「護国神山」と呼ばれるTSMCの一挙一動は、世界の半導体業界のみならず、台湾の安全保障とも密接に関わる問題として注視されている。2025年、検察・調査当局は『国家安全法』違反などの疑いで、TSMCに関連する2件の機密漏洩事件の捜査に着手し、国内では「護国神山」を守る必要性が改めて強く意識されることとなった。
1件目は、2025年8月に明るみに出た、日本と関連のある東京エレクトロン事件である。もう1件は、TSMCで長年要職を務めてきた75歳の元上級副社長、羅唯仁(ルオ・ウェイレン)氏が退職後、米インテル社に転じ、執行副社長に就任した問題だ。これら2つの案件はいずれも、TSMCの「国家の重要核心技術」と位置づけられる2ナノメートル先進プロセスに関わっている。
東京エレクトロン事件と羅唯仁氏の転職問題はいずれも、TSMCが自ら検察・調査当局に通報したことが捜査の端緒となった。羅唯仁氏の件については、TSMCが知的財産および商業裁判所に民事訴訟を提起するとともに、定暫時状態の仮処分を申し立て、被害の拡大を抑える狙いがあったとされている。
台湾の中核産業を支えるウエハー製造は「国家の重要核心技術」と位置づけられ、なかでも2ナノメートル先端プロセスは機密流出事件の焦点になりやすい。写真はイメージ。(写真/柯承惠撮影)
TSMC元社員が「内通者」か 検察が東京エレクトロン社を追加起訴 2025年8月に表面化した東京エレクトロン事件は、台湾高等検察署の知的財産検察分署が、調査局新竹市調査站の捜査を指揮して進めてきた。検察は最終的に、日本の東京エレクトロン(TEL)に所属する陳力銘氏(元TSMC社員)と、TSMCのエンジニアである呉秉駿氏、戈一平氏の計3人を起訴した。TSMCの「国家核心・重要技術」に当たる営業秘密を不正に取得した疑いがあるとして、『営業秘密法』『国家安全法』違反などの罪に問われ、求刑はそれぞれ懲役14年、9年、7年とされる。事件は現在、知的財産および商業裁判所で審理が続いている。
その後、高検署は、東京エレクトロン側が陳力銘氏に対する監督責任を十分に果たしていなかった可能性があると判断し、『営業秘密法』第13条の4、『国家安全法』第8条第7項などに基づく法人責任を問う形で、東京エレクトロン社を追加起訴した。4罪についてそれぞれ罰金が新台湾ドル4000万元(約1億9600万円)、800万元(約3920万円)、4000万元(約1億9600万円)、4000万元(約1億9600万円)とされ、あわせて新台湾ドル1億2000万元(約5億8800万円)の執行を求めた。これは『国家安全法』に基づき法人を起訴した初のケースとされている。
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高等検察署は、TSMC元社員による機密流出事件を捜査し、陳力銘氏(手前)を逮捕・起訴した。検察は懲役14年を求刑している。(写真/林益民撮影)
捜査当局が早くから違和感 羅唯仁氏はTSMCに「学術界へ」と説明 検察・調査当局が東京エレクトロン事件の捜査を進める中、TSMCの75歳の元上級副社長、羅唯仁氏が退職後、古巣である米インテル社に戻り、執行副社長に就任するとの情報が業界に広まった。この動きは、国家の重要核心技術に直結する人物の進路変更として大きな衝撃を与え、捜査当局の関心を集めることとなった。
当局は早い段階から情報収集を進めていたものの、決定的な証拠を把握できず、具体的な法的措置には踏み切れない状況が続いていたとされる。
羅唯仁氏はインテル出身で、2004年にTSMCに迎え入れられた後、組織担当副社長、研究開発担当副社長、先進技術事業担当副社長、製造技術担当副社長、研究開発担当上級副社長、企業戦略発展担当上級副社長などを歴任した。TSMC在職期間は20年以上に及び、2025年7月下旬に退職している。
インテル復帰の噂が次第に広がるにつれ、外部からは「2ナノメートルなどの先端プロセス技術の機密が競合他社に持ち込まれるのではないか」との懸念が強まった。ただ、TSMCと羅唯仁氏はいずれも説明を控え、事態は不透明なまま推移していた。
