「たとえグラウンドを離れても、僕は野球人!」 周思齊の Game On 再出発

周思齊(撮影:Leon Hung)
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中華職業野球リーグで20年間プレーした周思齊が、2024年9月22日、ついにユニフォームを脱いだ。2005年8月13日の初出場から、まさに20年・20シーズンの歳月が流れた。この「20」には、数々の浮き沈みが詰まっている。ここで黄色いユニフォームを脱ぎ、新たな役割で次のステージに臨もうとする今、多くの人が彼の"再起"に注目。しかし我々が最も知りたいのは、人生の新章を迎えた周思齊が、次なる人生の試合をどう戦うのかということだ。この質問に対する彼の答えは、極めて確信に満ちていた。「私がやりたいのは、台湾人が自分たちをより深く理解できるようにすることです」

20シーズンの選手生活は「一貫している」と笑う周思齊。なぜなら2005年の初打席も、2024年の最後の打席も三振だったからだ。「でも、この2回のホームプレート上での心境は、同じところもあれば、違うところもありました」同じなのは「緊張」と「高揚感」。違うのは、初打席での高揚が興奮だったのに対し、最後の打席での高揚にはどこか物悲しさが混じっていたこと。「この20年間、毎日目を覚ますとグラウンドに向かうか、グラウンドにいるかのどちらかでした。20年間毎日同じことをしてきて、その瞬間に引退を迎え、突然朝からグラウンドに行かなくなる。それには慣れが必要で、確かに喪失感もありました」

他の引退選手が指導者としてユニフォーム姿で現場に立ち続けるのに対し、周思齊は「バックヤード」の道を選んだ。これは深く考えた末の選択だという。「この20年間、野球は確かに私の生活の中心でした。それは人生の重要な部分で、これは変わりません。今はグラウンドで走り回ってはいませんが、やっているのは依然として野球の仕事です。たとえグラウンドを離れても、野球がもたらす達成感は十分にあります。これは初めてホームプレートに立った日から、私が分かっていたことです」

周思齊
周思齊(撮影:Leon Hung)

彼は台北市立野球場に初めて入った時の衝撃を今でも鮮明に覚えているという。「部落や花蓮では、グラウンドは小さかったですからね!田んぼの脇や道端で野球をするくらいで。初めて台北で試合を見た時は『わぁ!台北市立野球場、すごく大きい!』という新鮮な驚きがありました。それは、プロ野球選手として初めてホームプレートに立った時の感覚に似ています。まさに『夢が叶った』という感じでした」。ホームプレートに立つだけで「鳥肌が立つ」ような感動があり、それはプロ野球選手だけが味わえる特別な感情だという。ユニフォームを脱いでも、周思齊はこの感動を続けたいと考えている。しかし彼が選んだのは、野球の歴史を整理し、台湾の野球環境を強化することによる「再出発」だった。 (関連記事: 【2025年 平渓ランタン祭り】2/8・12の2回開催 関連記事をもっと読む

野球の「頂点」が継続的な「強さ」を生む契機に

周思齊は、台湾の野球史には常に「断絶」があったと語る。しかし、これらの断絶こそが台湾が継続的に「強く」なれる機会だったという。最近終了した世界野球12強での優勝を例に挙げると、その前の頂点は2013年のクラシックだった。「2024年の優勝チームのコーチ陣は2013年クラシックのメンバーです。しかしその前、私たち選手は専門的なトレーニングを受けていませんでした。なぜか?それは台湾のプロ野球にそれ以前、20年の断層があったからです」周思齊が語るのは、彼自身が経験した「八百長」事件のことだ。

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