米国のドナルド・トランプ大統領がホワイトハウスに返り咲いて以来、その予測不能な政策と国際経済秩序を覆そうとする野望は、世界の投資家や政策立案者たちを緊張させ続けている。そうした中、ホワイトハウス経済諮問委員会のスティーブン・ミラン委員長が提唱する「マール・ア・ラーゴ協定(Mar-a-Lago Accord)」が浮上し、一部ではトランプ経済に理性的な指針が生まれるのではと期待されている。しかし、オーストラリアの元外務・貿易省チーフエコノミスト、ジェニー・ゴードン氏は、同計画の背後にある論理は全く成り立たないと厳しく指摘している。
トランプ氏は経済運営で一種の「曲芸」を試みようとしている。すなわち、ドルの基軸通貨としての地位を維持しつつもドル安を実現し、輸出を促進すること。大幅減税で景気を刺激しつつも、米国債の金利上昇は避けたい。他国に関税を課して貿易赤字を縮小させる一方で、海外投資が逃げ出すことは防ぎたい。ミラン氏は、自らの提案する「マール・ア・ラーゴ協定」によって、増税や歳出削減を伴わずに経常赤字と財政赤字を解消できると主張している。
2025年4月16日。ホワイトハウス経済諮問委員会議長スティーブン・ミラン氏がワシントンのホワイトハウスにて。(AP)「マール・ア・ラーゴ協定」は、1985年の「プラザ合意」に似た発想だ。当時、米国はフランス、日本、西ドイツ、英国と協力し、ドル安を進めて米国経済の立て直しを図った。今回、ミラン氏は他国に自国通貨高を受け入れさせ、米国の輸出を後押ししようとしている。協定名は、トランプ氏が所有するフロリダ州の高級リゾート「マール・ア・ラーゴ」に由来し、トランプ氏への忖度もうかがえる。
ワシントンシンクタンク「外交問題評議会(CFR)」の上級研究員、レベッカ・パターソン氏は、「1985年のプラザ合意と違い、トランプ版の協定は国際的な支持を得るのは難しい」と指摘。また、たとえ計画を試みるだけでも、米国経済や金融市場に重大なリスクをもたらす可能性があり、米国債市場の混乱を通じて世界的な金融危機を誘発し、経済成長を妨げる恐れがあると警鐘を鳴らしている。さらに、構造的観点からも、こうした行動は連邦準備制度理事会(FRB)の独立性を損なう恐れがあると指摘した。
「マール・ア・ラーゴ協定」ミラン氏の5ステップ計画
ホワイトハウス経済諮問委員会のスティーブン・ミラン委員長が2024年11月に発表した報告書に基づく「マール・ア・ラーゴ協定」は、トランプ政権の一部政策にすでに取り入れられている内容を含む。この計画は、外交問題評議会(CFR)のレベッカ・パターソン氏によって整理された5つのステップで構成されている。
第1歩:関税の実施
過去の経験によれば、関税は通常、自国通貨を上昇させ、関税対象国の通貨を下落させる。これは輸入品の価格が上昇し、消費者の購買量が減るためだ。ミラン氏は、外国通貨の下落によって米国の輸入業者はより安価に課税商品を仕入れられ、結果として消費者の支払額は大きく増えないと主張している。ただし、彼も現実が理論通りに進むとは限らないと認めており、それでもインフレリスクを抑えたまま政府歳入を増やせる手段だと見ている。また、トランプ政権が掲げる減税政策による財政赤字は、関税収入で補填される見込みだ。
第2歩:安全保障と引き換えの貿易譲歩
ミラン氏は「国防と貿易は切り離せない」とし、米国の安全保障の傘下にある国々に対し、国内企業への補助金削減、米国の関税に対する報復の自制、中国制裁への協力、米国での大型投資などを要求する構えだ。
第3歩:ドルの弱体化と覇権維持
トランプ氏や副大統領のJ・D・バンス氏は、ドルを基軸通貨の地位に維持しつつ、過度なドル高による輸出競争力の低下は避けたいと述べてきた。
「マール・ア・ラーゴ協定」では、各国中央銀行に対し、保有する米国債を売却して自国通貨を購入させ、ドル安・自国通貨高を促す。そして、米国債市場の混乱を防ぐため、各国には売却したドルの一部を超長期(50年や100年)債に再投資させる案が盛り込まれている。これにより、低利回りながらも安定した資金運用が期待されるという。
理論上はドル安と米国債市場の安定を両立できるが、パターソン氏は現実には「各国間の合意はほぼ不可能」と指摘。中国は内需拡大のため人民元安を維持したがっており、日本は為替安定を最優先、欧州は景気刺激のため利下げに動いているため、ユーロ高は輸出の重荷となる。
結論として、世界規模の協調は望み薄と見られている。
第4歩:多国間協調が失敗した場合は単独行動へ
「マール・ア・ラーゴ協定」によると、多国間の合意形成が不可能な場合、米国は単独で目標達成を目指す方針だ。具体的には、「国際緊急経済権限法(IEEPA)」を活用し、米国資産を保有する外国政府に対して「使用料」を課し、資産の魅力を低下させることでドル需要を抑制する可能性がある。また、米政府が保有する金準備や連邦準備制度(FRB)の資金を用いて外貨を直接購入する案も挙げられている。
第5歩:FRBの協力を求める
これらのステップには市場の混乱を引き起こすリスクが伴うため、計画の成功にはFRBの支援が不可欠とされる。たとえば、各国の中央銀行が長期米国債を大量に購入し始めたことで民間投資家がパニック売りに走った場合、FRBは市場安定化のために国債を買い入れ、流動性を供給する必要がある。また、超長期債を保有する外国中央銀行を支援し、市場の急激な変動を防ぐ役割も求められる。
その他の奇策も?
