外務省は12月24日、過去の外交記録17冊、総ページ数6,800ページ超を一般公開した。公開された資料は主に1994年の細川護熙政権および村山富市政権期のものであるが、中でも注目を集めているのは、当時の羽田孜副首相兼外相が1994年1月に訪中した際、中国の銭其琛外相(当時)から「日本と台湾の政治要人の往来を認めない」よう強く要求されていた記録だ。
外交文書が明かす当時の緊迫した情勢
共同通信の報道によると、今回の公開文書には北朝鮮情勢や訪中に関連する記録が多数含まれている。1994年の細川首相訪米時の文書では、核開発を推し進める北朝鮮への対応が日米首脳会談の主要議題であったことが示された。
また、羽田外相の訪中時に中国側が日台間の要人交流を一切認めない姿勢を鮮明にしていたほか、日米包括経済協議やイタリア・ナポリでの主要7カ国(G7)サミットに関する資料も網羅されている。
特筆すべきは、外務省が台湾との関係について「対応を誤れば、日中関係の根幹を揺るがしかねない極めて敏感な問題」と位置づけていた点だ。現在、高市早苗首相による台湾問題を巡る国会答弁が改めて注目を集める中、今回解禁された外交記録は、日本にとって台湾問題のハンドリングがいかに困難であるかを改めて浮き彫りにした。

中国による閣僚訪台への強い反発
報道によれば、外交文書には1994年1月の羽田外相訪中時、銭其琛外相が「日台間の要人往来は容認できない」と表明した経緯が記されている。銭氏は当時、日本の熊谷弘通商産業相(当時)に訪台の意向があるとの情報を受け、これを強く牽制したとみられる。
文書によると、銭氏は「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部である。日本政府は中国政府のこの立場を十分に理解し、尊重する」と明記された1972年の日中共同声明を遵守するよう日本側に迫った。
さらに、銭氏は日台間の民間レベルの経済関係には異議を唱えないとしつつも、閣僚らによる公式な往来は認めない考えを強調。これに対し羽田氏は、日本は「『二つの中国』を支持することはない」と回答した。その後の会談で、中国の李鵬首相(当時)は羽田氏が「一つの中国」の立場を再確認したことを評価したという。また、1994年3月の細川首相訪中時にも、李鵬氏は日台間の外交関係や公式な関係構築に反対する意向を改めて伝えていた。
閣僚訪台の断念と外交の攻防
記録によれば、細川首相は1993年11月に米国での国際会議に伴う夕食会で台湾高官と接触し、同年12月には通産省(現経済産業省)の通商政策局長が訪台していた。中国側は、日台断交後に途絶えていた「政府間交流」が復活する兆しに強い警戒感を抱いていたようだ。
外務省中国課が羽田外相の訪中に備えて作成した資料では、「中国側は細川新政権が対台湾政策を変更しようとしているのではないかと懸念している」と指摘。現職閣僚の訪台や、当時の李登輝総統の訪日計画については「特に慎重な対応が必要である」と進言していた。結果として、羽田氏の訪中後に熊谷通産相の訪台計画は事実上白紙となり、台湾側は「遺憾」を表明する事態となった。
また、1994年10月の広島アジア競技大会では李登輝氏の招待が検討されたが、中国側の圧力と日本政府の配慮によって訪日は実現しなかった。一方で、当時の行政院副院長(副首相に相当)であった徐立徳氏がアジア大会参加の名目で訪日し、これは当時の重要な外交的突破口と見なされた。なお、李登輝氏が総統退任後に初めて日本を訪問できたのは、それから7年後の2001年のことである。
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