なぜこの記事を振り返るのか カシミール地方で観光客を標的にした致命的な攻撃事件が発生し、少なくとも26人が死亡した。この事件はインド国内で激しい怒りを呼び起こし、ニューデリーが長年イスラマバードに対して主張してきた「パキスタンによるカシミール地域でのテロ活動支援」という非難が改めて再燃する形となった。これを受け、パキスタンのハワジャ・ムハンマド・アシフ国防相(Khawaja Muhammad Asif)は4月28日、インドがパキスタンへの攻撃を準備している可能性があると表明し、パキスタン側はすでに軍備を強化し、高度な警戒態勢に入ったと強調した。
インドとパキスタンは1993年にもカシミール問題をめぐって対立した経緯がある。当時の報道を振り返ると、インドがパキスタンによるカシミールでのテロ活動支援を非難してきたのは、すでに長い歴史があることがわかる。カシミールは湖や山々に囲まれた風光明媚なリゾート地として知られるが、高地に位置し、交通の便が極めて悪く、人口も少ない。この地域をめぐるインドとパキスタンの長年の対立は、経済的利益が主因ではないと考えられている。
印パが1990年代に衝突した際、『新新聞』創設者の南方朔氏は、なぜ両国がカシミールをめぐってたびたび衝突するのかを解説する記事を執筆した。その記事は30年経った今でも、カシミールが「南アジアの火薬庫」と呼ばれるに至った背景を理解するための貴重な資料となっている。(新新聞編集部)
南アジア亜大陸 のヒマラヤ山脈の麓にはかつて「楽園」と呼ばれた場所が存在した。しかし、人類の野蛮さと堕落によって、その楽園はすでに地獄へと変貌し、今なお奈落の底へと落ち続けている。
ここはインド、パキスタン、中国の国境が交わるカシミールだ。今日「カシミールウール」として知られる毛織物の名称はここに由来し、「美しい」という意味を持つ。その名の通り、この地で作られる女性用のスカーフやカーペットは非常に精巧で美しい。
美しき楽園の終焉 カシミールはとりわけ古代の湖盆地に形成された渓谷が絶景で、人間界の楽園とも称された。16世紀、イスラムの英雄アクバルがこの地を征服し、ムガル帝国の版図に組み込んでから、丹念に整備され、南アジアの庭園として栄えた。盆地にはヒマワリよりも大きな バラが咲き乱れ、ダル湖とニゲン湖は四季折々の美しさを誇り、シルクロード最大の景勝地として知られた。英国統治時代には植民地官僚やインド各地の藩王たちの避暑地として愛され、1980年代まで毎年60万人の観光客が訪れ、湖には1200艘のハウスボートが浮かび、欧米の作家たちも創作活動の場として利用した。
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カシミールは約400年にわたり「楽園」の称号を保持し続けた。1756年にアフガニスタンに併合され、1819年にシク王国の侵攻を受け、1846年にインドに編入されるという数度の支配交代があったが、その地位は揺らがなかった。カシミールの伝承によれば、聖書のモーセがこの地に住み、イエス・キリストは十字架で処刑されずカシミールに逃れ、80歳まで生き、その墓はスリナガルにあるとされる。また、イスラム教の預言者ムハンマドもこの地を訪れたとされ、当地の最重要聖地「ハズラトバル廟」には彼のひげが保管されている。
美しいインドカシミールのダル湖。(資料写真、AP通信) しかし、その美しさと伝説は今や過去のものとなった。1990年初頭以降、独立運動と反インド運動が激化し、暴動が頻発。わずか3年で死者数は7500〜1万3000人に達し、流血と暴力が楽園を覆った。1990年、カナダ人女性観光客がインド兵士に拉致され、集団暴行を受けた事件以降、外国人観光客は途絶え、ハウスボートは荒廃し、カーペット産業も衰退した。カシミールの混乱と、それに伴う印パ間の緊張は、このかつての楽園を、まるで旧ユーゴスラビアのボスニアのような悲劇の舞台へと変えつつある。
