竹連帮のトップ 黄少岑が死去 竹連帮の台頭と黄少岑の戦略に迫る!政財界への浸透の内幕が明らかに

竹連帮のトップ・黄少岑の死去が報じられ、後継者人事の動向とともに竹連帮がどのようにして台頭してきたのかにも注目が集まっている。(画像:記者情報ネットワークより)
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台湾最大の暴力団組織である竹連帮。その竹連帮の総帥「ヤオヤオ」こと黄少岑が4日、台北栄民総医院で死去した。享年75歳。黄少岑の死去により、竹連帮の後継者人事が注目を集めており、また彼が竹連帮の台頭と盛衰にどのような重要な影響を与えたのかにも関心が寄せられている。風傳媒が詳しく解説する。

黄少岑はいかにして台頭したのか?

暴力団組織の竹連帮。その盛衰の背後には黄少岑という重要な推進者がいた。1951年、台中市生まれの彼は「ヤオヤオ」という通称で知られ、地元の暴力団「正気帮」で頭角を現した。その強烈な行動様式が竹連帮創設者の陳啓礼の目に留まった。

陳啓礼の引き立てにより、黄少岑は急速に昇進し1995年に正式に総帥に就任、竹連帮史上初の公然たる指導者となった。しかし、その台頭は平坦な道のりではなかった。1981年「法廷流血事件」に関与し投獄されたが、それでもなお、その影響力は衰えることはなかった。

最終的に、深い人脈と組織の掌握力を活かし、出所後、竹連帮の権力中枢に返り咲くことに成功。組織の現代化経営への道を築いた。

竹連帮はいかにして国際的な大規模組織となったのか?

1957年の設立当初、竹連帮は孫徳培を中心とする中学生による自己防衛グループに過ぎなかった。当時の台北県中和郷(現在の新北市永和区)竹林路で、学生による校内グループとして発足。その後、内外の要因により、徐々に国際的な大規模組織へと発展していった。

初期:1960年代から1970年代

陳啓礼の指導の下、竹連帮は新メンバーを受け入れ勢力を拡大。賭博・クラブ・闇金融などの分野に進出。厳格な内部分業制と忠誠を重んじる組織規律により強い結束力を持つようになった。

1980年代の拡大と挫折

1984年の江南事件で、政府の依頼を受けて反体制派の暗殺に関与したことで注目を集めたが、これを機に台湾政府による全面的な暴力団掃討作戦が展開され、組織は危機に陥る。多くの中核メンバーが逮捕されるか国外逃亡を余儀なくされ、組織内部の権力の空白が深刻化した。

1990年代の復活と拡大

1990年代、暴力団掃討作戦が緩和されると、竹連帮は急速に復活し経済的影響力を再構築。この時期に黄少岑が実権を掌握し、非合法・合法事業の並行発展戦略を打ち出し、組織の更なる拡大を推進した。

〜黄少岑の組織運営手法とは?〜

二本立て戦略:地下組織から合法ビジネスへ

総帥就任後、黄少岑は「二本立て発展」戦略を採用。一方で地下カジノや闇金融などの非合法事業を維持しつつ、他方で合法化を強力に推進し、不動産・飲食・エンターテインメント産業などに進出。

合法的な経済活動を通じて組織の財政基盤を固め、政府の直接介入を減らすことを主張した。 (関連記事: 総統もBL漫画を読む? 頼清德が台北ブックフェアで48冊を大量購入:読書リストを公開 関連記事をもっと読む

内部分裂と再統合

内部の異なる派閥間の権力争いに直面し、黄少岑は「分断統治」の心理戦略を採用。忠実な派閥を使って反対勢力を抑制しつつ、資源と地位の分配によって各勢力を懐柔し、組織の安定を維持した。

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