今年(2025年)は日中戦争(抗日戦争)勝利から80周年にあたる。台湾の野党・中国国民党のシンクタンク「国家政策研究基金会」は8月29日、記念シンポジウムを開催し、米スタンフォード大学フーバー研究所の研究員、郭岱君氏を招いて抗戦史をめぐる講演を行った。郭氏は、中国と日本の国力差が極めて大きかったため、当時の国民政府軍を率いた蔣介石が「日本は国土が小さく人口も少ない」と分析し、長期戦で持久的に抗戦する戦略を立てたと指摘した。
蔣は四川を抗日の最終拠点に定めたが、当時の四川は地方軍閥の支配下にあり、国民政府の力は及ばなかった。最終的に共産党軍が四川に進入したことで、国民政府軍は「共産党討伐(剿共)」を名目に介入し、四川を掌握することに成功。こうして蔣が構想した持久戦の戦略が完成したと郭氏は述べた。
国家政策研究基金会は同日、「中国国民党記念・抗戦勝利および台湾の日本統治からの解放(台湾光復)80周年座談会」を開催し、郭氏が抗戦史について講演を行った。
日本侵攻と蔣介石の初期の忍耐 郭氏はまず、当時の中国と日本の国力差は歴然としており、国民政府には抗戦能力が不足していたと強調した。1931年の満州事変(九一八事変)や1933年の長城抗戦では、中国側は後退を余儀なくされ、「隠忍と退却」を選ばざるを得なかったという。
当時の行政院長(首相に相当)は汪精衛、軍事委員会委員長は蔣介石だった。郭氏によれば、汪は「戦えば卵で石に挑むようなものだが、戦わなければ世論の猛批判を浴びる」と語り、左派知識人からの非難を恐れていた。蔣もまた「中日の国力差はあまりに大きく、軽率に戦うことはできず、ただ忍ぶしかない」と述べていたという。 郭氏はさらに「1931年から33年にかけて、蔣の手記には繰り返し『忍辱負重(屈辱に耐えて重責を担う)』との言葉が記されている」と紹介した。当時の中国政府の対日方針は、蔣の日記からも「外交では和解を装い、交通整備は軍事準備に、産業発展は経済基盤に、教育は国防強化に」と読み取れるとし、「韜光養晦(力を蓄え機を待つ)」が唯一の選択肢だったと説明した。
国家政策研究基金会が29日に開催した「中国国民党・抗戦勝利および台湾光復80周年記念シンポジウム」。(写真/楊騰凱撮影)
郭氏によれば、1933年以降になると中華民国の対日戦略は徐々に形をなし、「持久戦」が大戦略として固まった。これについて「持久戦は毛沢東の発想ではないか」との問いに、郭氏は「持久戦という概念は古今東西に共通するもので、誰かの専売特許ではない」と述べた。
しかし当時の四川は各地軍閥の勢力が割拠し、国民政府の統制は及ばなかった。郭氏は「1934年、蔣は『共産党討伐(剿共)』を名目に西南へ進出する策を得た」と解説する。江西を拠点としていた共産党軍(紅軍)は「長征」により四川、雲南を経て延安へ向かったが、それは国民政府軍の包囲作戦によって西南に追い込まれた結果だった。
郭氏は「国民政府軍は紅軍を徹底的に殲滅せず、あえて追撃にとどめた。そのことで紅軍が四川へ進入し、結果的に国民政府軍が四川に足場を築くことができた」と述べ、蔣が描いた抗日の持久戦構想がこれによって完成したと指摘した。
紅軍を利用して四川を掌握した蔣介石の巧妙な戦略 郭岱君氏は、蔣介石の戦略を「極めて緻密な操作だった」と説明した。紅軍が四川に入ると、現地の川軍(四川軍閥の軍隊)と衝突。川軍は劣勢に立たされ、さらに紅軍は資金・人員・食糧・武器を次々と要求し、地域を荒らし回った。窮地に陥った川軍は中央政府に援助を求め、これによって蔣介石は四川に進入する道を開くことができたという。結果として、1912年に成立した中華民国が四川に正式な統治権を及ぼしたのは23年後の1935年、初めて四川省政府主席を任命した時だった。
蔣介石が対日戦略として持久戦を決断し、四川を最終拠点に定めたことを示す資料。(写真/楊騰凱撮影)
四川を掌握した後、蔣介石は大きな自信を得た。1936年1月15日の日記には「西南を統一したことで生命の基盤を得た。ここに中国復興の拠点が築かれた」と記している。郭氏は「日本は国土が狭く人口も少ない。長期戦で中国戦線に釘付けにされることが致命傷となる」と蔣が見抜いていたと解説。1936年頃には「日本に屈せず持久戦を戦い抜く」という大戦略が固まっていたという。
郭氏は続けて、日本軍の進撃経路を振り返った。日本は当初、天津・北平(北京)を迅速に制圧し、1937年の上海戦から南京、徐州、武漢へと長江流域を南下。1938年に武漢が陥落すると、その後5年間、中日両軍は洛陽・襄陽・衡陽を結ぶ「三陽一線」で対峙した。このラインは平原から山岳地帯へ地形が変わる境界にあたり、その背後に広がる唯一の平野が四川盆地だった。郭氏は「日本軍は武漢を落とした時点で限界を悟り、講和や蔣介石排除を狙った。汪精衛が日本と協力したのもその流れだった」と述べた。
四川攻略をめぐっては、日本軍には二つの進路があった。ひとつは黄河沿いに潼関を越えて入るルート、もうひとつは長江をさかのぼり三峡を通過するルートである。しかし蔣は周到な布陣を敷き、潼関には胡宗南を配置し、三峡は陳誠に守らせた。郭氏は「蔣介石は抗共しか考えていなかったというのは誤解だ。実際には繰り返し敗れても戦い続け、胡宗南は河南や湖南へ出撃し、さらにはビルマ戦線に派遣された。抗日の方針が最重要だったのは明らかだ」と強調した。
抗日戦で戦死した中国将軍200人のうち共産党出身はわずか2人 郭氏はまた、蔣介石は当初1939年頃まで総力戦を先送りし、ドイツ式装備の師団を整える時間を稼ごうとしていたと解説した。しかし1936年末に西安事件が発生し、この構想は崩れた。事件の結果、国民政府と共産党は内戦を停止し、全面的な抗日戦争へと突入することになった。
蔣介石の日記に関する関連文書。(写真/楊騰凱撮影)
中国が第二次世界大戦で払った犠牲について、郭氏は「戦死者は320万人以上。その中で将官200名が戦死し、うち198人は国民党軍、共産党軍出身はわずか2人に過ぎない」と指摘した。また「中国は日本軍の大部隊を戦場に釘付けにし、太平洋や北アフリカ戦線に兵力を向かわせなかった。英国のチャーチル首相から軽視されていたが、中国軍はフランスのようにすぐ降伏することもなく、シンガポールで8万人の英軍が一瞬で投降したのとは対照的に戦い続けた。我々は第二次大戦において非常に大きな貢献をした」と語った。
郭氏は最後に「この戦争は三世代にわたり中国人の運命を変えた。国民党と中華民国政府が全国の軍民を率い、血と犠牲によって勝ち取った成果であり、抗戦史は国民党にとって極めて貴重で、誇るべき財産だ。歴史の責任を背負うのは我々の義務であり、その責任から逃れることはできない」と強調した。