米国政府はこの設計図をトランプ氏の経済公約達成の一環と見なしている。ただし、ホワイトハウスは他の新たな手段の模索も続けている。パターソン氏によると、その一例として「ドル連動型ステーブルコイン」の支持がある。これはドルと連動する暗号資産で、米国債への需要を高め、金利低下に貢献する可能性がある。また、政府資産の売却(例えば土地や建物)による外貨準備の調達、エネルギー生産の拡大による原油価格の抑制といった方策も検討されている。これらはドル安によるインフレ圧力を緩和する狙いがある。
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2025年4月17日。顧客インタラクションマネージャーのジャヴィッド・モガダスニアがサンフランシスコの店舗でアメリカン・ジャイアントの衣料について語った。(AP)どんなリスクがあるのか?
ミラン氏は率直に、これらの政策は短期的な痛みを伴う可能性があり、インフレや市場の変動を引き起こす恐れがあると認めている。特に、各国の中央銀行が米国債やドルを一斉に売却すれば、深刻な影響が及ぶ可能性があるという。
パターソン氏は、1985年の「プラザ合意」が前例だと指摘する。実施から約1年後、当時の米財務長官ジェームズ・ベーカー氏は「プラザ合意は目的を達成した、いや、むしろやり過ぎた」と述べた。為替調整のはずが、結果としてドルは対円で約40%、対ドイツマルクで約20%下落し、政策担当者たちは1987年9月に再び集まり、「ルーブル合意」を結んで市場を安定させる必要に迫られた。
今回の「マール・ア・ラーゴ合意」は、それ以上のリスクを孕んでいるとされる。単なる貿易戦争による報復関税にとどまらず、米国企業が市場を失う恐れもある。例えば、2018~19年の米中貿易戦争後、中国は大豆の輸入先をブラジルに切り替えた。欧州連合(EU)は中南米諸国と自由貿易協定を結び、米国を除外した。さらに「欧州防衛白書–2030戦備計画」では、米国製の素材購入を厳格に制限する方針が明記され、従来の方針からの大きな転換を示している。
また、連邦準備制度(FRB)の独立性が疑問視されれば、海外投資家は米国から資金を引き揚げる可能性がある。これにより、米国政府の借入コストは上昇し、企業や家庭が融資を受けにくくなり、結果として経済全体に悪影響を及ぼす恐れがある。同時に「脱ドル化」の動きも加速しかねない。中国は特定産業への外資誘致に力を入れ、減税などの優遇策を打ち出しており、単なる市場シェアの拡大にとどまらず、世界的な資金流入を奪うことを狙っている。
「マール・ア・ラーゴ合意」の欠陥が次々と露呈
ミラン氏の論理はなぜ説得力を欠くのか。オーストラリアの元外務・貿易省チーフエコノミスト、ジェニー・ゴードン氏は5つの理由を挙げている。
1. 競争力は通貨安だけではなく投資が必要
トランプ氏は米国製造業の復活を繰り返し訴えているが、ドル安だけで実現できるものではない。輸入代替や輸出拡大を実現するためには大規模な投資が不可欠だ。しかし、米国は長年、世界最大の「借入国」であり、海外投資家からの資金で国内の貯蓄不足を補ってきた。貿易赤字を縮小するには、海外資金への依存を減らす必要があるが、一方で製造業の高度化には巨額の投資が必要で、それにはむしろ海外からの借入が必要となり、結果的にドル高を招いてしまう。これは、当初掲げていたドル安政策と逆行する。
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2. 高賃金のブルーカラー労働は戻らない
ゴードン氏はさらに、こうした政策で仮に製造業の復興が進んだとしても、かつてのような高賃金のブルーカラー職が復活するとは限らないと指摘する。雇用構造の変化の主因は、貿易だけではなく、自動化技術による人手の代替、人口高齢化、消費行動の変化、サービス産業の比重拡大などが影響しており、貿易はその一要素に過ぎない。
3. 米国債の超長期化はドルの覇権を揺るがす
外国の中央銀行が保有する米国債を強制的に100年ものの超長期債に切り替えると、これらの債券の流動性は低下し、国際的な「脱ドル化」の流れが加速するとジェニー・ゴードン氏は指摘する。ドルの基軸通貨としての地位は、米国がより多くの資金を低金利で借り入れることを可能にしてきたが、その特権が揺らげば、投資家は資金を引き揚げ、信認が崩壊する恐れがあるという。英国の短命首相リズ・トラス氏の例はその警鐘だ。市場が財政政策を容認しない場合、重大な代償を払うことになる。
4. トランプ氏はドル覇権を手放したくない
前述の通り、トランプ氏はしばしばドル高を批判し、製造業の競争力低下を問題視してきたが、歴代大統領と同様に、各国がドルへの依存を減らすことは望んでいない。ドルの覇権は米国に低コストの借り入れを可能にするだけでなく、ドル体制を通じて他国への経済制裁を行い、国際的影響力を維持する手段となっている。
5. 経済圧力と外交的威嚇では安定は得られない
「マール・ア・ラーゴ合意」の前提は、米国が圧力をかければ他国が通貨高に応じ、債務再編を受け入れるというものだ。しかし、トランプ氏の同盟国に対する態度を見ると、従順な協力が安定した関係につながるとは到底信じがたい。また、仮に一部の国がホワイトハウスのルールに従ったとしても、米国の構造的な財政赤字の解消には至らないとされる。