1614年冬、徳川家康率いる東軍が豊臣秀頼の大阪城を包囲した。当時すでに豊臣秀吉の死から十数年が経ち、家康は関ヶ原の戦いで勝利を収めて征夷大将軍となり、江戸幕府を開いていた。しかしそれでも豊臣家を脅威とみなし、「叛乱鎮圧」を名目に攻撃を仕掛けた。
厳冬のため長期戦は困難となり、両軍は和議に移行。家康は大阪城の外堀を埋め、城壁や砦の一部を破壊するよう要求し、豊臣方は兵糧不足や士気低下からこれを受け入れざるを得なかった。結果、城の二丸・三丸が取り壊され、防御は大きく削がれた。
しかし数カ月後、家康は「豊臣氏が和議に違反した」として再び出兵し、「大阪夏の陣」が勃発する。城の防備を失った豊臣方は劣勢に追い込まれた。真田幸村が一時徳川本陣に切り込む奮戦を見せたが、形勢を覆すには至らず、豊臣秀頼と母の淀殿は自害。こうして豊臣家の直系は断絶した。
大阪冬の陣の布陣図。(ウィキペディア/CC0) この戦国期の悲劇から400年。欧州の戦場で似た構図が現れている。ロシアのプーチン大統領は先週、アラスカで米国のトランプ大統領と会談し、ウクライナ東部の要衝ドネツク州を全面的に割譲するなら戦闘を「凍結する」と提案した。
ゼレンスキー大統領は18日、欧州各国の首脳と共に再びホワイトハウスを訪れ、この条件を受け入れるかどうかという重大な岐路に立たされている。
日本経済新聞の編集委員、田中孝幸氏は「プーチン氏のウクライナ征服の野心は変わっていない」と指摘し、和議に応じれば豊臣家の「大阪冬の陣」と同じく、次の侵略を招く危険があるとの懸念を示した。
2025年8月時点で、ロシアはウクライナ4州の併合を一方的に宣言している。だが実効支配は限定的で、東部のルハンスク州はほぼ掌握したものの、ドネツク州、南部のヘルソン州とザポリージャ州はいずれもおよそ7割の支配にとどまる。
とりわけ南部戦線は2023年以来、ドニェプル川を挟んでにらみ合いが続き、大きな変化は見られない。こうした中、ロシア軍は戦略をドネツク州に集中させ、人海戦術に近い攻撃を繰り返している。
2024年10月23日、ドネツク戦線で警戒にあたるウクライナ第24機械化旅団の兵士。(AP) プーチン氏の提案は、戦場で流血を重ねても奪いきれなかったものを、交渉の場で容易に手に入れようとする試みと映る。懸念されるのは、米国のトランプ大統領がプーチン氏とほぼ歩調を合わせている点だ。トランプ氏は、ウクライナがドネツク州とルハンスク州を含む「ドンバス地域」を放棄すれば和平合意が成立するとの見方を示している。さらに同氏は、ロシアが書面で停戦を約束し、残る領土には攻撃しないと同盟国に説明している。しかし軍事専門家は、すでに膠着状態にある南部2州での停戦を条件に挙げても、有効な「見返り」とは言えないと指摘している。
2025年8月15日、アラスカ空軍基地の滑走路脇で会談する米国のトランプ大統領とロシアのプーチン大統領。(AP) プーチン氏の狙いが「ウクライナの併合」なのか、それともNATO勢力との間に「緩衝地帯」を築くことなのかは定かでない。この構図は、大阪夏の陣を前にした徳川家康が「豊臣家を完全に滅ぼすのか」「反抗の牙を抜くのか」と見られていた状況に重なる。正解は戦後にならなければ分からず、答えが明らかになった時には秀頼や淀殿には反転の余地は残されていなかった。ゼレンスキー氏にとっても同じで、最大の後ろ盾であった米国がすでにクレムリン側に傾きつつある中、残された選択肢は「拒否して米国の支援を失う」か「受け入れてドンバス前線を失う」かという厳しい二者択一となる。
