「小五(調査局内部の作戦コード)注意、大廳に接近せよ。」
2024年9月、法務部調査局台北市調査処は極秘任務を実施していた。自動車、バイク、徒歩の追尾チームを展開し、台北市南京東路1段にある神旺ビジネスホテル周辺で待機。監視対象は、中国から入境したとされる不審人物・丁小琥氏だった。
情報提供によれば、68歳の丁氏はその日、ホテルのロビーで友人と会話していた。話のなかで南部の軍事基地に所属する複数の軍官の名前を挙げ、「必ず取り込むように」と友人に指示したという。大胆不敵なやり取りだったが、彼はロビー近くにいた「カップル(変装した調査官)」が会話を密かに録音していることに気付いていなかった。ほどなくして、調査局は「打虎計画(中国スパイ摘発を目的とした作戦名)」を発動した。
録音していた「カップル」は、台北市調査処の調査官がカップル風に変装して尾行していたものだった。この録音内容は翻訳・報告のプロセスを経て上層部に送られ、調査局長・陳白立氏の机に届いた。国家安全部門を率いる陳氏は、丁氏の活動があまりに大胆であると判断し、即座に厳格な対応を指示。台北市調査処に対し、全局的な支援体制を敷くよう命じた。
今回の作戦には台北市調査処に加え、陳局長の指示のもと国家安全担当部署、新店、北機站(調査局の北部機動チーム)も動員。さらに国防部政治作戦局、憲兵指揮部も参加する大規模な態勢となった。
調査局長の陳白立氏(写真)は、丁小琥氏の事件について全局的な体制での徹底捜査を指示した。(写真/柯承惠撮影)
中国共産党の正規スパイ 丁小琥氏、台湾の退役将校らを次々と取り込む 捜査は台湾高等検察署の検察官が統合指揮を執り、4度の捜査を経て21カ所を捜索。13人を事情聴取し、16人について証拠を確認した結果、2025年7月下旬、丁小琥氏を含む王文豪氏、譚俊明氏、呂芳契氏、楊博智氏、楊千慧氏、邱翰林氏ら7人を一斉逮捕。『国家安全法』などの容疑で拘束された。譚俊明氏らには退役軍人だけでなく現役軍人も含まれていた。
検察は2025年11月18日、『国家安全法』、『国家秘密保護法』、『陸海空軍刑法』に基づき丁氏らを起訴。調査当局は、丁氏が中共軍委政治部連絡局・南寧工作站(中国人民解放軍の対台湾工作機関)から指示を受け、台湾で組織を拡大し、軍事をはじめとする多分野の機密情報収集を試みていたと指摘した。これは、2015年に鎮小江氏が台湾でスパイ活動を行って以来、中国の工作員が再び台湾に入り込み、情報収集を行っていたことが判明したケースとなった。
国家安全部門の上層部は、今回の起訴が、中国公安が2025年10月28日に立法委員・沈伯洋氏の情報を公表したこと、さらに台湾ネット上で影響力を持つ人物「八炯(台湾の政治系YouTuber)」の温子渝氏や、「閩南狼(親中系インフルエンサーの呼称)」こと陳柏源氏に賞金を懸けた統戦宣伝への対抗措置としての意味合いもあるとの見方を示している。
検察は丁小琥氏と、現役・退役軍人を含む国軍スパイ7人を摘発した。写真はイメージで、本文の個別事案とは関係がない。(写真/顏麟宇撮影)
丁小琥氏、台湾の「護国神山」へ触手 TSMC技術幹部を狙う 専案担当者によると、香港籍を持つ中国出身の丁小琥氏は、複数の肩書を使い分けながら本来の活動目的を巧妙に隠し、台湾で動き回りやすい立場を構築していた。
丁氏が掲げていた肩書は、中国湖南拓展集団有限公司の董事長をはじめ、中華全国工商業連合会直属委員会執行委員、湖南省工商業連合会常務委員、湖南省帰国華僑連合会委員、湖南省光彩事業促進会副会長、長沙市工商業連合会副会長、長沙市光彩促進会副主任、長沙市帰国華僑連合会常務委員、湖南国際友好連絡会理事、湖南省芷江媽祖文化交流協会副会長、長沙市第13回人民代表大会民族華僑外事委員会委員――実に11種類に及ぶ。
