「戦争が決めるのは『誰が正しいか』ではなく、『誰が生き残るか』である」(War does not determine who is right -- only who is left.)。─英国の哲学者 バートランド・ラッセル (Bertrand Russell)
フランスの思想家レイモン・アロン氏も著書『平和と戦争の間で』の中で、「国際関係に道徳は存在せず、あるのは力の均衡だけだ」と記している。
小国がしばしば陥る最大の錯覚は、他国の「道徳心」が自国を守ってくれると信じ込むことだ。だがそれは現実から目をそらす自己慰撫にすぎない。
台湾が直面しかねない外交上の悲劇も、まさにここにある──国際政治を友情劇の延長線上で捉え、地政学的な力学を『道徳的な約束」と読み替えてしまう。しかし暴風雨が本当に迫ったとき、手の中にあるのは盟約ではなく、ただの祈りかもしれない。
台湾が繰り返し口にする「台湾有事は、日本有事であり、米国有事である」という言葉は、あたかも唱え続ければ条約のように効力を持つかのように語られる。しかしそれは願望を戦略に変えるための呪文ではない。この心理的な防衛機制の背景には、「台湾有事は、しばしば台湾だけの『有事』に終わる」という現実を直視したくない集団心理がある。
これは悲観ではなく、国際政治の最古の法則であり、宿命ではなく、力と利益の冷徹な写し鏡。歴史が小国に向けて残してきた、あまりに残酷な備忘録でもある。
ロシア・ウクライナ戦争:舞台裏が照らし出した国際社会の素顔
4年にわたる硝煙が語っているのは、戦争のドラマではない。むき出しの国際秩序そのものだ。ウクライナは拍手とツイート、祈り、軍事支援、掲げられた旗を受け取ったが、戦場に踏み込んだ米軍やNATO兵士は一人もいない。
キーウの街が夜空を赤く染めているときも、ブリュッセルの記者会見場には相変わらず暖かなライトが灯っていた。マリウポリの子どもたちが国境で凍えて命を落としているときも、欧州の外相たちはコーヒーカップを手に交渉を続けていた。ロシア軍が押し寄せた瞬間、NATOが口にしたのは「支えるが、介入はしない」という一文だった。
そこにあるのは、ほとんど残酷と言っていい距離感だ。外交の世界では、同盟国はあなたの痛みには付き合ってくれるが、あなたの代わりに傷ついてはくれない。戦場では、味方は「倒れるな」と支えてくれても、あなたの代わりに地面に横たわることはない。
ロシア・ウクライナ戦争は、世界に一つの残酷だが永続する現実を見せつけた──小国の悲劇は、大国の「緊急事態」には決してならない。この物語の「ウクライナ」を「台湾」に置き換えたとき、筋書きは少しは優しくなるのだろうか。歴史が告げる答えはこうだ──「いいえ。それどころか、もっと冷たくなる」。
アメリカ:言葉は同盟国のもの、利益こそが本音
アメリカの対台湾政策は、理想主義という包装紙に包まれながら、芯の部分は鋼のように冷徹な現実主義でできた迷路だ。一見なじみ深く見えても、そこを進むルートは、私たちが思い描いてきた道筋とはまったく違っている。
トランプ第二任期中に中国本土に関税が課せられたが、台湾のハイテク製品への関税は中国よりも重かった。これは誤りではなく、順位である:アメリカ優先であり、台湾は含まれていない。IEEPAはトランプ氏によって万能鍵となり、外に税をかけ、内に圧力をかけ、台湾は地政学的な受動的なパーツに過ぎない。
(2)TSMCのアメリカ進出:投資ではなく地政移動の強制である
これはTSMCの海外拡大ではなく「重要能力の戦略的徴用」である。アメリカが求めるのは技術、生産能力、供給チェーンであり、台湾の安全性向上ではない。TSMCの米国進出は選択ではなく、求められた文明移動である──ガーディアン紙風の皮肉な表現をするなら:それは工場の移転ではなく、脱アジア入アメリカ版の「命門の抽出」である。
(3)台湾に少なくとも3,000億ドルの投資を要求:味方の口調で、恐喝の内容である。
多くのアメリカメディアはこの事実を確認している。これは支援ではなく、価格の交渉である。パートナーではなく、買い取りである。
台湾が支払い済みのハイマース、ジャベリン、スティンガー、F-16V。それは「数ヶ月の遅れ」ではなく、ほぼ侮辱的な時間表の遅れであった。米国防省自らが認めている、軍産能力の不足であり、期限内の納品が不可能である。