ゼレンスキー氏が18日にホワイトハウスでトランプ氏に感謝を述べ、同行した欧州首脳も米国との対立を避ける姿勢を示したことから、ウクライナは和議を受け入れる可能性が高い。しかしそれは、まさに「ゼレンスキーの大阪城」が外堀を埋められ、防御を取り払われるに等しい。プーチン氏の誠意は信頼しがたく、トランプ氏の安全保障の保証も盤石とは言い難い。それでもなお、現状のウクライナにとって頼れる数少ない浮き輪であることは確かだ。米シンクタンクの研究員ベンジャミン・ジェンセン氏は、いま必要なのは「停戦監視部隊の条件」を具体的に考えることだと述べ、戦争終結への環境を整える必要性を指摘した。
ジェンセン氏による歴史分析では、停戦協定を結んだ戦争の31%が膠着状態に陥る。これは大規模な暴力の再燃を抑える一方で、根本的な対立を解消できない。さらに多くの停戦協定は10日以内に小規模な違反が発生し、65日から193日の間に大規模衝突が再び起きている。外部の監視者が介入すれば大規模暴力は減少するが、小競り合いを防ぐことは難しい。ロシアが停戦を再編成の時間稼ぎに利用してきた前例を踏まえると、今回も「平和のため」ではなく「戦力再配置」の手段にされる恐れが強いと警告している。
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プーチン氏が強く固執する戦略拠点ドンバス。(AP) 過去の「ミンスク合意」の失敗が示すように、曖昧な緩衝地帯や非武装監視団では敵対行動を防げない。必要とされるのは、ウクライナ軍、NATO監視員、あるいは中立的な平和維持部隊を組み合わせた強力な体制だ。1,000キロを超える前線を監視し、局地的な反撃を抑止するためには無人機群や砲兵、戦闘機部隊を伴う複合的な監視力が求められる。ジェンセン氏は、複数の多国籍旅団を編成し、ロシア・ウクライナ前線や西部の戦略拠点に配置して「挑発は多国間の直接関与を招く」とモスクワに示す必要があると提言した。 ただしこうした枠組みには高度な外交調整と強い政治的決断、さらに数千人規模の兵力を長期駐留させる膨大なコストが必要となる。より現実的な選択肢としては、訓練部隊をウクライナ西部に展開し、新編成の旅団や軍団司令部を育成して前線部隊の負担を軽減する案もある。この場合、多国籍部隊は支援と抑止の役割を果たすが、これは2022年の全面侵攻以前に試みられた方式であり、実効性には疑問が残る。
2025年7月10日、防空壕として利用される地下鉄駅に避難するキーウ市民。(AP) ジェンセン氏は、持続的停戦のためには領土線だけでなく、海上安全、空域管理、サイバー防衛、宇宙通信を含む包括的な交渉枠組みが必要と強調する。その上で、衛星や無人機、地上センサーを統合した監視体制を、調査・通報の権限を持つ国際的に信頼できる機関が運用することを提案した。さらに協定の実効性を確保するためには、ロシアが違反した際に自動的に発動する制裁メカニズムを導入し、段階的に圧力を強める仕組みを構築するべきだとした。
NATOや西側諸国は、訓練や装備の提供を通じてウクライナの防衛力を引き続き強化し、ロシアが再侵攻すれば即座に抵抗に直面することを明確にする必要がある。欧州各国には国防産業基盤への投資拡大と、ウクライナとの協力深化も不可欠だ。さもなければ、停戦協定は歴史を繰り返し、戦争を長引かせるだけになる。
ただしジェンセン氏の提言の多くは、すでにウクライナと欧州が実行している施策でもある。しかも、バイデン政権の全面的な支援があった過去3年半の間でさえ、プーチン氏は攻撃の手を緩めなかった。現在の国際環境では、トランプ氏が「同盟国のただ乗り」を拒んで孤立主義に傾くのか、あるいは評論家の指摘するように「逆ニクソン戦略」でロシアと手を組み中国に対抗しようとしているのかは不透明だ。いずれにせよ、米国が過去数年のように全力でウクライナを支援する可能性は低下しており、プーチン氏が国際情勢を恐れる理由は乏しいのが現実だ。
プーチン氏はドネツクの未占領地域の割譲を要求しており、ウクライナにとっては重要な防衛線を失うことを意味する。