌握する資産は3億米ドル超に及び、上場株や繁華街の不動産が含まれる。太平洋の島国パラオでも、米当局は同グループが「既知の組織犯罪の協力者」と連携し、島を賃借してリゾート開発を企図したと指摘する。
香港上場の建設エンジニアリング「致浩達控股(Geotech Holdings)」、シンガポール本拠の設備会社「坤集団(Khoon Group)」の大株主でもあり、両社は米国の制裁リスト入り。両社の持分評価は計約1,400万米ドル。10月15日に両社は「制裁対応で法的助言を求めている」との声明を出したが、市場は即応。坤集団は23日に取締役が辞任、翌日には監査人が再任不追求を公表するなど、「帝国の崩れ」が可視化した。
衆目の前で動いたのはなぜか 国際社会の盲点
情報・リスクコンサルのS-RMでアジア統括を務めるモーガン・スターク氏は率直だ。「プリンス・グループと陳志は、長年『既知の存在』だった。では、なぜこのグループは『衆目の前』で、これほど長い間活動できたのか」。
シンガポール警察は、昨年(2024年)にはすでに疑わしい取引の通報を受け、海外当局に協力を求めていたと説明。ただ、米英が10月14日に共同声明で追加情報を示したことが、今回の強制措置に踏み切る後押しになったという。
シンガポール金融管理局(MAS)も、金融機関が「早い段階」で疑わしい取引報告を提出し、複数行が疑わしい口座を閉鎖した結果、「より大きな資金流入を金融システムに招かずに済んだ」と強調した。
それでも、こうした説明だけでは、巨大ネットワークがシンガポールに長年深く根を張れた理由を完全には語り尽くせない。
シンガポールに限らない。アジア各地の当局も動き始めている。台北地検は報道で把握後、直ちに立件。香港警察も詐欺対策で情報収集を進めているが、詳細は明らかにしていない。カンボジア政府報道官は個別のコメントを避けつつ、「カンボジアを『詐欺の中心地』と一括りにするのは国への損害だ」と述べた。
帝国崩壊の後
沿岸都市シアヌークビル(西港市)再開発という壮大な計画は、かつて陳志の名声を一段と押し上げた。プリンス・グループ傘下のCanopy Sands Developmentは、シンガポールの複数企業を巻き込み、「リームシティ」として知られる総額160億ドルの開発に参画させた。
だが、プリンス・グループの光沢はすでにひび割れていた。自由アジア放送(RFA)が昨年2月に疑義を報じると、同社は強く反発し、シンガポールの法律事務所デュエイン・モリス&セルヴァム(Duane Morris & Selvam LLP)を法顧問に起用。しかし現在、同事務所の担当者は「もはやプリンス・グループの代理人ではない」と述べ、コメントを控えている。
数々の疑念にもかかわらず、カンボジアでの事業拡大を狙う国際企業は、プリンス・グループを重要パートナーと見なしてきた。とりわけ、のちに「光の湾(Bay of Lights)」へ改称された934ヘクタールの大型案件で利権獲得を目指す企業は多かった。
キャピタランド・グループ傘下のアスコット(The Ascott Ltd.)は2024年4月、Canopy Sandsとの「ブレークスルーな提携」を発表し、2つのホテルの運営を受託。しかし米制裁の公表後、うち1つのビーチ・グランピング型リゾートの予約ページは削除された。アスコットは所有権を持たない運営受託のみだとし、事態を受け契約を終了したという。
ラディソン・ホテル・グループも今年9月、「光の湾」に176室のホテル計画を発表したが、取材には回答していない。ハーバード大のジェイコブ・シムズ氏は「デューデリジェンスの観点から、(プリンス・グループと組んだ企業が)リスクを知らなかったとは言い難い。各国の企業が政府による“デリスキング”に過度依存している現実を露呈した」と指摘する。
米英の制裁が効力を持つにつれ、世界にまたがる「詐欺帝国」は急速に瓦解している。陳志の劇的な伸長と崩落は、単なる犯罪者の興亡譚にとどまらない。グローバル時代における越境犯罪、政治腐敗、そして世界の金融システムの脆弱性がいかに共存・共鳴するかを映すプリズムだ。「プリンス」が崩れ落ちた今、世界の金融動脈で静かに吸血を続ける「第二、第三の陳志」は、いったいどれほど存在するのか。