金を払っても武器を買えないなら、台湾は本当に戦いの日に米軍が映画のように空から降ってくる、あるいは波を越えて来ると信じているのか。それは希望ではなく、幻想である。
アメリカは長年にわたり台湾をWHOに再加入させることに成功していない。それはできないのではなく、しないのである。政治哲学者のハンナ・アーレント氏は「権力と道徳は同席しない」と言った。アメリカの対台湾政策はその最良の例である。
日本:文化的な温度が戦略の冷徹さを覆い隠す
台湾ではしばしば「親台」という言葉がロマンチックに語られる。しかし外交行動を決めるのは、温かい感情ではなく、刃のように冷たい利害である。
高市早苗首相が「台湾有事は日本の存亡危機事態になり得る」と述べた際、中国側は激しく反発した。だが注視すべきは北京の怒りよりも、東京の対応だ。前首相の石破茂氏は即座に「どの事態が日本の有事にあたるか、事前に約束することはない」と距離を置き、東京大学の松田康博氏も「高市氏の発言は政策ではなく、想定外のコメントだ」と明言した。
日本の戦略は明確だ。日本は「日本のために」戦うのであって、「台湾のために」破滅することはない。漁業権で譲らず、農産物の輸入停止を続け、貿易でも一切緩めない──これこそが国家としての日本の実像である。
台湾が日本を「救援隊」として期待するなら、それは感情を戦略に取り違える危うい錯覚と言える。
台湾:私たちは自らの脆弱さを直視できていない
実際のところ、台湾の脆弱性は想像以上に深い。台湾はウクライナではない──ウクライナは戦後に再建できるが、台湾はそうはいかない。
半導体工場が停止すれば、サプライチェーンは戻らない。戦禍が広がれば資本は「一時的に退避」ではなく、「永遠に撤退」する。高齢化社会が攻撃を受ければ、国力は一気に崩れ落ちる。民主制度は砲火の中では守られるどころか、真っ先に沈黙を強いられる。台湾にとって、戦争は試練ではなく「終わりの始まり」になり得る。
民主主義の酸素は平和だ。戦争はまずメディアを壊し、政治を侵食し、社会の信頼を破壊する。ユルゲン・ハーバーマス氏は「民主主義に必要なのは時間であって、炎ではない」と語った。そして戦争が最初に奪うのは、その「時間」である。
「誰が台湾を救うのか」ではなく、「台湾はどう自らを救うのか」
よく問われるのは「いざという時、誰が台湾を助けてくれるのか?」という問いだが、本当に考えるべきなのは「台湾人以外の誰が、台湾のために本気の代償を払うつもりがあるのか」という一点だ。アメリカは立場を表明し、日本は「懸念」を示し、EUは非難声明を出し、国際社会は哀悼の意を示すだろう。けれど、焼け野原を実際に踏みしめるのは、最後まで台湾の人々でしかない。
だからこそ、台湾の安全保障は、そろそろロマンから離れ、現実主義に引き渡されなければならない。台湾が生き延びるためのルートは、少なくとも三つある。
(1)実効的な抑止力:攻撃のコストを「自殺的」に高める
抑止とはスローガンではなく、相手に「勝利という計算式そのものが成立しない」状況をつくることだ。どんな攻撃者にも「たとえ勝っても未来を失う」と思わせるだけの現実的なコストを積み上げる。それが初めて「抑止」と呼べる。
(2)世界のサプライチェーンで「失えない存在」になり続ける
重要なのは「好かれること」ではなく、「失ったときの痛みを世界に自覚させること」だ。台湾を日米の供給網と安全保障の中核に深く組み込み、「台湾なしでは回らない世界」を構造として作る。それが最大の保険になる。
(3)北京との対話を維持する 誤算を防ぐための最低限の安全装置
政権が最も触れたがらないテーマだが、対話は屈服ではない。誤算や誤解を避けるための、文明社会における最低限の安全システムである。本当に危険なのは対話ではなく「沈黙」だ。沈黙が続けば、最後には「ミサイルだけが意思疎通を担う世界」に近づいてしまう。
真実の前では、ロマンは罪になる
国際政治には救命艇などなく、自力で泳げる国だけが生き残る。台湾で有事が起きれば、世界は動揺し、市場は乱高下し、メディアは不安をかき立てるだろう。だが、実際に血を流すのは、いつだって台湾の人々だ。
本当の代償を払うのは、台湾の次の世代である。十分に強くなれなければ、歴史に呑み込まれるのは、ほかでもない台湾自身だ。
カミュはこう語っている。「真実と希望のあいだで、私は真実を選ぶ」。真実を直視することができる民族だけが、未来について語る資格を持つ。