丁氏は近年、宗教活動やビジネス交流を名目に台湾各地を往来していたが、国家安全関連機関はその動向を十分に把握していなかった。しかし今回、丁氏が複数のルートを通じてTSMCの機密情報を探り、社員と頻繁に接触していることが判明。接点となったのが、TSMCの陳姓の技術幹部だった。この情報を台北市調査処の調査官がつかんだことで、丁氏の動きは急速に注目対象となった。
丁氏は長沙で台湾人企業家らと交流し、その紹介を通じて陳姓の技術者と接触。この陳氏はTSMCで20年以上勤務し、5nm、7nm、16nm、20nmの半導体プロセスに関する信頼性評価、製品信頼性、物理・電気特性解析といった国家的にも重要な技術領域に精通していた。
丁小琥氏はTSMC社員と頻繁に接触し、陳姓の技術幹部を取り込んで技術文書を不正に持ち出させていたとされる。(写真/柯承惠撮影)
ホテルロビーで監視・録音 調査局が丁小琥氏の「本性」を確認 丁氏はこの陳氏に狙いを定め、「TSMCを辞めて第二のキャリアを築くべきだ」と巧みに誘導した。 さらに「資金は自分が用意する」「技術は陳氏が担う」として、香港・マカオ地域に会社を設立し、のちに台湾に再進出するといった青写真を提示。陳氏が成功して帰台すれば社長に就任させると持ちかけ、陳氏はその言葉を信用してTSMC内部で協力者を募り、技術資料を密かに持ち出すようになった。
調査局は当初、この案件を中国側のハイテク企業による「人材獲得と技術盗用」の一環と推定。丁氏を『営業秘密法』違反の可能性で扱い、台湾の「護国神山」と呼ばれるTSMCの技術を守るため、監視体制を強化した。丁氏の手口を把握するため、多方面に情報網を張り、尾行と証拠収集が続けられた。
しかし2024年9月、台北市の神旺ビジネスホテルで丁氏と初めて対面した際、現場の監視チームは彼の発言に衝撃を受け、緊張を一段と高めた。TSMCの人材引き抜きにとどまらず、これは「本格的なスパイ活動」である可能性が濃厚になったためだ。丁氏の動きは、10年前の鎮小江氏によるスパイ事件と酷似していた。鎮氏の事件では退役少将を含む10人以上の軍関係者が取り込まれ、軍内部に深刻な影響を与えたが、刑期がわずか4年だったこともあり、後の法改正で刑罰が大幅に強化される結果となった。
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調査官は丁小琥氏の会話内容を聞き、これは通常の営業スパイではなく本格的なスパイ工作だと悟った。(写真/蘇仲泓撮影)
退役中佐と現役士官長も関与 ネットワークは氷山の一角か 検察・調査チームは2024年9月以降、丁氏の足跡を遡り、同氏が10年以上前から宗教活動を理由に両岸を頻繁に往来し、2〜3カ月間隔で台湾滞在を続けていたことを確認した。
経歴調査により、丁氏が人脈を通じて陸軍司令部戦備訓練処の退役中佐・王文豪氏を取り込み、さらに王氏の紹介で国防部参謀本部防空ミサイル指揮部の退役中佐・譚俊明氏とも接触。譚氏も丁氏側に取り込まれていたことが明らかになった。
その後、王文豪氏と勤務経験を共有していた現役の陸軍装甲兵指揮部士官長・呂芳契氏ともつながり、呂氏が昇進を強く望んでいたことを察知した丁氏は、昇進や金銭を餌に呂氏を取り込んだ。
また、譚俊明氏は元空軍飛信司令部少佐の邱翰林氏と親しく、邱氏は退役後の事業が不調で損失を抱えていた。丁氏の金銭誘惑で邱氏は崩れ、邱氏の妻で元空軍飛信司令部中尉の楊千慧氏、そして楊氏の弟で北区合同試考センターに所属する機械化歩兵少佐の楊博智氏も巻き込まれ、国家への背信の疑いが生じている。
検察・調査側は今回、丁小琥氏に関する初回の起訴を行ったが、丁氏は長年にわたって宗教・ビジネス交流を装い台湾で活動しており、譚俊明氏ら関係者は丁氏が構築した「スパイネットワーク」のごく一部にすぎない可能性がある。今後、検察側がどこまで全容を把握し、このネットワークの解体に向けて動けるかが焦点となる。