宗教対立と流血の暴力 カシミールにあるイスラム教の最重要聖地の一つ「ハズラトバル廟」には、預言者ムハンマドの髭が納められている。この聖地は、イスラム過激派ゲリラの活動が激化する中で、自然とゲリラの拠点の一つとなっていた。1993年10月16日未明、インド政府は多数の軍・警察を動員し、聖殿を包囲。約70人のゲリラ戦闘員と百人以上の巡礼者が中に閉じ込められた。
他のムスリムにとって、インド軍による聖殿包囲は精神と信仰への冒涜と映り、カシミール全域で大規模な抗議デモと暴動が発生した。包囲は記事執筆時点で12日間続き、治安部隊はデモ参加者 に発砲し、少なくとも約100人が死亡したとされる。
この聖地包囲が引き起こした暴動は、1984年にインディラ・ガンディ首相がパンジャブ州のシク教寺院「黄金寺院」に治安部隊を突入させた「黄金寺院事件」を想起させる。あの突入で約1000人が死亡し、事件から4か月後、彼女はシク教徒のボディーガード2人に暗殺された。宗教的憎悪は最も根深い憎悪であり、今回の包囲がどれほどの代償を生むのか予測は難しい。
インドとイスラムの対立激化 インドでは宗教的対立が深刻化している。今年3月にはムンバイで連続爆破事件が発生し、250人以上が死亡。事件の背後には過激派組織「ムスリム同胞団」が関与したと見られている。こうした対立は決して最近始まったものではなく、その根源は1947年の英領インドからの独立時にまで遡る。以降40年以上にわたり対立は深まり続け、いまだ収拾がついていない。
ムスリムを主要構成員とするパキスタン。(資料写真、AP通信)
しかし、分離は完全ではなく、現在もインド人口の約12%はイスラム教徒、パキスタン人口の約3%はヒンドゥー教徒が占める。そして、カシミールはこの分離劇で最も不幸な存在となった。当時、ムスリム多数のカシミールはインドの藩王によって統治され、帰属先が未決定の中、パシュトゥーン人が侵攻。藩王はインドに支援を求め、第一次印パカシミール戦争が勃発した。
カシミールは三分割へ インドはカシミール地域の22万2236平方キロメートルを支配し、パキスタンは7万8932平方キロメートルを占有している。国連の調停により、将来的にカシミール住民が自ら帰属を決定する方針が打ち出された。1962年の中印国境紛争では、中国がインドから領土として4万2735平方キロメートルを奪取し、カシミールは事実上三分割された。最も肥沃なカシミール渓谷はインドが支配し、「ジャンムー・カシミール州」としてインド25州の一つに組み込まれている。同州の住民のうちムスリムは64%を占め、特にカシミール渓谷内ではムスリム比率は95%に達し、インドで唯一ムスリムが多数派の州となっている。
1947年の第一次印パ戦争後、1971年には再び両国が衝突し、この戦争が東西パキスタンの分離を促し、西パキスタンは現在のパキスタン、東パキスタンはバングラデシュとなった。戦後、印パ両国は「シムラ協定」に調印し、カシミールの国境を再画定し、「双方の協議による解決」を掲げたが、合意には至らず、問題は今日まで棚上げ状態が続いている。
インド統治下のカシミール地区での人口の7割以上はムスリム。分離主義の抗争が70年続いている。(AP通信)
インドが1947年に独立して以降の歴史を振り返ると、この45年間で国内の民族・宗教対立が激化し、国家の結束が徐々に崩壊してきたことが分かる。パンジャブ州のシク教独立運動、アッサム州の民族独立運動、スリランカとの紛争、そして独立当初から深刻だったヒンドゥー・ムスリム間の対立が、それを象徴している。カシミールを厳しく統治し続けたことが、最終的に民衆の反発を招いた要因でもある。
親米・反ソ勢力の台頭 1947年以降、インドはカシミールのムスリム住民を軍事的に支配し、少なくとも15万~25万の「国境警備隊」や「中央予備警察部隊」を展開、「特別地域法」に基づき、容疑者を最長2年間拘束できる体制を敷いてきた。このような弾圧に対するカシミールのムスリムの憎しみは察するに余りある。
1970年代から80年代にかけて、インドは「非同盟運動」のリーダーとして国際政治で存在感を発揮し、米ソの間で巧みに立ち回っていた。一方、パキスタンは長らく軍事独裁下にあり、反米政権として国際的な正当性を欠いていたため、カシミールのムスリム住民は精神的・物質的・政治的な支援を得られず、反インド運動は伸び悩んでいた。