こうした中、2025年11月25日、TSMCは声明を発表し、羅唯仁氏が退職時に「学術界に進む」と説明していたものの、実際にはインテルに加わっていたことを明らかにした。また、羅氏は2024年上半期に研究開発部門から企業戦略発展部門へ異動した後も、研究開発部門の関係者に対し、会議への参加や資料提供を継続的に求めていたと説明している。
羅唯仁氏はTSMC入社前、インテルで勤務していた経歴を持つ。退職後の動きをめぐり、2ナノメートル関連の機密が持ち出された可能性も取り沙汰されている。(写真/柯承惠撮影)
機密流出の可能性 捜査当局、羅唯仁氏の資産を差し押さえ TSMCは、羅唯仁氏が自社の機密情報を競合企業に漏洩した可能性があると判断し、検察・調査当局および知的財産および商業裁判所に対し、同氏を相手取った民事・刑事の告訴を行った。これを受け、捜査当局は翌日の2025年11月26日、羅氏の台北および新竹の自宅を捜索し、パソコンやUSBメモリーなどの関連資料を押収した。 あわせて、知的財産および商業裁判所に対し、羅唯仁氏名義の株式や不動産の差し押さえを申し立て、裁判所の認可を得た。差し押さえの対象となった資産は、新台湾ドル10億元超(約49億円)にのぼるとされる。
捜査当局はTSMCの告訴を受け、迅速に捜索や資産差し押さえに踏み切ったが、関係者の間では「仮に国家の重要核心技術が『丸ごと持ち去られていた』場合、その損失は個人の資産規模では到底補えない」との見方も出ている。
高等検察署は、TSMCの告訴を受けた翌日、羅唯仁氏の自宅を捜索し、総額で新台湾ドル10億元超とされる資産を差し押さえた。(写真/柯承惠撮影)
不可解な退職手続き 段ボール検査を拒否、署名も行わず 関係者によると、羅唯仁氏はTSMC在職中、機密保持契約や退職後の競業禁止条項を含む契約に署名し、競合企業に就職しないことを約束する同意書も提出していた。退職にあたっては、社内規定に基づき、担当者による面談が行われ、これらの注意事項も改めて強調されていたという。 それにもかかわらず、羅氏は退職時、「学術機関に進む」と説明し、インテルへの転職については触れていなかったとされる。
さらに捜査当局が「理解に苦しむ」としているのが、退職当日の対応だ。2025年7月末、羅唯仁氏が退職手続きを行った際、オフィスから9箱の段ボールを搬出しようとしたが、TSMC側が中身の確認を求めたところ、同氏の同意が得られなかったという。加えて、退職チェックリストへの署名も拒否していたとされる。
羅唯仁氏は、TSMC在職中、会議の内容を詳細にメモすることで知られていた。装置メーカーや材料メーカーによる技術説明、先進プロセスに関する社内プレゼンテーションの場でも、質問を重ねながら書き留めていたとされる。20年以上にわたる勤務で蓄積された手書きメモの量は相当なもので、そこにTSMCが量産を予定していた最先端の2ナノメートル、A16、A14といった先進プロセス技術に関する機密情報が含まれているかどうかが、現在の捜査の焦点となっている。
羅唯仁氏は退職時、持ち出し品の検査に同意せず、退職チェックリストへの署名も拒否した。それでもTSMCが搬出を認めた経緯に、捜査当局は首をかしげている。写真は2025年の決算説明会で、魏哲家会長(中央)、黄仁昭CFO(右)、蘇志凱IR責任者(左)。(写真/柯承惠撮影)
なぜ止められなかったのか TSMCの対応に残る疑問 羅唯仁氏は、署名を拒み、段ボールの検査も受けないまま、9箱の荷物を携えてTSMCを離れることができた。事情を知る関係者によると、羅氏は2025年7月に退職し、10月にはインテルでの勤務を開始しているが、TSMCが訴訟に踏み切ったのは11月25日だった。関係者の間では、「退職当日に検査や署名を強く求め、必要であればその場で法的措置を講じることも可能だったのではないか」との指摘が出ている。なぜTSMCが当時、羅唯仁氏をそのまま退職させたのかについては、捜査当局もなお解明に至っていない。
同じく国家の重要核心技術である2ナノメートル先進プロセスを巡っては、東京エレクトロン事件では、TSMCの告訴後、捜査当局が速やかに元社員や現役技術者の身柄確保に動いた。一方で、羅唯仁氏のケースでは、疑念が生じた段階で即座に法的対応が取られなかった点が、対照的な事例として浮かび上がっている。捜査当局は、経緯の全容解明を急ぐとともに、国家核心技術の流出がなかったかどうかを慎重に調べている。