ソ連軍のアフガニスタン侵攻はパキスタンが一時的に親米派に傾いた要因となった。(資料写真、AP通信)
1980年代後半になると、カシミールのムスリムによる反インド運動が激化。多数の若者がパキスタンに越境して武装訓練を受け、帰国後はゲリラ活動に従事した。ゲリラ戦闘員の数は約2000人から瞬く間に1万人以上に膨れ上がり、1990年代には組織力が一層強化され、インド側の対応も過激化し、地域全体が動乱状態に陥った。
カシミール、台頭するジハード(聖戦)組織 1990年代初頭、カシミールは反乱の時代に突入し、約120のゲリラ組織がインドの支配に対して活発に抵抗を続けている。主な派閥としては、イスラム民族主義の「ジャンムー・カシミール解放戦線(JKLF)」、過激な民族主義の「ヒズブル・ムジャヒディーン」、そして最も急速に台頭したイスラム原理主義勢力「アル・ジハード」が挙げられる。アル・ジハードは、カシミール全域にイスラム原理主義の独立国家を樹立することを目指し、過激な信仰を中心に据え、誘拐や報復的なヒンドゥー市民への攻撃といった手段も辞さない。
カシミールのイスラム過激派の増強は、インド国内のヒンドゥー原理主義の台頭にも後押しされた。近年、インド国内では民族主義が急速に政治の場で勢力を拡大し、世俗主義や妥協路線に反対、強硬手段による国家統一を主張する声が強まっている。1992年初頭、インド人民党(BJP)のムルリ・マノハル・ジョーシ(Murli Manohar Joshi) 党首が率い、ヒンドゥー教徒による「国家統一大行進」が45日間、1万5000キロメートルにわたり実施され、最終目的地であるカシミール州都スリナガルの中心広場でインド国旗が掲げられた。
インド人民党はインドの民族主義政党である。(資料写真、AP通信)
このデモは武力衝突の連鎖を引き起こし、パキスタン支配下のカシミール側のムスリム住民を激怒させ、彼らは一時、数万人規模で国境を越えてインド側のムスリム同胞を支援しようと計画したが、パキスタン政府が印パ戦争再発を恐れ、これを強制的に阻止した。
核武装と終わりなき悲劇 1990年代初頭以降、カシミールは憎悪と暴力の悪循環に陥り、死者数は7500人から1万3000人に達し、その多くは無実の女性や子供である。 この状況においては、ほぼ全員がインドに対する憎しみを抱いている。 約30万人のインド軍・警察部隊がこの敵意に満ちた土地に駐留し、まるで泥沼にはまったかのような状況だ。ヒンドゥー教徒の民間人は新たな脱出を余儀なくされ、数万人が家族を連れてインド本土に避難した。カシミールでは毎年平均2000人以上が逮捕され、しばしば違法な拷問や殺害が行われ、ムスリムの「殉教者墓地」には新たな犠牲者が絶えない。中には12歳の少年までもが銃を手に取り、軍や警察と対峙する。
カシミールの暴力と憎悪は拡大し続け、インドとパキスタンの1400キロメートルの国境は緊張の度を増している。インド側はパキスタンの陰謀を非難し、パキスタン側はインドによる人権侵害を訴え、カシミール住民の住民投票による自決を求めている。1992年以降、国境付近では銃撃や挑発行為が頻発し、両国とも内政問題を抱え全面戦争には至っていないものの、対立は激化し非難合戦が続いている。新たに選出されたパキスタンのベナジル・ブット首相は演説でカシミールの自決権を要求し、国連や人権団体の介入を呼びかけた。
さらに、印パの緊張の高まりに伴い、インドは1974年に核実験を成功させており、次なる戦争が勃発すれば核戦争に発展する恐れもある。ブット首相は核開発を断固として放棄しないと表明しており、米中央情報局(CIA)は、パキスタンが10~15発分の核兵器用物質を備蓄していると分析、南アジアを将来最も潜在的脅威のある地域と見なしている。
南アジアの緊張は今後も高まる一方で、カシミールの人々の不幸と悲劇はますます深刻化している。かつて400年にわたり「楽園」と称されたこの地は地獄と化し、1人当たりの国民所得が400ドルに満たない両国が、いまだ歴史的悲劇を繰り返し続け、カシミールの悲劇の終わりは見通せないままである。